城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

近江・坂口城 賤ヶ岳の戦いで大岩山と北国街道を挟む防衛ラインの一翼だったか?

2019-03-19 | 歴史
坂口鳥では滋賀県余呉町坂口にあります。  詳細が伝わっていませんが、その位置関係から大岩山に陣した中川清秀との関連が考えられ、大岩山砦と坂口砦で間を通る北国街道の防衛ラインを形成していたかもしれません。
 秀吉軍の本陣機能を持った田上山砦の北外郭からは北に約1000mの場所になります。


坂口砦、大岩山砦、田上山砦と北國街道と余呉湖の位置関係の地図 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆


坂口砦 南からの全景 巨大な砂防堰堤て旧道と森の前川の状況は変わった
砂防堰堤工事で、地図上に有った旧道(山道)は失われてしまったようでした。森の前川を渡って斜面をよじ登るように直登しました。


坂口砦 主郭の南側の切岸と浅い堀切、南側の削平地 ?マークが付く
坂口砦は明確な縄張図がないようなので、遺構については断定が出来ませんでした。?マークをいくつも頭に浮かべながら見学しました。
主郭(右手)と思しき地点の南側の尾根は削られて切岸状の地形があり切岸に続くごく浅い堀切があるようでした。その左手は削平地となっています。


坂口砦 主郭を北側から見ると、堀切のない切岸と尾根を削った削平地が見える
倒木等で荒れているので明確な地形が読み取れませんが、主郭部は削平されており、北側にも切岸と削平地はあるようでした。 其処より北はなだらかな尾根になります。


坂口砦 堀切状地形
主郭から山側に伸びる尾根に浅い堀切状の地形がありました。人工の地形ですが、堀切として機能していたとすれば浅すぎるように思いました。年月の経過で埋まってしまったのかもしれませんが、表面観察で堀切と断定は難しそうでした。


坂口砦 山側(北方向)へ伸びる尾根上の道
尾根上の道は城郭遺構ではなさそうです。砂防堰堤工事で失われた山道がここへつながっていたのかもしれないと想像しました。
 
坂口の集落からは山上の管山寺への信仰の道があり、今も残されているようです。田上山砦にも管山寺への道標が出ていましたので、今でも訪れる人が多い人気のスポットのようです。
 ひょっとするとこの山道も管山寺参りの信仰の道だったかもしれないと想像しました。多くの人が踏み固めたので明確に残された道のように見えました。

坂口砦は賤ヶ岳の戦いで大岩山砦が柴田軍に奪われたときに田上山砦への侵攻を食い止める最前線に一時はなったのかもしれませんね。
          
               坂口砦:イメージ図 国土地理院地図に加筆

近江・田上山砦 賤ヶ岳の戦いで本陣機能を果たした遺構の残りが良い城郭

2019-03-16 | 歴史
田上山砦は滋賀県長浜市木之本町にあります。
 信長の小谷城攻めのときには朝倉義景が陣を構えたと言われますが、現在残る城郭遺構は賤ヶ岳の戦いで秀吉の弟秀長が対柴田勝家との戦いに備えて田上山に砦を構えたときの陣城の遺構と考えられています。


田上山の南麓の意富布良神社に駐車場がありました。 意富布良神社右手には登山道の石柱があり、かつてはここからの道が有ったようですが、この道は失われて今は左側の田神山観音寺の左手に整備された道があります。訪れたときは台風での倒木を処理中でしたが注意して通行すれば大丈夫でした(あくまで自己責任で!)。 ※意富布良は「おほふら」と読むようです、難しいですね。


現地案内板 長谷川博美氏の縄張図と解説の看板が随所に立てられています


中腹の南堀切 山上の案内板の縄張図には描かれていない
登山道をしばらく登ると南堀切がありました。幅の広い南尾根を断ち切るために長い堀切が掘られていました。登山道で一部の改変がありそうですが、遺構は殆ど残っていました。 田上山砦最初の見どころです。


