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丸山能頭城 三河 乙川が削り残した急峻な地形の残存遺構は詰城だったか

2024-07-03 | 歴史
丸山能頭(まるやまのうとう)城は愛知県岡崎市丸山町能頭にあります。額田郡牢人一揆 に登場する丸山中務入道 の城とされますが、後には松平氏配下の成瀬伊賀守国次 が居城したとされます。城址遺構は三河の大河矢作川の支流の乙川に削られた急峻な地形に残りますが、周囲の状況から想像すると居館とは別に築かれた、いわゆる詰めの城にあたる可能性がありそうに思いました。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994  (2)「岡崎市史 第7巻」柴田顕正 著  出版 岡崎市1929 などです。

丸山能頭城 乙川がS字状に蛇行し削り残された突端にある
 乙川が土地を削り、岩盤に当って大きく蛇行する場所に城址はあり、川面から10m以上の高低差があります。付近には古墳が多数残り、古くから乙川沿いに人が集住していたとされます。

丸山能頭城 城郭遺構はA地区にある
 城址遺構は、乙川に突き出した細長い地形の上にありますが、削平は不十分で屋敷地としては適していないように見えました。資料(2)によると成瀬伊賀守国次は神明宮に広い社領を寄進したとされますので、成瀬氏の居館はBまたはCにあり、今残る城郭遺構は非常時に備えた、いわゆる詰城的なものだったのではないかと想像しましたがどうでしょう。

丸山能頭城 神明宮第1号古墳 遺物も残りほぼ完存で県史蹟に指定
 図2のように、神明宮の境内には二つの古墳があります。第2号古墳は盗掘で荒らされ残念な状態でした。

丸山能頭城 Ⅰ郭は緩い傾斜地で水平面が少ない
 Ⅰ郭西辺の虎口⑦の西側には送電線の鉄塔が立ち周囲にフェンスが設けられていました。これによる遺構の改変は殆ど無いようでした。Ⅰ郭南辺にも虎口地形⑥がありました。

丸山能頭城 道Cから堀①と土塁②を見る 西から
 道Cは ⑩に祀られている おのづ竜神などの宗教施設への後世の参道と思われます。堀①と土塁②はよく残っていました。

丸山能頭城 堀① 左に土塁② 北から
 道Cから見ると堀①と土塁②は明瞭でした。堀①と土塁②は南に延び虎口⑦まで残存していました。

丸山能頭城 虎口⑦ 東から 奥に鉄塔
 Ⅰ郭西辺には虎口⑦がありました。西側には接近して送電線の鉄塔とそれを囲うフェンスがありますが、遺構を意識したのか虎口⑦の改変は免れたようでした。
丸山能頭城 Ⅰ郭南辺の虎口⑥ 南下から
 虎口⑦は平入の虎口でしたが虎口⑥は図3のように道aで西から東に進み→北に折れて入る坂虎口でした。

丸山能頭城 平場⑤ 東から
 竹やぶで写真ではよくわかりませんが平場⑤がありました。往時の屋敷地に関係するものかもしれないと勝手な想像をして見学しましたがどうでしょう。

丸山能頭城 土坑⑧ 井戸? 武者隠し?それとも
 Ⅰ郭は削平が不十分で、南に向けて傾斜がありました。土坑⑧は井戸にも見えますが南または東に備えた、いわゆる武者隠しの可能性もありそうでした。現地で見ると道a’ が想定できますので、ある時期には⑩への参道になっていたかもしれないと思いました。

丸山能頭城 平場⑩ おのづ竜神などが祀られている
 城域東端部⑩には おのづ竜神などが祀られていました。神明宮からの道aは参道として整備されていました。

丸山能頭城 道d 南下から
 道dも別ルートとして在りましたが後世の参道かハイク道のようでした。

丸山能頭城 東端部の岸壁 南東から 右下に乙川の水面
 乙川の流れもこの岸壁で食い止められたようで、水面から平場⑩までの高低差は10mを越えています。

丸山能頭城 取水口 南東から
 明治期に国策として官営愛知紡績所が作られ、動力として大規模な水車を回すため、ここから取水し、長い水路を開削して水を流していました。まさに産業遺跡ですね。

丸山能頭城 水路⑪ 南西から
 水路は今も地図に載っており、水は流れているようですが、さすがに水車は回していないようですね。

丸山能頭城は三方を乙川で守り、残る一辺に土塁と堀を築いて備えた城郭でした。居館がどの位置にあったかを想像しながら楽しく見学できて良かったです。