城と歴史歩きを楽しむ

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信濃・林小城 石垣で囲まれた主郭、畝状竪堀、無数の小平場群など大規模山城を堪能

2020-04-30 | 歴史

林小城は長野県松本市大字里山辺にあります。
 里山辺地区大嵩崎(おおつき)集落をはさんで南に林小城、北に林大城があります。信濃守護の小笠原氏が嘉吉三年(1443)以前に松本の井川城からここに移っていたとされます。林小城・林大城をあわせて林城と呼ぶこともあるようです。     ●当ブログ 井川城の記事は こちら
 谷間の大嵩崎集落には小笠原氏の居館が有った可能性が指摘され、家臣団の居住したと思われる平場群も発掘調査で検出されています。

林小城(右側)と林大城(左側)谷筋には信濃守護小笠原氏の居館、家臣の屋敷地が有ったとされる
 東海古城研究会の会員向け情報メールで、宮坂武男氏の城郭鳥瞰図がWebで公開されたのを知り、確認したところ、林小城・林大城も掲載されていましたので、関連して過日訪れたときの情報を元に記事としました。
 ●宮坂武男氏の城郭鳥瞰図 (長野県立歴史館HP)  https://www.npmh.net/miyasaka/
    ※その他参考資料1:「松本市文化財調査№224 小笠原氏城館群」松本市教育委員会 2016


林小城 林城跡(大城・小城)ガイドマップ 裏面には大城の案内を掲載
 昨秋の企画展を訪れた際に頂いたガイドマップは関係者の方の込められた熱意が感じられる見どころを的確に説明したもので、見学時にとても役立ちました。
※松本市内の城郭についての詳しい情報は松本市HP 松本の山城 にあります。縄張図、駐車場、行き方など掲載


林小城 大嵩崎(おおつき)集落からの登り口に立つ案内板の縄張図   ★図の下が北 に注意!
 企画展で頂いたガイドマップと現地の案内板の縄張図を再確認して見学に入りました。「お約束」の害獣ゲートを開け閉めして進みましたが、道は整備され随所に道標も有りましたのでスムーズに見学出来ました。
※林小城・大城の駐車場は「松本の山城」に案内があります。


林小城 尾根筋の小平場群 サイズは様々だがともかく数が多い。見どころだ!
 小平場群は隣の林大城にも多数ありますが、一般的な曲輪と比べてとても小さいものも多いので、何のために作られたのか疑問に思いながらの見学でした。
 帰宅してから松本市教育委員会 文化財課 にメールで問い合わせをしました。史跡整備担当の方からメールで丁寧な返信を頂いたところによると、一般的な小屋掛けの曲輪だったもの、防御のための切岸の削り出しが目的だったものなどが考えられるとのことでした。非常に小さなサイズの平場もありますが、いずれにしても防御が目的だったのではないかと考えられるようでした。


林小城 2条の土橋を持つ遺構C
 小平場群よりも上の段は尾根上を削平した曲輪が何段か続きます。上の曲輪に登るための坂になった土橋が2条並んでいる遺構Cがありました。見学路は別の場所を通っていますので往時からある地形なのかもしれないと興味深く見学しました。


林小城 2郭 虎口A  小平場群を登ると2郭へ入る虎口Aがある。 奥に1郭の石垣が見える
 虎口は左右を土塁で守られ、少し折れを伴った坂を登り2郭へ入るものでした。2郭は1郭の南と東西の一部をコの字型で囲む大きなものでした。


林小城 2郭から1郭を見上げる。1郭を取り巻く鉢巻状の見事な石垣が見どころ
 2郭から見上げると1郭(主郭)の見事な石垣が切岸の上に鉢巻状に築かれていました。林小城は天文十九年(1550)武田氏の侵攻を受けて自洛したと伝わりますから、それ以前に石垣の城が築かれていたということですね。1郭を取り巻く石垣はかなりの部分が残っていますので見応え充分でした。


林小城 石垣に裏込め石はあるか? 
 石垣を見ると、ついつい裏込め石があるかどうかを確かめたくて覗き込んでしまいます。見た範囲では裏込め石はなさそうでした。石垣の高さは余り高くないので必要としなかったのか?、裏込石で石垣を積む技術がなかったのか?
※参考資料1によれば、松本周辺の石垣遺構の多くはそれ以前の寺院の石垣構築技術に由来するものであろうとされます。


林小城 1郭西下の畝状竪堀③ 上から。   ここも見どころ
 1郭西側の通路下の法面には数条の竪堀③が連続してあり、いわゆる畝状竪堀となっていました。北西尾根を登って来た敵が南側に回り込むのを防ぐ効果がありそうですね。ちなみに東側の法面にも同様の畝状竪堀が有りました。草もなく、こんなに明確に畝状竪堀が見学できる城址はあまりないので、ここも見どころです。


林小城 1郭 を取り巻く鉢巻状の石垣は部分的に転落石が見られる
 1郭は周囲を石垣が鉢巻状に取り巻いているのを見学出来ましたが、所々に転落石も見られました。


林小城 主郭虎口はBか?   奥に東辺土塁と南辺高土塁が見える
 虎口Aから2郭の西辺を通り1郭の南側を回って東側に出る通路がいわゆる大手道だったとすると、1郭東辺の中央部のBが虎口だったと思われます。虎口遺構は不明瞭ですが1郭への進入路はここだけのように見えました。


林小城 1郭 西辺土塁と奥に南辺の高土塁  北から 
 1郭(主郭)南辺の土塁は周辺の土塁と比べて一段と高くなっていました。この土塁の南側の尾根には堀切④をはじめ何条もの堀切が有りますので尾根続きからの敵の侵入に厳重に備えていたと思われます。


林小城 南端の堀切⑥ 堀切⑥の両端は長大な竪堀で切れ落ちている
 南尾根の防御施設として大きな堀切⑥が有りました。1郭からここまでの尾根上には削平地が有り、兵を置いておく事ができそうでした。林小城は北端山下の小平場群から南端の堀切⑥までを城域とすれば約500mに及ぶ長大な城郭で、とても「小城」とは言えない大規模な城郭遺構でした。隣の林大城とセットで大・小と名付けたのでしょうね。


林小城 竪堀⑤  東下から Y字型に掘り切られている
 堀切④は東側の山下に切れ落ち、竪堀⑤に続いていました。⑤の竪堀は大規模で、山腹のかなり下まで続いてY字型になっていました。この縦堀も南からの進入防御の役割と思われますので、よほど南尾根からの敵の侵入に神経を尖らせていたのではないでしょうか。
 このように厳重な防御態勢を敷いた城郭でしたが、小笠原氏は武田氏の攻撃を前にして、自洛してここを去ったと伝わりますので、武田軍の軍事力に恐れをなしたということだったのでしょう。

林小城は大規模な山城で、見どころいっぱいでしたので当ブログでは一部分しか紹介出来ませんでしたが、大満足の見学となりました。隣接する林大城も別の機会に見学しましたので、折を見て記事にしたいと思います。