城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

伊勢・前田城 2ヶ所残る虎口地形、山下の城館跡などコンパクトながら興味深い

2020-05-24 | 歴史

前田城は津市安濃町中川前田にあります。
 資料によると伊勢の雄族長野氏の一族である草生氏の家臣として前田の地を領したのが前田氏で江戸期には子孫が館跡に住まって代々庄屋を務めたとされます。
 今回は「改訂版 津の城跡50選2016」を資料として出掛けました。写真をパソコンに取り込む際の手違いで画像データをすべて失ってしまいましたので、記憶によって概念図を作成しました。記憶の誤りはご容赦ください。


前田城 詰の城と山下の城館跡    ※津市都市計画図に加筆
 前田区公民館の駐車場に車を停めて、集落内の旧道を歩いて前田城に向かいました。


前田城 山下の居館跡 A、B2段の石垣が見事。石垣の角は本格的な算木積み
 前田氏は藩政期には庄屋を務め、屋敷は藩主の鷹狩の折などには休憩所になっていたというだけあって、屋敷地に残る算木積み、切込接の石垣は立派なものでした。


前田城 概念図 ①と②に虎口状地形が残る。 a、b2方向からの道が残る
 資料ではbから登る道が紹介されていましたが、今回は屋敷地の石垣を見ながらaの道から登りました。
A,Bの石垣の敷地は江戸期に造成されたものでしょう。築城時にどんな形状であったかは想像するしかありませんが山城を詰城とすれば、往時もこのあたりに館を構えていたとしてもよいのではないでしょうか。

の急な道を登り切るとⅣの平坦地に出ました。道は奥に続いていましたので、今では山仕事の道になっているようでした。Ⅳはきれいに削平された場所でしたので、城郭関連でなければ山畑か墓地が有ったのかもしれないと思いました。
 ⅣからⅠ郭(主郭)に向かう城道の途中に虎口状の地形①と腰曲輪地形がありました。①は道の両側に土塁状の地形が有りⅠ郭からも矢が届きそうな距離でしたので虎口の可能性があると想像しました。
 道は腰曲輪を通ってⅠ郭の南に回り込み土塁④の南端部手前でⅠ郭に入るようになっていました。Ⅰ郭の南東下の⑥付近の法面は土採りされたような地形で急崖になっていました。ここにも道があったようでしたが崖で不自然に途切れていました。
 Ⅰ郭には北と西に土塁が残されていました。北西隅は虎口状に開口してⅡ郭に下っていました。

の道は愛宕社などの参道として使われているようで、社の手前の道には鳥居が立っていました。道は社の後ろに続いていてⅡ郭へ登る道になっていました。Ⅱ郭へ登る段差があるので虎口状に切れ込んだ地形となっていました。資料では堀切となっていましたが、しいて言えば虎口のような地形でしょうか。
 この道はⅠ郭に直結していますので、ヒョットして社がⅠ郭に祀られていた時期があって、参道として開かれた道だったのかもしれないと想像してみました。だとするとは単なる登りの切通ということになりますがどうでしょう。

Ⅲ郭の道をⅣ郭から西に回り込んだ場所でした。北向きで、ゆるい傾斜のある削平地でしたが、有事の際の兵站地と考えられると思いました。

前田城は山下の屋敷地の2段の石垣が見事で、山上の遺構も想像以上で良かったです。

※草生氏の拠った草生城は前田城の北西約1.9kmにあり、別の日に見学しましたので折を見て記事を掲載したいと思います。


三河・黒岩砦と岩伏砦 名倉地区の城砦ネットワークの二つを訪れる

2020-05-20 | 歴史

黒岩砦と岩伏砦は愛知県北設楽郡設楽町西納庫にあります。名倉は納庫、菜倉などの字が宛てられます。
 名倉地区は奥三河の境目に位置し今川、武田、織田、徳川に翻弄され、最終的には作手奥平氏から名倉に入った奥平氏が徳川氏に従ったとされます。
 今回は「信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編 」宮坂武男著 を資料として出掛けました。

