城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

六栗城と六栗陣屋 三河 「三河雑兵心得 壱」に描かれた三河一向一揆の戦場を訪ねる

2022-07-27 | 歴史

六栗城は愛知県額田郡幸田町六栗にあります。若き日の徳川家康が三河 岡崎城を拠点に一向一揆と戦いましたが、六栗城は反家康の一つの拠点だった六栗の専楽寺一帯を領していた夏目次郎左衛門吉信の城館とされます。夏目吉信は野場城の戦いで敗れましたが助命され、家康の家臣となり三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討ち死にしたことで知られています。「三河雑兵心得  壱」では野場城の戦いがドラマチックに、僕が子供のころにしゃべっていた三河弁で語られていました。今回の参考資料は (1)「六栗郷土誌」六栗郷土誌編集委員会編2001  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994  (3)「三河の鈴木氏と山本氏 (後篇)」伊藤   宏著2007」などです。


六栗城と六栗陣屋 往時の菱池は広大な池で六栗や野場の間近まで水面が迫っていた
 資料(1)によれば往時の夏目氏の屋敷(六栗城)は中屋敷地区にあったとされますが、防御性に乏しかったので野場西城に立て籠もって戦ったとされます(諸説あり!)。夏目氏の屋敷は後に山屋敷地区に移り、山屋敷地区には後に六栗陣屋aが置かれました。本郷には専楽寺の境内地が広がっていたとされます。


六栗城と六栗陣屋 干拓により菱池の水面はすべて失われた
 菱池は周囲からの土砂の流入があり、干拓事業も盛んに行われたため現在は湖面のすべてが失われました。一向一揆のころはほとんどの湖面が残っていたようで、六栗や野場にも湖面が迫り、船着場が設けられていたようです。六栗陣屋は夏目氏以後に山屋敷地内に代官の屋敷と陣屋が併設され、その後場所も移動があったようです。


六栗城と六栗陣屋 「六栗郷土誌」より作図
 一向宗が盛んだった六栗地区の専楽寺の境内地は広大で六栗八幡宮から西ノ門迄が境内地であったと考えられています。三河一向一揆の戦いでは、東の深溝松平から攻められ、当初六栗八幡宮の東側で防ぎましたが支えきれずに防御性の高い野場東城に立て籠もったとされます。ただし地元の伝承では六栗城で戦ったという伝承があるようです。往時、中屋敷地区にあった夏目氏の屋敷(殿屋敷)は後に山屋敷地区の夏目新屋敷に移ったとされます。なお六栗地区は今でもたくさんの夏目姓の方が住んでいますので六栗を中心とした伝承が多いのかもしれませんね。専楽時は後に明善寺として現在地に移りました。


明善寺 専楽寺が移されたと伝わる
 戦乱の時に広大な専楽寺はすべて灰燼に帰してしまい跡地は田んぼになったと伝わり、その後に善明寺が現在地に建てられたとされます。


六栗城と六栗陣屋 明善寺の南に建つ案内板と夏目氏三代の墓と榊原氏累代の墓
 夏目氏三代の墓は昭和60年(1985)に中屋敷地区から現在の場所に移されました。中屋敷地区の殿屋敷(六栗城?)は後に山屋敷地区の夏目新屋敷に移り殿屋敷跡地は榊原康政の別邸になったとされます。資料(3)によると明善寺と榊原氏はつながリがあり、榊原康政の別邸が中屋敷に設けられたのもそのつながりによるものと思われます。


六栗城と六栗陣屋 山屋敷地内の夏目新屋敷(六栗陣屋a)    西から  右手に道路
 夏目氏の屋敷地は中屋敷地区から山屋敷地区に移ったとされます。資料(1)ではここを夏目新屋敷としています。後に陣屋aが置かれたようです。この場所を六栗城としている資料もありますが、往時の夏目氏の屋敷は中屋敷にあり、山屋敷に夏目氏の屋敷が移ったのはその後のようです。付近は車の道の敷設工事で屋敷地は大きく改変されたようで、屋敷地にあった泉水や築山は壊され庭石なども持ち出されて往時の姿は残っていませんでした。


六栗と六栗陣屋 六栗陣屋b 北から
 六栗陣屋も時代によって場所の移動があったようで、当初のaからb、C となったようです。bとCは後年志賀氏の二家が交代で代官を務めましたが、どちらも居屋敷と屋敷に併設された陣屋だったようです。


六栗城と六栗陣屋 六栗陣屋c 東辺の石塀跡か
 資料(1)には六栗陣屋cの東辺いは「石塀」があったとされます。現状では「石塀」の原形は不明ですが、石垣の上には瓦葺きの土塀があった痕跡が残されていました。「石塀」は石垣を土台とした塀と解釈すればそれにあたる可能性がありそうでした。


六栗城と六栗陣屋 六栗陣屋aとc間の平場
 資料(1)で馬場と弓場があったとされる平場かもしれませんが、改変の可能性もありますので「かもしれない」状態でした。明治になってこの辺りに学校が設けられたようです。
 
いわゆる六栗城を夏目氏の城だとすると、往時は中屋敷地区の殿屋敷と呼ばれる屋敷だった可能性があり、いわゆる城郭ではなく居屋敷だった可能性があることがわかりました。陣屋は夏目新屋敷跡がスタートで、後に志賀氏が代官となって北側に二つの陣屋が居屋敷を併設して設けられたと考えられそうです。

三河一向一揆の戦いの主戦場は野場城として「三河雑兵心得 壱」で描かれていますので、次は野場城も見学してみたいと思います。※野場西城と東城は→こちら