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武田信玄も勝頼も越えた、三河と信濃の境 杣路峠を訪ねる

2020-01-19 | 歴史

杣路峠は愛知県豊田市と長野県下伊那郡根羽村を結ぶ旧街道の峠です。
 古くは後醍醐天皇の孫、尹良親王が稲武との行き来で越えたと伝承され、戦国期には武田信玄が三方ヶ原の戦いの後、体調を崩し甲斐に帰るとき越え、武田勝頼が長篠設楽原合戦で敗れわずかの兵とともに越えたとされます。
※尹良の読み方には諸説あるようですが、案内板では「ゆきよし」となっていました。

 江戸期には名古屋、岡崎と伊那谷を結ぶ主要街道として明治27年に現在の国道153号線が開通するまで峠を越えて人馬が多数往来しました。

街道の名前は「三州街道」「飯田街道」「中馬街道」と呼ばれました。中馬街道は江戸期の馬による塩や物資輸送(中馬)に由来するそうです(現地案内板による)。
      図をクリックで周辺の地図が拡大(国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆に)
上の地図を見ると国道153号線は矢作川沿いの谷合を大きく迂回する道ですが、杣時峠越えの街道は最短距離を通る、歩く道とわかります。153号線が出来るまで杣路峠越えが唯一の道で、川沿いを通る道はなかったそうです。


杣路峠 地図のA地点に立つ案内板、入口付近は林道で道幅が広げられている
 案内板の武田信玄の説明には元亀2年杣路峠を越えて信玄が南下したとされていますが、現在では元亀2年の信玄の三河侵入はなかったという説が有力のようですね。


杣路峠  中馬街道概略概略図 国土地理院地図に記載されている「街道」の線は大まかなものです。
 案内板のある入口から杣路峠に至るまでの間には、いくつかの分岐点がありました。



杣路峠 分岐点1、入口からの林道と街道の分岐点は表示板がありわかりやすい
 案内板のある入口からは林道で拡幅された道でしたが、分岐点1からはいよいよ街道の歩く道に入ります。この分岐点には大きな「杣路峠登り口」の表示板がありました。


杣路峠 分岐点2 踏跡は山道側が明瞭で街道側は踏跡が薄く倒木もあり間違いやすい。注意!
 訪れる人もあるので、街道の踏跡はハッキリしていましたが、この地点では杣路峠への道の踏跡が薄く、倒木も見えるので間違って踏跡がしっかりついている山道側へ向かいました。


杣路峠 石積の平場も残る沢沿いの段々地形 山田か山畑跡のように見える
 間違って踏み込んだ沢沿いの山道でしたが、段々の平坦地が続いていました。沢には石積の護岸が所々に残り、段々の平坦地にも写真のような石積が見られました。今は放棄された耕作地の後跡でしょうか? 少しわびしい景色でした。

 


杣路峠 つづら折りの街道には興味深い地形がいくつも見られる
 つづら折りの街道へ戻って杣路峠への街道を登ると、山城が近くにあれば堀切や虎口と言いそうな地形がみられました。歩く道のために長年かかって作り上げられた地形と分かっていても山城好きにはとても興味深い地形でした。


杣路峠 これより信濃路の表示板と道の両側の塚
 つづら折りの街道をさらに登ると長野県根羽村が立てた「これより信濃路」の表示板がありました。よく見ると道の両側には塚のような土壇がありました。今は長野県と愛知県の県境となっている地点ですが、往時の国境だったということでしょう。
 地境は尾根上にあることが多いと思いますが、この国境は中腹にありました。


杣路峠 尹良神社と尹良社の大ブナ
 そろそろ峠が近いと思われる頃に社殿が見えてきました。伝説の尹良親王が祀られた尹良神社です。右手には多数の枝分かれをした大きなブナが見えます。
 伊良親王に関する伝承・伝説はこの地方に多数残されており、その旧跡も多くありますが、ここにも清水伝説があり、その付近に社殿が造営され、今も大切に継承され祀られているということです。
 先ほどの国境もそうですが、予備知識なしだったので特別なものを見たような「得した気分」でした。
社殿前の案内板によると、大正初期までは付近にお参りの人の「おこもり小屋」や茶店があったとなっていました。
 社殿前まで根羽村方面からの林道が造られ工事の重機が見られました。



杣路峠 峠道は林道となり往時の姿は不明
 尹良神社の社殿裏の街道を登ると社殿前からの林道と合流して杣路峠に到着しました。峠は林道造成時に切通が掘り下げられた様に見えました。付近を探索してみましたが他に「峠はココだ!」という地形は見つけられませんでした。


杣路峠 峠の表示板は小さくて、砂に埋もれて見つけにくい
 この表示板は小さく、林道の法面の土砂に埋もれていますので、初めは気づかずに林道の先に進んでしまい、引き返した時に発見しました。

武田信玄は病が重篤となり甲斐へ引き返す途中で死去したとされますが、死去は秘匿されたので、死亡場所には諸説がありヒョットすると、亡骸で杣路峠を越したのかもしれません。勝頼は敗軍の将として峠を越しました。尹良親王は峠を越して信濃に引き返す途中で討たれたと伝わります。こう見てくると、杣路峠は哀しい峠に思えてきますね。


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