黒岩砦は山下の清水城の詰城とされ、狼煙台としても使われ、砦の東側のトーフ坂と呼ばれる旧道と周辺の監視の役割が有ったといわれます。※参考:清水城はこちら
 トーフ坂の名前が面白いので、その由来を知りたいと思いましたが調べきれませんでした。トーフは今の豆腐のことではないかもしれませんね。

岩伏砦は武田氏の狼煙台という伝承が有り、奥三河の情報を伊那谷方面に伝える役割を担っていた可能性が指摘されています。登山道から山頂まで巨石がゴロゴロしていました。


黒岩砦と岩伏砦 名倉地区の城砦ネットワークの北部に有り、信濃方面への連絡機能を担ったとされる
 この地方から伊那谷にかけての武田信玄の人気は高いので、砦と武田氏を関連付ける伝承が生まれた可能性もありそうだと思います。


黒岩砦 林道終点から送電鉄塔の保守道を登る。 林道終点手前の道路余白に駐車
 黒岩砦へは、トーフ坂を通る旧道(上図Aのルート)から登るのが本来の道と思われますが、地図上に残されていないので、林道終点から中部電力の送電線の鉄塔の保守道を登りました。麓には「お約束の」害獣ゲートが有りましたので、これを開け閉めして進みました。
※帰宅後調べたところ、道Aは古い地図には記載されていました。
 

黒岩砦 遺構は明確でなく、簡易な見張所程度の物があったか
 黒岩砦はほぼ自然地形に見えましたが、山頂部の平坦部には巨石が目立っていました。


黒岩砦 山頂部に鎮座する黒い巨石・・・だから黒岩山
 この巨石を見ただけでも、ここまで来た甲斐が有ったと思えるボリューム感と形でした。石の上面は平なので、ここで見張りをすればよく見えただろうなァと思いました。


岩伏砦 津島神社の鳥居をくぐってウォーキング道を登る。神社脇には名倉奥平氏の墓石が祀られる
 岩伏砦は黒岩砦の東方約1.6kmの岩伏山山頂にありました。岩伏砦は武田氏の狼煙台だったとする伝承があるそうです。
 黒岩山もそうでしたが、岩伏山も登山道や山頂に巨石がゴロゴロで、巨石を楽しむハイキングコースと言ってもいいほどでした。


岩伏砦 登山道は途中茶臼山高原道路を横切って進む。 岩伏山登山道の道標あり
 茶臼山高原道路は以前は有料道路でしたが、今は無料化された観光道路です。岩伏砦を目指す場合には付近に適当な駐車場所がないので津島神社の社前駐車場から歩きます。ここへ来るまでに「お約束の」害獣ゲートが一つありました。
 登山道は、ハイキング目的で整備され、途中には随所に道標や見どころ表示板が立てられていました。


岩伏砦 山頂部の砦遺構は人手が加わった部分がほとんどなさそう
 途中の巨石群を楽しみながら、汗をふきふき登ってきましたが山頂の砦跡は人手が加わった様子が殆どありませんでした。岩山に築かれた狼煙台の機能に特化した砦なので、往時の姿もこれに近かったのかもしれないと思いながら見学しました。


岩伏砦 はなたれ岩 命名の由来は不明だが大きさには圧倒される
 巨石堪能ハイキングではないのですが、行きも帰りも多数の巨石を見ることが出来ました。ここまでデカいと何やら神秘的な力を感じます。

名倉地区の城砦ネットワークの黒岩砦と岩伏砦の二つを見学しましたが、どちらもいわゆる城郭遺構らしい地形はなさそうでしたが、ネットワークの中でその目的とする役割を果たすには、これで十分だったのかもしれないと思いました。




 




美濃・玉城 旧陸軍関ヶ原火薬庫で遺構がほぼ完存し見どころが多い美濃と近江の境目の山城

2020-05-16 | 歴史

★新型コロナウイルスの非常事態宣言発出以来、城巡りも付近住民の方の視線が厳しくなっているようなので     自粛中です。当分の間も過日訪れて見学した記事を掲載します。

