城と歴史歩きを楽しむ

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松平城 三河 徳川家康の始祖の地に築かれた城郭 主郭を取り巻く横堀が見どころ

2023-06-02 | 歴史

松平城は豊田市松平町にあります。松平城は郷敷城とも呼ばれ、徳川家の始祖の地とされ初代松平親氏が居館の詰城として築いたと伝わります。城はその後何度も補強され、今見る姿は戦国末期の改修を受けた廃城となる直前の姿と思われます。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994   (2)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992  (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010 と現地案内板などです。


松平城 松平地区は矢作川から遠く三代信光の時に勢力を伸ばし矢作川に達して飛躍した
 様々な伝承に彩られた松平氏と徳川家ですが、始まりの地である松平地区は山間部にあり、舟運で栄える矢作川沿岸の岩津へ三代松平信光の時に勢力を伸ばしたのを契機として後の徳川家康につながる飛躍を果たしたとされます。※岩津城は→こちら


松平城 挙母街道は城の北側を通っていた可能性がある
 明治の地図を見ると、松平城の山下を通る主要道である旧道(挙母街道)は城の北側を通って、東の大沼や作手方面に向かっていたと思われます。現在は国道301号が敷設され松平地区の挙母街道は失われた街道になっています。初代松平親氏は城趾西側の竹の入に居館を構えたと伝承され、江戸期には城山が高月院の寺領となったため、後の松平太郎左衛門家は松平氏館(松平東照宮)に居館を設けたとされます。


松平城 城趾北側入口に立つ案内板の縄張図
 旧道(挙母街道)に面したaが現在の入口で、ここに案内板も立っています。


松平城 「松平城大手門跡」の石柱 松平親氏公顕彰会建立
 南側のbには個人宅内に松平親氏公顕彰会建立の「大手門跡」の石柱が立っていて、消えかかった道が残っていました。挙母街道と城址及び竹の入アの位置関係から見ると南側に大手道があったのか少し疑問が残るように思いますがどうでしょう。ヒョットすると道は曲輪4に祀られている社の参道かもしれないと想像しました。


松平城 「竹の入」ア 西から  奥上に城址
 松平親氏の居館があったと伝承される「竹の入」は、資料(2)によると「館の入」の転訛したものではないかとされます。だとすると居館から詰の城に直接入れる城道もあったのではないでしょうか。


松平城 北側の横堀と土塁⑥  西から 右上に2郭
 松平城の見どころは東、北、南を取り巻く横堀と竪堀です。北側の横堀⑥と土塁も見どころです。横堀を掘り切った土を土塁として積み上げてあるように見えました。


松平城 東側の横堀Aと土塁⑤  奥上に曲輪1 東から  ここも見どころ
 写真ではブッシュに覆われて良く見えませんが、尾根を断ち切って大きな横堀Aを設け、東の尾根筋からの曲輪1への侵入に備えていたようで、土塁⑤は掘り切った土を盛り上げたように見えました。


松平城 横堀⑧  横堀A の南東隅の角 北東から
 横堀Aは曲輪1の北から南までを巻くように設けられていました。南東隅も掘り切った土が外側に土塁として積み上げられているようでした。


松平城  竪堀④ 横堀A南側には2条の竪堀が設けられている  見どころです
 横堀Aの南側の部分には2条の竪堀が設けられて、守りを固めていました。東側からの侵入に備えたもののように見えますがどうでしょう。


松平城 堀切Aの東端部  L字型の土塁③北東から
 堀切Aの東端部はL字型の土塁によって仕切られて、堀底を西に進めないよう遮断する備えになっていました。


松平城 横堀② 東から 右上に曲輪1
 L字型土塁③で一旦遮断された堀切Aの西側にも堀切②と竪堀①が続いていました。堀切②は曲輪1の角度が緩い南斜面を深く掘って切岸を造り出したように見えました。


松平城 竪堀① 西下から  見どころです
 横堀②は大きな竪堀①となって西側に切れ落ちて曲輪1の守りを固めているようでした。曲輪1の南東直下にある井戸への侵入にも備えている様にもみえました。


松平城 井戸C 直径約2m 水は見えない 松平城井戸跡の石柱が立つ
 曲輪1の直下に井戸が在りました、松平親氏公顕彰会建立の石柱がありました。地元の方は水が見えないので「空井戸」と呼んでいました。現在は曲輪4からの道が見学路になっていますが、往時は曲輪2又は曲輪1からの道があったのではないかと思いました。


松平城 切通⑦  西上から
 曲輪4から井戸に通じる東に下る道があり途中に堀状の地形が在りました。この道は井戸と大手門につながっていますので堀ではなく道の切通だろうと思いました。


松平城  曲輪4 奥に櫓台B  東から
 曲輪4の西端部は一段高くなっていて櫓台Bとされます。櫓台からの見晴らしは良く物見台と言ってもいいような場所でした。曲輪4には社が建っていました。


松平城 曲輪3  西から
 曲輪3は尾根を削平した平場で、通路部分が高くなっていました。曲輪3から曲輪2の西側法面にかけて不明瞭な小さな平場などの地形が在りましたが、見学路との区別が難しい地形でした。


松平城 曲輪2 奥上に曲輪1  西から
 曲輪2は尾根を削平した平場でした。植林がされていましたが、丁寧な削平が行われていました。


松平城 曲輪1  西辺の通路d   南から
 曲輪1は最高所にあり、主郭とされます。曲輪2から登って曲輪1の西側の虎口を通る城道は曲輪1の西側から南側を巻いて曲輪1へ入っていたようで、通路は犬走状で一段下がって設けられていました。資料(3)で指摘されていないと見落としてしまいそうな遺構でした。

松平城は初代松平親氏が築城したとされますが、その後の歴史に対応して変化を重ね今見る姿になったとされますので、初期の姿を想像することは困難でしたが、興味深い遺構も多く楽しく見学出来て良かったです。