案内板の① 南郭横矢折れ
南堀切を通り山下から登ってくる城道が左下を通っています。ここを通る敵を迎え撃つための横矢掛の場所です。とてもわかり易い遺構が残っているので、横矢掛の言葉の意味がよくわかります。


北郭③から主郭②へ入る虎口と土橋 ③側から見ています
遺構がよく残っていてとてもわかり易い虎口と土塁です。土橋の両側には堀があります。直進できないように通路が微妙に曲がっている点にも注目です。


北郭③の北虎口 角馬出 風化があるが構造がよく分かる
角馬出の土塁は風化が目立つが、案内板の図と見比べると、形状が理解できました。ここでも通路は2度曲がらないと北郭③に進めない構造でした。ここも田上山砦の見どころです。


北外郭⑤と翳し土塁
北郭③と北外郭⑤の距離があるが、ここは兵を込める兵站が有ったとされます。北端には翳し土塁を備えた虎口があります。翳し土塁は敵に城内を見られないように虎口の外側に作られた目隠しの施設で、ここではL字型になっています。田上山砦では北外郭の守りが一番手薄なようにみえます。北方の要所には多数の秀吉軍が大量に配置されていたためかと想像しました。
 ここでも通路は4度折れ曲がっていて直進は出来ない構造です。
翳し土塁は角馬出と形状は似ていますが、内部に兵が留められるかどうかで、機能が分かれるようです。


西郭④の横矢枡形と虎口
西尾根の先端部には西郭が築かれ其処に至るまでの細長い尾根の両サイドには堀切がありました。西端の虎口の通路は直進が出来ますが登りになっていて進行スピードが落ちます。虎口横には横矢枡形が備えられていて、ここから虎口を通る敵兵と西郭④西下に溜まった敵兵を狙います。この距離であれば矢でも鉄砲でも百発百中間違いなしですね。

田上山城は見どころが多くて一部しか紹介できませんでしたが、随所に立てられている案内板で、遺構の隅々まで見学でき、面白い遺構をたくさん見ることが出来大満足の城郭でした。





三河・左京殿城 遠江へ抜ける主要街道を抑える城

2019-03-13 | 歴史
左京殿城は愛知県豊橋市嵩山町にあります。町名の嵩山は「すせ」と読みます。
 小枝左京進が築城したと伝わリますが、その後この地域で勢力を伸ばしてきた西郷氏によって大永三年(1523)に追われてこの地を去ったとされます。
左京殿城の北東800mには、西郷氏の支城である月谷(わちがや)城があり、小枝氏から奪った後には街道を押さえる月谷城の支城の役割を果たしていた可能性が考えられます。


左京殿城周辺地図 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
左京殿城の北側には本坂峠越えの古い主要街道が通っていますが、城の下を362号線の道路工事で削り取って堀などの遺構が一部失われたように見えます。西側は農業用水路がありますが遺構には影響をほとんど与えていないようです。


左京殿城のの見どころは大きな堀
北側は一部削り取られたようですが、その他の遺構はよく残っています。中でも写真の堀は圧巻で、この城の見どころになっています。


石積も城郭遺構の可能性ありか?
土留状の石積が残されています。見たところ後世の耕作地として使われていないようなので往時のものの可能性がありそうです。

駐車は市民館の駐車場を使わせていただき、農業用水の橋を渡って見学しました。小ぶりの城郭ですが、よく見ると堀だけでなく城郭パーツが揃っていて、手軽に楽しめる城址でした。

三河・岩津城 歴史が折り重なった松平氏飛躍の原点の城 整備が進んだ

2019-03-10 | 歴史
岩津城は岡崎市岩津町にあります。
 徳川家康の祖先の松平氏が山間部の松平郷から勢力を伸ばし三代松平信光のとき応永二十八年(1421)にこの地の土豪中根大膳を滅ぼし、城を築いて松平郷から本拠地を移しました。ここから松平氏は大きく飛躍して九代家康に至って天下を治めることになりました。

岩津城は永正年間(1504~21)頃に廃城になったと伝わりますが、最近では豊臣秀吉と徳川家康が対立した小牧長久手の戦いの頃に秀吉軍に対する防衛ラインの一環として改修がされたと考えられています。今見る姿は、改修された岩津城と思われます。

