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大給城 三河その3 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

2023-06-22 | 歴史

大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあり松平氏の一族が城主と伝えられています。その1、その2、では城址の中心部をメインに見学してきましたが、その3ではⅠ郭(主郭)を取り巻く南、西、北の腰曲輪群や館跡とされる南側のⅢ郭、南西尾根と見どころの大堀切などを見学したいと思います。今回の参考資料も (1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010 (4)   浅野文庫「諸国古城之図   三河加茂 大給」広島市立中央図書館所蔵 などです。  「諸国古城之図   三河加茂 大給」 は  大給城その1 をご覧ください。大給城その1は→こちら  その2は→こちら


大給城その3ではⅠ郭の南、西、北の大堀切、腰曲輪群や館跡とされる南側のⅢ郭、南西尾根などを見学します。


大給城 Ⅰ郭(主郭)を取り巻く南、西、北の腰曲輪群やⅢ郭などを切り出す
 平場30から下ると43,44の平場が在り館跡とされる広い平場のⅢ郭に出ました。


大給城 平場44 西から 奥上に平場43  左手の切岸は石垣
 平場30から平場44へ下る通路は石垣が積まれていました。写真の平場44の左側の切岸もコケだらけですが石垣でした。大給城は岩山で石垣だらけですが、石切場と言われる場所はないようです。附近の川から運んだような石も見られましたが石の採取場所は未確認です。 
 

大給城 館跡とされるⅢ郭(ハジョウ曲輪) 南東隅から 陣屋跡? 耕作地?
 大給松平家の一族の松平真次は6,000石の旗本として、この地に陣屋を構えたと伝わりますが、具体的な場所は確定されていません。大給の地は山間部で手狭だったので後に岡崎市の奥殿の地に移転しました。Ⅲ郭は広く、現況は近年まで耕作地として利用していたようで草原になっていましたが陣屋があった可能性を感じました。絵図では「ハジョウ曲輪」と記されており、寸法が三十間となっていました。三十間は≒50mなので現況と絵図はほぼ合致していました。※奥殿陣屋は→こちら


大給城 Ⅲ郭南西隅下の帯曲輪地形の石垣53 南から 右上にⅢ郭 
 Ⅲ郭からⅠ段下がって南、西、東には帯曲輪状の地形47、50、51が在り、53には石垣がありました。陣屋が設けられたときに家臣の建物があったのかもしれませんが、表面観察では確認できませんでした。


大給城 Ⅲ郭から南に下る道d 北西上から
 道dは現況では途中で不明瞭になりますが、絵図にも描かれていますのでハジョウ曲輪(Ⅲ郭)が陣屋として使われていたとすればヒョットすると陣屋へのメインの道だったのかも知れませんね。大給陣屋は始祖の地として、願って陣屋を設けましたが、手狭のため正徳元年(1711)に奥殿に陣屋を移しました。その後さら規模の大きな陣屋を求めて五稜郭で知られる佐久市の龍岡城に移りました。※奥殿陣屋は→こちら 龍岡城は→こちら


大給城 道C 南に下る
 Ⅲ郭から大堀切に行く途中で道は分岐し、道Cは南側の大給集落へ下ります。この道は現役の様でした。水のホースが見られましたので、生活に関連した水の施設が在るのかもしれないと想像しました。絵図には道Cは描かれていないようでした。


大給城 大堀切B  南から 右上がⅠ郭方向 見どころ!です   人物と比較すると大きさがわかる
 大給城はこの大堀切Bと東側の大堀切Aで城域を区切っていたようで、どちらも巨大な岩盤が見どころでした。大堀切Bは岩盤を掘削したというよりも岩山の西端部を掘り切って西側尾根54と断ち切っている様にも見えましたが、難工事だったことは間違いなさそうでした。絵図では堀切の表現はハッキリしませんが岩塊が連なる様子が描かれていました。


大給城 絵図にある南西尾根の明神社を探す
 絵図には南西尾根に道が描かれその先に小堂が描かれて「明神社」と記されていましたので、見に行きました。現況では道gは不明瞭で途中の尾根上に墓地跡などが有り、図2の位置に小堂が建っていました。堂内にお地蔵様が祀られていましたので地蔵堂としましたが、ヒョットすると明神社の跡地かもしれないと思いました。


大給城 南西尾根の小堂 絵図の「明神社」跡地か
 地蔵堂と勝手に名付けましたが、小堂は近年の建物でした。


大給城 平場57 と大岩の露頭 北西から
 大給城の曲輪や平場は岩山と露頭する大岩を巧みに利用して築かれていました。平場57も巨大な岩の露頭がデンと座る平場でした。絵図ではこの辺りはデフォルメされているようでした。


大給城 平場56と露頭大岩    北西から 多くある大岩の露頭の一つ
 平場56も露頭した大岩が切岸代わりでした。大給城ではこの景色があちこちに在り珍しくないのがスゴイ!です。


大給城 平場59の水場 コンクリートの水槽からホースが延びている
 平場59の南部の岩陰にコンクリート製の水槽が設けられていました。水槽には水が満ちていて、水槽の水を送るようにホースが挿入されていました。明らかに現代のものですが、先ほど道Cで見たホース、大堀切Bでも見たホースと同じものでした。水道の水を集落の中で今も使っている(使っていた)のかもしれませんね。往時は水場の一つだったのではないでしょうか。


大給城 腰曲輪26 左手に石垣Kの崩落地形 東から
 Ⅰ郭の北辺には高石垣Kが築かれその下に帯曲輪26が在りました。高石垣の一部が崩落して腰曲輪26の一部が埋まっていました。


大給城 腰曲輪26北辺の石垣 北下から
 腰曲輪26にも石垣が築かれていました。大給城は石垣だらけですが、コケや雑草に覆われて見難い場所が多いのですが、この石垣はハッキリ見えました。


大給城 竪堀M 北下から 右手に腰曲輪26の東端部 上に平場24
 Ⅰ郭の北側斜面からの回り込みを防ぐためのと考えられる長い竪堀Mが設けられていました。一連の遺構を見ると、東からの侵入に対して、厳重に警戒した守りだったことを感じました。

※大給城その1~その3と見学してきましたが、次回 その4で完結します。大給城その1は→こちら  その2は→こちら