玉城は岐阜県関ヶ原町玉にあります。玉はそのまんま「タマ」と読みます。
 美濃と近江の境目にで関ケ原の西に位置した山中に有り、近江から美濃への敵侵入を監視・抑制する役割を担っていたと伝わります。
 築城者、城主の詳細は不明とされますが、岩手竹中家の家臣が守ったという伝承もあるようです。
今回は「岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第1集」 岐阜県教育委員会2002を資料として出掛けました。

玉地区には旧軍時代に陸軍の火薬庫が置かれ、周辺の広い範囲が陸軍の用地となっており、玉城の遺構もその範囲に含まれてほとんど改変がされていなかったので、城郭遺構はほぼ完存状態でした。
 ※火薬庫は玉城の北東≒1kmにあり、今もその遺構を見ることが出来ます。
 
玉城 道は城山へのハイキング道になって、整備が行き届いている
 駐車位置から城山(玉城 主郭①郭)まで、整備されたハイキング道があり、20分ほどで到着できました。


玉城 城山ハイキングコースの表示道標が分岐点には立っていて道は整備されている
 道のある尾根道が火薬庫の敷地の東端部になるようで「陸軍境」の表示石柱と、かつては鉄条網が張られていたと思われるコンクリート柱が随所に見られました。 ※城道入口付近の道路余地に駐車は可能でした。


玉城 「陸軍境」の石柱 ハイキング道から城址西端まで、石柱が立っている
 戦争遺跡とも言える「陸軍境」の石柱だが、火薬庫の立入禁止区域だったために城郭遺構は守られたということになりました。


玉城 主郭①郭と帯曲輪②郭、更に下段の帯曲輪③郭の切岸が主郭を守る
 玉城は西(近江)に向けての防御が厳重な構造になっていました。東側は浅い竪堀以外には自然地形の法面で帯曲輪も切岸もなく、一部に腰曲輪が見られるだけでした。


玉城 主郭西側の帯曲輪③を断ち切る竪堀と竪土塁 上から
 玉城の西側に向けた防御施設は厳重で、主郭から2段下がった帯曲輪③の途中には帯曲輪での左右の移動を妨げる深い竪堀と土塁が何条も設けられていました。


玉城 帯曲輪③を断ち切る竪堀。帯曲輪を横切って竪堀として落ちる。見どころの一つ
 玉城の帯曲輪③の竪堀は、帯曲輪を横切って斜面に落ちていました。
資料によれば古い構造の城郭に補強のため後に手を加えたと考えられるとされます。


玉城 西端部の大堀切。両端は竪堀となって切れ落ちている。見どころの一つ
 西側の備えを強化するための尾根を断ち切る大堀切が有りました。両端は深い竪堀となって切れ落ちて、西側からの敵の侵入を阻止する構えとなっていて、玉城の見どころの一つでした。


玉城 主郭① 西端下尾根の「陸軍境」石柱と鉄条網跡?のコンクリート柱
 登ってきた道の途中で見かけた「陸軍境」の石柱とコンクリート柱が城址の反対側の西尾根まで続いていました。おかげで、と言うのも変ですが、これが玉城の遺構がほぼ完存状態の理由のようです。
 
主郭①郭は通称「城山」で、ハイキングのための四阿が立っていました。①郭には一部に低い土塁が残されていますが、大きな穴もありました。城郭遺構としては大きな穴の意味がよくわかりませんが、ヒョットして戦時中に火薬庫を守る防空施設(高射砲陣地?)などがあったのかもしれないと想像して見学しましたが、どうでしょう。

玉城は整備された道で楽に訪れることができ、遺構がよく残る城址をたっぷり見学できて大満足でした。






 


