城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

三河・広見城 その3 興味深い城郭遺構が多く、残りが抜群の山城 見学路も整備された

2021-03-29 | 歴史

広見城は愛知県豊田市広幡町にあります。多数の遺構がよく残っていますので複数回で紹介しています。今回は    その3 で最終回です。Ⅰ郭(主郭)北部の城域を中心に見ていきます。
※その1は→ こちら  その2は→こちら
今回の資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994と (2)現地案内板です。


広見城と周辺   現地案内板の縄張り図(作図:高田 徹さん)を国土地図に重ね合わせ ※今回、城道aを加筆


広見城 Ⅰ郭(主郭)とⅠ郭北部の城域の縄張り図に加筆
 Ⅶ郭北側の谷地形31を通る城道aを新たに想定しました。後から拡張された城域へ集落から登る道が考えられそうです。


広見城 Ⅰ郭北東隅の虎口地形22 北東下から
 Ⅰ郭(主郭)には南東隅に枡形19を備えた虎口がありますが、北東隅にも虎口地形22が在りました。19側を大手とすれば22側は搦手ということになりそうです。Ⅵ郭やⅦ郭からの道があったのではないかと思いました。


広見城 大きな堀切21  東から    左手の斜面に虎口22への踏跡が薄く残る
 堀切21は幅が広い割に多少埋まっているとしても深さは浅いものでした。城域南部の堀切Cも浅いものでしたので、広見城の築城では「深い堀」は考えられていなかったように思いました。


広見城 南北に細長いⅥ郭   東辺に5条の竪堀状の地形がある  南から  写真ではよくわかりませんね
 Ⅵ郭は東辺に5条の短い竪堀が設けられているように見えましたが資料では触れられていませんでした。東下からも見てみましたが竪堀の確証は得られませんでした。自然地形ということかもしれませんがどうでしょう。


広見城 櫓台E ここまでが城域とされる
 資料で櫓台とされる盛り上がった地形Eが在り、ここが城域の北限とされます。土壇上には明確な遺構は有りませんが、不明瞭ながら土壇への登り口のような地形が在りました。


広見城 土橋23から竪堀24を見下ろす 竪堀下端部にも土橋地形がある
 北西尾根の平場25には道アが登ってきていました。この方面の区切りは竪堀24に落ちる堀切で、土橋23で城内に入るようになっていたようです。竪堀24の下端部にも土橋状の堰堤?がありましたので、ヒョットすると往時は水を貯めていたのかもしれないと想像しました。


広見城 平場25には道アの痕跡が残る
 道アの先は最近の大規模な土取りで失われたようですが、平場25付近には道がハッキリと残っていました。


広見城 堀切26と道27 北上から
 Ⅵ郭の北側法面の下端部を巻くように堀切26が設けられていました。土塁状の地形を挟んで道27も踏跡が在りました。この道がどこにつながっているかは確認していませんが、北東にあった八草城への道が考えられるのではないかと思いました。


広見城 Ⅶ郭北側の谷地形31の両側の石積
 Ⅶ郭北側の谷地形31の両側には写真のような石積が在りました。谷地形には踏跡が在り東の山下の集落への道のように見えました。この道は谷地形を更に登って平場30に達していました。


広見城 Ⅶ郭 東から 奥上の平場29には平入の坂虎口で登る
 Ⅶ郭は腰曲輪で平場30に連絡しており、Ⅶ郭から平場29へは平入の坂虎口で登るようになっていました。


広見城 平場29の土坑 Ⅶ郭から登る虎口が奥に見える
 Ⅶ郭からの城道は平場29を経由してⅠ郭北下の堀切21へ連絡していました。Ⅶ郭からの登る虎口と土坑との関係は、当ブログで時々とりあげている形のようでした。土坑は虎口からの侵入に備えた何らかの設備ではないでしょうか。土坑は位置や形状から考えて、井戸跡や根こそぎ倒れた大木の跡ではなさそうでした。
 
整備された見学路は、後から拡張された南部の城域への城道だったように思いました。保見の歴史を伝える会の皆さんのおかげで、登り口がはっきりしなかった広見城の見学がスムーズにできるようになり、感謝です。
 各曲輪の面積はさして広くは有りませんが、遺構の残りがよく、興味深い地形が多くとても楽しく見学ができてよかったです。