何度も訪れている見どころの多い城郭ですが、今回は新聞記事で「地元の中学生などの応援を得て、整備が行われた」ということで、訪れました。いつもはボランティアの方が整備をしてくださっていますが、城域が広いので今回は応援を求めたということのようです。


岩津城 宅地化と東名高速の工事で削られた部分があるが、主要部は残る 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
東側は東名高速の工事で城域をいくらか削られたようです。南側は住宅地化で、城域が広がっていたかはよくわかりませんが、松平信光創建の信光明寺があるのでこの辺りまで城域だったかもしれません。


以前は私有地のため入口2からは入れませんでした。


今回、山側を少し削って、歩道がつけられていました


岩津城 主郭 以前は削平面全体にに伐採した竹が散らばっていた


岩津城 主郭 今回、削平面の竹は整理されていました


岩津城 主郭南虎口の土橋 奥に虎口。 土橋の両側は広くて深い堀が主郭を守る
岩津城は、土の城ですが、いくつもの曲輪の周囲には深くて幅の広い堀が掘られ、曲輪は土塁で囲まれています。特に南側を意識したと思われ、北側に比べると格段に強化されています。

岩津城の東側には岩津天神社があり、初詣と受験シーズンはとても賑わいます。また菅原道真公にちなんで梅林が整備されているので、梅のシーズンにも多数の参拝者が訪れます。


三河・久保城と周辺 奥平氏の存亡を賭けた「久保城の密談」が行われた城

2019-03-07 | 歴史
久保城は愛知県岡崎市石原町にあり、所在地は城山と呼ばれています。
 三河奥平氏が作手地区から勢力を広げ、宮崎地区を領した時に拠点となった城です。その後武田軍の南下によって奥平家も難しい去就の選択を迫られていました。武田の軍門に下るか、あくまで家康方に踏みとどまって戦うか、一族の存亡を賭けた密談がここ久保城で行われたと伝わります。結局、一族を密かに二分して生き残りををかけることと決し、武田に人質を出すことになりました。この人質が後に武田によって13歳で見せしめのため殺害される奥平仙千代です。


久保城付近の図   国土地理院地図をカシミール3Dで加工加筆
久保城を取り巻くように男川が流れ、対岸には小代城があり、西側の尾根上には古城砦があったとされます。


昭和の久保城 削平地は田となった 宮崎小学校側から写す 『奥平氏と額田」より引用
今は二の曲輪部分は企業の研修施設となり往時の姿は一部失われているが、山側の背後を断ち切っている大きな堀切が現存しています。また主郭部には櫓が建てられて城址の雰囲気を出しています(模擬櫓)。川沿いには帯曲輪状の田がありましたが、城郭遺構かどうかは判然としません。現在は植林がされて写真の地形を見ることは出来ません 残念!


主郭部の櫓
模擬とはいえ木造の立派な櫓で、地元の大工さんの手によるものとのこと。今は登れますが、風雨にさらされているので、傷んでくると他所でよく見る「立入禁止」の櫓になってしまうかもしれません。


背後の山側の大きな堀切
思いがけない堀切の遺構に出会った感じです。東と北を川が取り巻き急な崖になっていますし、西側は深い沢があり、南東の山側だけが久保城の弱点になっているので、ここを大きく掘り切って防禦を固めたと思われます。


小代城と古城砦 小代城は宮崎小学校となっている
小代城は宮崎小学校となり、往時の土地形状も失われています。古城砦は小代城の詰城の位置づけと考えられます。どちらも伝承の城と砦のようで確たる資料はないようですが、ここの地名は「古城」です。

旧道は久保城付近で渡河していたようで、以前は久保城の北下に橋があり道もありましたが今は橋は新道に変わり橋も道も失われてしまいました。

奥平氏は、戦国を生き抜き長篠設楽原の戦いでは長篠城を守り、江戸期には豊前の中津城城主となり明治まで続きました。

※参考文献 『奥平氏と額田』 額田町教育委員会 2005