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西阿知和城 三河 松平信光、徳川家康関連の失われた城郭の占地と縄張りを想定する

2023-06-07 | 歴史

西阿知和城は愛知県岡崎市西阿知和町にあります。松平氏三代信光が松平郷から岩津に進出した時に弟信季がこの地に築城し在城して阿知和氏を名乗り、代々居住したと伝わります。信光が岩津に進出して徳川家康につながる発展をしましたが、元亀の時に武田軍が三河に侵攻して岡崎に迫った時には阿知和右衛門が百々城の青山忠門などと共に真福寺付近で戦ったとされます。  ※岩津城は→こちら  百々城はこちら


西阿知和城 岩津七城は岩津城の近距離にあるが、西阿知和城は離れた位置にある
 松平信光が岩津に進出した際には岩津城の近くに、いわゆる岩津七城を築いたとされますが西阿知和城はやや離れた位置にあります。岩津七城には信光の子供を入れたとされますので、弟の信季は扱いが違っていたのかもしれません。


西阿知和城 南を流れる青木川は、1633年に現況に付け替えられた
 岩津城との位置関係から見ると北側のA地点も築城に適しているように見えますが、現在の位置に占地されたのは付替え前の青木川や真福寺川の流れが影響していたのかもしれません。周辺に御用田の地名が残りますので式内社の謁播神社の神社領なども関係していたかもしれません。また、古来からの大寺院 真福寺や滝山寺の寺領が岩津地区まで及んでいたようですので、その制約を受けたのかもしれませんね。


西阿知和城 往時の地形を想定してみる
 西阿知和城西側の谷地形ア、南側のオ、北側のウ は城を囲むようにつながった堀として機能していたのではないでしょうか。城は単郭方形のようにも見えますが地続きのエも城域だった可能性がありそうに見えました。


西阿知和城 方形の曲輪跡には大照院が建つ    東から
 曲輪跡と考えられる方形の平場には、大照院が建てられています。寺院に付随する建物や石垣なども見られますが、城郭遺構らしい地形はほとんど見当たりませんでした。


西阿知和城 北東から延びる尾根筋の先端部に位置する 手前の水田は図3のオ   南西から
 城域の両側は谷地形で南側は水田でした。往時の青木川との関連は不明ですが、図3のア-オ-イはつながっていて、城域を取り巻く堀だったのではないかと想像してみましたがどうでしょう。


西阿知和城 大照院参道 西下から
 大聖院の参道のメインは現在ア側から登る南側の道になっていますが、東側のエ方面からの道もありました。ア側からの道は新しく、東側の道が古い様に見えました。


西阿知和城 南辺の土塁状地形① 西から
 ア方面からの参道を登りきったところに土塁状の地形が在りました。後世の改変があり土塁だったのかの確認が難しく「土塁状」としました。土塁状地形①の南側は造成工事中で法面の地山がむき出しになっていました。


西阿知和城 本堂裏の土壇② 石塔が祀られている お花が新しい
 本堂の裏手の土壇地形の上には石塔が3基祀られていました。土壇が城郭遺構かどうかは確認できませんが石塔は付近の戦いで亡くなった将兵を祀ったものとされているようです。


西阿知和城 平場 エ 西から
 平場 エは大照院の曲輪面との高低差がほとんどない平場でした。往時は谷地形イが平場 エの東側まで入り込んでいたと思われますので、ここも城域の一部だったのではないかと想像しました。


西阿知和城 明治23年の旧地図  青木川の旧流路は不明
 旧地図上では青木川の旧流路は確認できないようですが、西阿知和城の東西の谷地形はある程度確認できますね。西側の谷地形アは水田で若宮八幡宮手前まで入り込んでいたようです。東側の谷地形も水田となって入り込んでいたようです。南側の青木川との間にも水田があったようです。現況と大きく変わらないようですが、埋立て等の改変が行われた部分があることが確認できます。


西阿知和城 谷地形ア 北東から
 旧地図では水田になっている部分ですが造成工事中でした。田地になる前は深い谷で谷底には沢があったと想像してみました。


若宮八幡宮 西阿知和城の鬼門を封じる神社とされる
 旧地図によると、今は道路等で埋め立てられていますが谷地形アの北端部に若宮八幡宮が祀られている様に見えます。城の鬼門の方向の北東にあり、鬼門封じの神社として祀られ崇敬されたといわれます。旧地図では附近の道は岩津城ではなくて真福寺に向っているようでした。


西阿知和城 図3 堀状地形ウ 西から 右上に城址
 大照院の北側には堀切状の地形ウが在りました。図3を見るといかにも城郭遺構としての堀状地形ですが、旧地図では確認できませんでした。現在住宅が建っていますが昭和23年の空中写真でも堀状地形があるように見えますので城郭遺構の可能性もありそうですね。


西阿知和城 谷地形イ  北から 奥に謁播神社の森
 谷地形イも水田になっていますが古くは谷地形だったのではないかと想像しました。南側は現在青木川の堤防が築かれています。


西阿知和城 谷地形イ北端部付近④ 北から 右手奥に平場 エ
 旧地図で見るとこの辺りが谷地形イの北端部で、現況もそれらしい地形が残っていました。

西阿知和城は旧地図などを参照しながら現地を見ると、大照院の建つ方形の曲輪だけでなく、もっと広がりを持った城郭だったのではないかと想像出来て大いに楽しむことが出来良かったです。