城と歴史歩きを楽しむ

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田口城 信濃 多数の平場は曲輪か?桑畑か? 興味深いが判断の難しい遺構が多い城郭

2022-08-27 | 歴史

田口城は長野県佐久市田口にあります。田口の地名は以前の田野口村に由来していて、城名も田野口城、田ノ口城という場合もあるようです。城はかつて山下の蕃松院付近にあったとされる田口氏の田ノ口館の詰城として築かれたとされます。
 田ノ口館は、初期の田口氏の館とされ1400年代までさかのぼるようですが、山上の田口城がいつ、今見る姿になったのかは判然としないようです。甲斐・信濃の境目の城として、武田氏の侵入、織田氏、北条氏の侵入を受け、最終的には天正十年に徳川方に属した依田信蕃に攻められ、城主依田能登守が退去し徳川の支配下に入ったと伝わります。今見る田口城は、明治以降に盛んとなった養蚕のための桑畑や耕作地となっていた時期があり、往時の姿の見極めが難しそうでした。
 今回の参考資料は(1)「南佐久郡古城址調査」南佐久教育部会発行1935  (2)「図解 山城探訪 第9集 佐久南部資料編」宮坂武男編2000  (3)「南佐久郡誌」南佐久郡役所1919  (4)「臼田町誌」臼田町誌編纂委員会編20007 などです。


田口城 今は城域全体が森林となっているが、多数の平場が残る
 田口城へは蕃松院付近からの登山道があるようですが、今回の見学では時間の都合で山上の駐車スペースまで林道を車で登りました。※龍岡城と枡形は→こちら


田口城 多数の平場が残るが、すべてが城郭遺構か?  本丸①を中心に見学する
 明治時代以降に養蚕が盛んだった時期があり、戦後の食糧難の時期も乗り越えてきたので地形が往時のままだとは考えにくいように思いますが、資料(1)に掲載されている昭和10年発刊の田口城要図でも多数の平場が描かれていますので戦後の食糧難の時期の開墾ではなさそうでした。道Eは城域に達する歩く道ですが、以前は峠越えの道でもあったようです。道Cは資料(1)に描かれている道で、後世のものかもしれませんが、主郭①への道の可能性もありそうですがどうでしょう。


田口城 長野県CS立体図で見る ①が主郭 Aが堀切 林道も鮮明
 CS立体図で見ると、堀切Aよりも西側は資料(1)で描かれた縄張図が細部まで確認できますが、資料(2)の縄張図に描かれた堀切Aよりも東側の地形は不明瞭な地形になっていますね。


田口城 昭和22年   城域と南斜面に樹木はほとんど無い
 空中写真を見ると、山上の城域だけでなく山腹部の樹木も少ないですね。昭和40年頃になると山腹は樹木で覆われましたが、山上の城域は樹木が生えておらず、この頃まで耕作地だった可能性がありそうでした。その後現在の様に全山樹木で覆われました。


田口城 大正のころは桑畑が圧倒的に多い 城域部分は詳細には描かれていない
 上田・佐久地方は養蚕がとくに盛んで、現在の信州大学繊維学部の前身となった全国唯一の上田蚕糸専門学校が明治43年に開校されるほどでした。大正のころは田地よりも稼ぎにつながる桑畑のほうが圧倒的に多く、お蚕さんに与える桑の葉の収穫量に稼ぎが左右されていたようです。そのためこの地方では山を桑畑にしていた例も多いようです。 ★参考図は二つの地図を張り合わせましたので境目がぼやけています。


田口城 最高所の本丸① 後世の改変が見られる 石祠ⅰが祀られている
 本丸①の東下には「城山 自然研究園」の看板がある小屋があり、近年も一部の土地利用が行われているようで、本丸①には耕作地ではない地形がみられました。本丸①は最高所にあり、削平された面積が広いので資料(1)では本丸と表示されていました。


田口城 堀切A  南から
 堀切Aは幅広ですが、浅く、風化に加え後世に埋められた可能性を感じる遺構でした。


田口城 本丸①の周囲には石垣が残る
 本丸①の周囲の切岸には腰巻状に石垣(石積)が見られました。積まれたのはいつか、判断が付きにくいものですが、ヒョットすると後世の土地利用時のものかもしれないと想像しました。


田口城 本丸①と曲輪②へ登る通路Dと石積 奥上に本丸① 右に曲輪②
 本丸①と曲輪②へ東側から登る通路Dがあり、両サイドには石積が見られました。通路Dは虎口と見ることもできそうですが、後世の土地利用に伴う通路の可能性もありそうでした。


田口城 曲輪②から本丸①を見る 北から
 本丸①は最高所にあり、曲輪’②は北側に一段下がって設けられていました。


田口城 腰曲輪③ 奥に曲輪④  左手に本丸①       北から
 本丸①と曲輪②の周囲には曲輪が取巻いていたようで、西側は尾根を削平した広い曲輪④になっていました。


田口城 平場⑤から曲輪④を見る 北西から
 田口城は多数の平場が連なっていて、後世の改変もあるようなので、城郭遺構しての曲輪を見分けるのが難しい状態でした。資料(1)の昭和10年ごろでも難しかった様で「夫れから西は平坦であって山の端迄軍兵を置いたところなるが今畑地となってゐて何とも速断し兼ねる」としていました。「城の守りの要は切岸」の原則に従えば今回の中心部としたあたりが本来の城郭遺構だったのではないかと想像しましたがどうでしょう。出曲輪として西の丸の平場は含めてもいいのかもしれませんね。


田口城 石祠ⅱ


田口城 石造物ⅲ
 養蚕が盛んな地域ではお蚕さんを祀る蚕神をよく見かけますが、石祠ⅰとⅱは蚕神ではないかと想像しました。石造物ⅲは表面観察ではなんだかわかりませんでしたが、ヒョットするとこれも蚕神かもしれないと思いました。山上の平場は桑畑だった時があるという伝承からの類推です。


田口城 堀切B 東側の尾根続きを断ち切る役割か
 資料(1)では堀切Aよりも東側の尾根には堀切Bしか描かれていませんでした。CS立体図でも堀切Aの東側は不明瞭な地形となっていて、現地で見てもあいまいな地形でした。 堀切Bが城郭遺構だとすれば、東側の尾根を断ち切る二つ目の堀切ということになるのではないかと思いました。


田口城 東尾根の岩盤  北西から 
  田口城の南側は岩盤が露出して崖上になっていました。城郭遺構ではありませんが、自然地形としての見どころでした。

田口城は山上の城域とされる面積が広く、多数の平場(曲輪)があるのが特徴でした。後世の耕作地化などで土塁や堀切などの有無が殆ど確認できないので、城郭遺構としての見極めが難しかったですが、五稜郭展望台からの龍岡城の眺めなども含めて楽しく見学でき良かったです。