三河・御園殿屋敷と御園砦 奥三河に有る今川、徳川、武田の境目の砦と舘をたずねる

2020-05-12 | 歴史

御園殿屋敷と御園砦は愛知県北設楽郡東栄町美園にあります。
 御園の奥山氏は遠江の水窪を領した奥山氏の一族で、今川氏に属していましたが徳川家康の遠江侵攻で徳川氏に属し、武田氏の南進で武田に属しました。その後武田氏の滅亡によって再び徳川に属しました。奥三河の境目に位置する小勢力の宿命を御園の奥山氏も逃れることが出来なかったと伝わります。
 今回は「史跡散策 愛知の城」と「愛知県中世城館跡調査報告3」を資料として出掛けました。
奥三河山間部の旧道は車の時代になって、往時とは道筋も大きく変わってしまった場所も多いので、その点も見てゆきたいと思います。
 御園砦は御園殿屋敷の詰の城として有事に利用された、奥山氏本家と通信の狼煙台だった、見張台だったなどが考えられるようです。望月峠の通行を監視するには少し離れすぎている(500m)ように思いました。


御園殿屋敷と御園砦 詰城と館をセットで眺めることができる
 御園砦は御園殿屋敷の北方の山上にあり、今は無線中継所の施設が建てられています。資料によると殿屋敷周辺は古い地名が残されているようですが、明確な遺構はなさそうでした。地名に該当すると思われる屋敷地形は残されていましたので、想像して楽しむ範囲でした。


御園殿屋敷と御園砦 国土地理院地図では御園殿屋敷への道はわからない。御園砦へは林道を大回り
 御園殿屋敷への道は行き止まりの道で、山間部の利用が少ない道のためか国土地理院地図には描かれていませんでしたので下図の空中写真を参照してください。花まつりの舘周辺に駐車して歩くのが良さそうでした。
 御園砦へは御園トンネル南端を右折して林道を進み、余白地に駐車しました。歩いてなら真地から望月峠への旧道がありそうでしたが今回は歩いていません。


御園殿屋敷 周辺の空中写真  興味深い地名が見える
 資料によると殿屋敷を中心に周辺にいくつもの屋敷地名が残されています。今は殆どが畑地ですが、往時の地割りがかなり残っているように思いました。


御園殿屋敷 ジョウグチ の地名が残る場所  
 現在は車の道になっていますが、付近には旧道と思われる細い道が残っていました。殿屋敷の入り口にあたるので ジョウグチ と呼ばれる場所なのかと勝手に納得しましたがどうでしょう。


御園屋敷 地名と地形が合致しているように見える
 地名ごとに段差が残っていました。いかにも段ごとに屋敷が構えられていたように思える地形が広がっていました。板屋には住宅が立っていましたが、石垣は宅地化による後世のものかもしれないと思いました。


御園砦 今は無線中継所が建ち、遺構は残されていない
 林道から尾根筋を登って美園砦へ到着しました。今は無線中継所の局舎が建設され、遺構は失われていましたが、資料の縄張図と照合して「在りし日の」御園砦を想像しました。


御園砦 無線中継所付近の表示版「御園富士」「岩山山頂」とある
 御園砦のある山は「岩山」と呼ぶようで、地元では「御園富士」と呼んでいるのでしょう。
遺構としての地形は失われましたが、麓の御園殿屋敷から見た山は御園富士と呼ばれても納得でした。


御園殿屋敷と御園砦 現在の道路と照合するのが困難   
 付近の戦前の地図を見ると、神社から望月峠を越える道がメインだったようですが、今は御園トンネルが出来て周辺道路もすっかり変わっていました。  ※国土地理院5万分の1 旧地形図はこちら
 御園殿屋敷周辺の道も戦後の道路改修で大きく変わり、旧道は埋もれてしまいました。遺構見学で道との関連を考える場合、現在の道が往時の道とどう関わっているかに注意しなければいけないと改めて感じる見学になりました。
 


遠江・亀井戸城 信玄が二俣城攻撃の拠点とした合代島はここか?城郭の土壇は古墳かも

2020-05-08 | 歴史

亀井戸城は静岡県磐田市下野部町にあります。
 磐田原台地の北端部に位置し、合代島と呼ばれる地域の山尾根に築かれています。元亀三年武田信玄が三方ケ原合戦の前に二俣城を攻めたとき、合代島を本陣としたと伝わりますが、ここ亀井戸城が合代島に比定できる可能性があると言われます。
 今回は『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978 を資料として出掛けました。


