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大給城 三河その1 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

2023-06-12 | 歴史

大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあります。これまで何度も訪れたことのある山城ですが、先日行われた東海古城研究会の見学会をきっかけに、今回は城址の隅々まで徹底見学します。大給城の今見る姿は小牧長久手の戦い前後に秀吉の東進を恐れた徳川家康方が改修強化した姿とされ、岩山に多数の巨岩が露頭した城域に巧みに築かれています。遺構は曲輪・虎口・土塁・櫓台・竪堀・横堀・水の手など山城のすべての要素が詰まっていますので気が付けば見学に6時間が経っていました。今回はその1としますが、複数回に分けて徹底紹介したいと思います。今回の参考資料は (1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010  (4)「愛知の歴史街道」中根洋治1997 (5)浅野文庫「諸国古城之図   三河加茂 大給」広島市立中央図書館所蔵 などです。


大給城 東には松平城があり、大給山中城にも松平氏一族が在城したとされる
 大給城は当初長坂屋敷にあった長坂新左衛門の詰城だったようですが、松平郷の松平信光の時に攻められ奪われたとされます。西の巴川には土場(川湊)があり大河原川沿いには松平城を通り東に抜ける主要な街道(挙母街道)がありました。南側にも割間川沿いに道があり松平一族の大給山中城が築かれ大給城の南の守りとされていたようです。 ※松平城は→こちら 大給山中城は→こちら


大給城 明治の旧地図     今は挙母街道が301号となり付近に新たな道も開通している
 往時は大給城を挟み南北の川沿いだけに道があったようですが、今は車の道が南北にも通っています。


大給城 見学用駐車場のある道は昭和の道 今回は道aを登り尾根筋eを下る
 長坂屋敷の脇を通る旧道(挙母街道)は301号が開通して神社の参拝、山畑・山田の農作業、山仕事の人しか通らなくなったようです。往時の道はさらに細い山道だったと考えられますが旧道と重なる部分が多かったと思われます。


大給城 旧道沿いの神社 道の奥に見える大きな堀のような地形は旧道の切通 西から
 旧道は神社の前を通りますが、幅広でこの辺りまでは車が入っていたかもしれません。今回登る道aは神社の南側に在りました。神社は絵図に描かれていませんでした。


大給城 旧道から道aを登る    絵図の「水手」に該当する?
 神社前の旧道からの道aが在りますので、ここから登りました。見学者が通ることはほとんどなさそうですが、山畑・山田の農作業、山仕事の人が通った道の様で、最近は使われていないようですが、近年まで使われていた道のように見えました。絵図で「水手カ」として描かれている道が候補です。


大給城 諸国古城之図 現在の地図、縄張図等と比較しながら現況を見学

 現況と比較するとデフォルメされている部分などもあるようですが、ハジョウ曲輪の寸法などは現況とほぼ一致していました。図2にある大給乗元の墓地が描かれていませんが、諸国古城之図が描かれた時よりも墓地が後から作られたためです。西の尾根にある「明神社」は確認できませんでしたが、図の辺りに地蔵堂が在りました。北側に「水手カ」とされる道が描かれているのが道aかと想像しましたが現況とは上手くつながらないようですがどうでしょう。◆諸国古城之図  三河加茂 大給 は広島市立中央図書館の許諾を頂いて掲載しています。


大給城 道a 道沿いに耕作地跡の平場が続く 城郭遺構との区別が難しい
 道aを登ると、縄張図にある城域までの間に平場が何段も見られました。今は使われていませんが、近年まで耕作地として使われていたように見えました。往時の曲輪が後世になって耕作地として利用される例は多くありますので、いくつかは城郭遺構かもしれませんね。


大給城 現地案内板の縄張図 遺構の数が多く、一般的な山城の4~5城分ぐらいはありますので、以下では縄張図の一部分を切り出して使います。


大給城 図3のうち  堀切A  Ⅳ郭 付近  
 東側の道fは松平乗元墓に通じる見学路、道bは絵図の「大手」から下る道ですが、今は途中で失われているようでした。


大給城 平場1 北東から 大岩が目印
 道aを登って来て一番最初に縄張図に描かれているのが曲輪1です。巨石の露頭が目印ですが絵図では照合が出来ませんでした。


大給城 道f 奥に松平乗元墓 右に見学路の駐車場からの道
 道fを辿ると図2の松平乗元の墓地に至ります。途中見学路駐車場からの道に出合います。


大給城 松平乗元の墓地 1800年代子孫によって造営された
 大給松平氏は子孫がいくつにも別れ大名となり繁栄しました。この墓地は1800年代になって子孫によって造営されたもので、戦国期の城郭遺構とは関係がないもののようです。


大給城 手前に平場3と城址碑  左に大堀切A  奥上にⅣ郭   東から
 大給城は東側の大堀切Aと西側の大堀切Bによって断ち切って東西の城域が区切られていました。大堀切Aは岩盤を開削した堀切で、南側に平場から下る道Bがあり絵図では平場が「大手」とされています。


大給城 虎口G 左に小平場4 左上に櫓台5 右手上にⅣ郭  見どころです
 大給城は見どころがてんこ盛りですが、この虎口Gも見どころでした。虎口の守りが厳重で櫓台5だけでなくⅣ郭の上からも侵入者に攻撃できる備えでした。周囲の石垣も見逃せませんね。


大給城 Ⅳ郭の虎口C 南東から 虎口両側の石垣が見どころ
 虎口Gを通り平場7からⅣ郭に入る虎口も見事でした。この虎口は食い違っていて通路の両側は櫓台で石垣が積まれていました。


大給城 Ⅳ郭  西から 左に虎口C 奥に東辺土塁土塁10
 大給城の東に向けた防御は厳重でⅣ郭はその重要拠点だったと思われます。虎口Cも食い違って両側に石垣の積まれた櫓台8と9を設け東側は横矢の掛る土塁で固めていました。
 虎口G、穂口CとⅣ郭は絵図と照合できました。
※大給城は見どころが豊富ですので今回はここまでとして、その2 以降で順次掲載していきたいと思います。