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土居城と上土居城 美濃 鳥羽川を挟んだ二つの城の関連はあるのか

2024-07-21 | 歴史
土居(つちい)城は岐阜県岐阜市下土居にあります。城主に土居駿河守頼継の名が伝わりますが、城歴等の詳細は不明のようです。上土居城は鳥羽川を挟んで上土居に築かれている山城ですが、詳細は不明です。今回の資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第2集」岐阜県教育委員会2003  (2)「城」第138号 東海古城研究会1990 などです。

土居城と上土居城 土居城は館城 上土居城は山城
 資料(1)によると、土居城は鳥羽川の蛇行による自然堤防上にあったと推定され付近よりも少し高かったとされます。

土居城 図2  昭和23年の空中写真 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
土居城 現在の地図に土居城推定地を落とし込む
 戦後まもなくの空中写真では、資料(1)で示された土居城推定地には住宅があるようですね。写真右側には南北に水路が流れ(現存)、その堤の痕跡がユニクロ付近の土地の高まりとなっているように思いました。
土居城 城址推定地あたり 南側の道路の南東から
 現況は、具体的な遺構や地形の確認できませんでした。 

上土居城 熊野神社西側尾根を登る 踏跡は不明確
 今回の見学は図1ノ熊野神社の西側尾根の道aを登り、帰路は道gを下りました。Ⅰ郭には熊野権現社が祀られていましたが、最近ではお参りをする人も絶えているようで、道は踏跡も薄れていました。

上土居城 道a途中の採石跡?の地形
 図4の石採跡?は自然地形ではないようでした。周囲の山にも土採りや石採りの跡がみられ、城郭遺構の改変につながっている場合もあるようです。

上土居城 Ⅱ郭南辺の虎口状地形は後世の破壊道かも
 資料(2)の縄張図では、この虎口状地形は描かれず、道はⅡ郭東辺を巻くように描かれていました。南から登ってきた道が直接Ⅱ郭へ入る構造は?ですから、城道は図4のbだったのではないでしょうか。

上土居城 Ⅱ郭東辺を巻く道bは不明瞭 南から
 道bは長らく使われていなかったためか、不明瞭な状態でしたが歩くことはできました。

上土居城 Ⅰ郭と東側を通る道a 南から Ⅰ郭奥に熊野権現社
 道aはⅡ郭からⅠ郭の東側を通っていましたが、ここから先は明瞭ではない状態でした。

上土居城 Ⅰ郭西辺の土塁②と熊野権現社 南から 
 Ⅰ郭の土塁②は城郭遺構と思われます。社の三方を守る土塁の場合も見かけますので断定は難しいですね。なお土塁②の東辺部分は道aによって削られたように見えました。
上土居城 竪堀③ 南東上から
 上土居城は堀切が浅く不明瞭でしたが、この竪堀は明瞭でした。土塁②と竪堀③の備えを見ると、北側に向けての守りが厳重だったように思いました。
上土居城 平場④ 奥に浅い堀切⑤ 南から
 Ⅰ郭の北側尾根にも幾つかの城郭遺構がありました。堀切⑤は風化で埋まっているとしても、元々浅かったのではないかと思いました。

上土居城 Ⅲ郭南辺の土壇⑥と想定道C 北から
 北尾根のⅢ郭の南辺には写真のような土壇(土塁)がありました。Ⅲ郭からⅠ郭への道を迂回させる土壇のように見えました。踏跡が見当たりませんでしたので道Cは付近の地形から想定しました。

上土居城 堀切⑦ 南から 手前にⅢ郭 奥にⅣ郭
 北尾根には⑤と⑦2条の堀切が設けられていたと思われますが「尾根を断ち切る」とは言い難い浅いものでした。

上土居城 Ⅴ郭北辺の土塁⑧と道d 東から
 北尾根北端部のⅤ郭からは尾根道eが土塁⑧の西側を一部削って北西方向に延びていました。付近の地形から、古い道は土塁⑧を回り込む道dでⅤ郭に入ったのではないかと想像しましたがどうでしょう。

上土居城 道gの社跡? 南から
 帰路は図1の道gを下りました。道沿いには社跡と思われる石壇などがいくつか見られ、Ⅰ郭の熊野権現社の参道もここだったのではないかと思いましたが、道を倒木がふさいだりしていて、今は使われていない道のようででした。

土居城と上土居城の関連は不明でしたが、土居城では館城の跡地の確認ができ、上土居城では北に向けた備えを見学できて良かったです。資料⑵では付近の船田合戦終焉の地の城田寺(きだいじ)城、上城田寺城などの紹介もされていましたので合わせて見学出来ました。