亀井戸城 天竜川と周辺河川に削り残されたU字型の西尾根と東尾根に遺構が残る
 雲済川が天竜川に流れ込む合流点に亀井戸城は築かれています。付近には多数の円墳、前方後円墳の古墳群がありましたが現在は工場用地として造成され、新平山古墳群の表示はあリますが古墳は失われてしまいました。
資料によると、東尾根の①②及び西尾根のA,BとCがそれぞれ郭の跡とされますが、現地で見ると①、②、A、Bは古墳だった可能性がありそうに見え、Eも古墳だったように見えました。
 今回の見学では西尾根に⑥から登りましたが、④または⑤から楽に登れる道が有りました。③には尾根を越える道が残っていました。尾根上の耕作地への道としても使われていたようです。
 上図のDは土塁状の地形で、そこには⑤の道が通る堀切地形と⑦の堀切を見ることが出来ました。
明治時代の旧版地形図を「今昔マップ on the web」で見ると①、②のある東尾根は道路で合代島と分断されたのがわかりました。ヒョットすると道路で失われた郭があったかもしれませんね。
 ※「今昔マップ on the web」はこちら


亀井戸城 西尾根北端のA郭  最高所に小祠が祀られている
 資料によると、南郭・北郭・東郭と別郭(出丸)があるとされていますが、西尾根にある郭名がどれに該当するのかがよくわからなかったのでA,B,Cとしてあります。
 A郭は三方を急峻な崖に囲まれた東尾根の先端部に位置し物見台としては最適な位置にあり5km先の二俣城まで障害物がなく見通せます。
 写真の地形のように、なだらか円形の土壇があり土壇周辺に切岸地形や堀地形は見当たりませんでしたので古墳ではないかと思いました。
 

亀井戸城 西尾尾根B郭 なだらかな土壇状の地形
 B郭もA郭と似たような地形で、円形の土壇状の地形でした。周りに目立った城郭遺構らしき地形が見当たりませんでした。


亀井戸城 B郭からC郭に段々の平坦地が広がっている
 国土地理院Webで戦後まもなくの航空写真を見ると、亀井戸城のある尾根のかなりの部分が耕作地として使われていたことがわかります。写真の地域はその耕作地の中心部分にあたります。まるで屋敷地があったようにも見えますが、往時の地形ではなさそうでした。


亀井戸城 東尾根のC郭内部の平坦面 北、東、南には土塁が残る。西側は耕作地で削られたようだ
 東尾根の南部のC郭は、明確な城郭遺構で三方向の土塁が残されていました。C各内部は削平されていましたが、写真ではブッシュが邪魔をしていますね。


亀井戸城 C郭 北辺の土塁 東から
 C郭の土塁の残りは良好でしたが、整備はされていないのでブッシュに隠れて、写真では余り明確に写っていませんね。※肉眼ではOKです


亀井戸城 C郭に隣接する土壇E A、B、Eの土壇状の地形では最大
  C郭の土塁と一部が接するように大きな土壇Eがありました。これも古墳の可能性があるようで、いわゆる盗掘跡の地形が残されていました。城郭遺構としては櫓台に相当する位置にある土壇でした。


亀井戸城 東尾根の①郭  北から。今は墓地として墓石も有り現役でした
 資料では、東尾根を出丸としています。①郭は現在、個人所有らしい墓地となっていました。一段高く盛り上がった土壇状の地形の上部を削って墓地として使っているように見え、ここも古墳だった可能性があるようでした。


亀井戸城 東尾根北端部の②郭 北下から 切岸が残る
 ②郭は削平され東、北、西の各辺に切岸が見られました。②郭の東下には耕作地跡が広がっていますが、今は山林になっていました。
 ②郭の削平地は後世の墓地が最近まであったらしく、整備された平坦地になっていました。墓地化の時点で削られたとすればここにも古墳があってもおかしくない地形でした。
 
亀井戸城は古くから人が住み着いて多数の古墳が残された交通の要衝にあり、天竜川を挟んだ敵地の見通しもよく、信玄の本陣が置かれたという伝承に納得の見学ができました。