百々城は愛知県岡崎市百々町にあります。百々は地元では「どーど」といいます。
青山氏といえば、東京の青山の地名の由来で知られています。資料によると古くは上野国吾妻郡青山郷に住んで青山を氏とし、三河に至って岡崎の酒井家に養われ、松平氏に臣従し松平信光の岩津入城のときに従い百々村に領地を与えられたとされます。その後、明応と天文の井田野の戦いで二代にわたり討ち死に、元亀二年の武田軍の三河侵攻時には山縣昌景迎え討ち岡崎侵入を阻止し、重傷を負い百々城で没したと伝わります。青山氏は徳川家にとって最古参の譜代と言える家柄だったのですね。
最近読んだ浅田次郎さんの「流人道中記 上・下」に登場する青山玄蕃は、青山氏の流れをくむ者として痛快な生き様が描かれていました。徳川家康の関東移封に従った青山氏ですが、地元に残り帰農した一族が始祖の地を守っておられ、東海古城研究会の機関誌「城」第220号 2014 に会員の川口とよ子さんが「百々城と青山氏・清水氏」と題して投稿されたのを思い出し、読み返し現地を再度見学して記事として取り上げました。
今回の参考資料は (1)「城」第220号 と (2)「岡崎の碑林」岡崎地方史研究会 仲 彰一著 1995 です。
百々城 付近を流れる青木川の流路は開削で変わった 城址は明確ではないが城主墓碑が残る
百々城は以前から明確な城郭遺構が確認されていなかったようです。現在は宅地開発で周辺は大きく改変されていますが武田軍の侵攻を阻んでこの地で没した青山忠門の墓碑と江戸期に子孫の丹波篠山城主青山忠高が建立した亀趺碑が石造りの玉垣に守られて残されていました。
資料(1)によると青山光教のときに松平信光から与えられたと伝わる百々村は広大で、屋敷地から南に約700mの九品院まで他人の土地を通らずに行けたと言われます。百々城の北側を流れ三河の大河矢作川に合流する青木川は1633年に流路の開削が行われ現在の流れになっていますが、往時は百々村を取り巻くように南に流れ下っていたようです。 ※図1の旧青木川の流路は想定で加筆しました。
百々城 青山忠門墓が残る 最高所は宅地開発で改変
かつては七所神社の東側、清水の湧き出る谷地形を挟んで最高所がありました。この最高所に遺構があったかどうか確かではありませんが、何らかの城郭遺構があったとすればこの辺りではないかと想像しました。
百々城 屋敷地北側に旧道が通る
帰農した青木氏は清水が湧き出る土地にちなんで清水氏を名乗りました。資料(1)では屋敷地にお住まいの清水氏の末裔の方にインタビューし、最近も東京から青山氏の子孫の方が墓参に来られる、屋敷地の土塁は崩れてきたので石垣を積んだなどの貴重な聞き取り結果を記されていました。九品院まで他人の土地を通らずに行けたというお話もインタビューでお聞きした話でした。※現在の居住者が清水さんかどうか、未確認です。
百々城 七所神社と百々城の間の谷地形の名残 北下から
今は宅地が谷を埋め谷は狭まっていましたが、なんとか確認できました。この谷に流れる清水から、帰農した青山氏の氏を「清水」とされたそうです。
百々城 小道の入口はわかりにくい フェンスを開けて入る
青山忠門墓地の見学は図2の小道を進みます。北側の屋敷地からの見学は個人宅になりますので控えましょう。小道は東にある後世の共同墓地への道ですが青山忠門墓の前を通ります。最高所跡方面の道は最近のものです。
百々城 小道を進むと玉垣で囲まれた亀趺碑が見えてくる
小道は東側にある共同墓地への道として近年まで使われていたそうですが、住宅開発で新道が出来たので今はほとんど使われなくなったようです。
百々城 青山忠門墓地 参道には灯籠が立ち亀扶碑の後ろに青山忠門の墓石がある
写真の階段下を左右に小道が通っていました。青山忠門の墓地参道は屋敷地から石段で登ります。この辺りも青山氏の所有地で、武田軍との戦いで重傷を負った忠門の遺言でこの地に葬られたと伝わります。資料(2)によると個人敷地内にある墓所でここまで豪華なものは珍しとされます。
百々城 青山忠門墓所の参道 個人の敷地内の墓所としては珍しい豪華さ
百々城の忠門の墓所は、資料(1)によれば江戸期に入ってから子孫の丹波篠山城主によって廟所として造営されたと伝わります。資料(2)によれば篠山藩主青山忠高は「一藩の徳風を起こすにはまず率先して先祖の顕彰を計るにしくはない」として造営を命じたとされます。
百々城 屋敷地の土塁 今は石垣が積まれている
参道を下りきると写真の石垣が有りました。。資料(1)でお住まいの方が話された「土塁が崩れてきたので石垣を積んだ」のはこの辺りではないかと想像しました。此処から先は個人宅の庭ですので見学はここまででした。
百々城 青山忠門の墓と亀趺碑 石積の土盛りの中に五輪塔が埋まっているように見える
忠門が埋葬されたときは質素な土盛りの上に五輪塔が立てられたのではないでしょうか。その後土盛りの周囲に石積が施され、後に玉垣で囲われ亀趺碑が建てられたのではないでしょうか。
百々城 青山忠門墓地の南上の地形 城郭遺構は見当たらず
資料(1)で紹介されている清水家に伝わる明治の絵図によるとこの付近に低い石垣が残っていたように見えますが、今はそれも見ることができませんでした。 ※最高所は新道と住宅です
百々城 小道の東端部 東から A部分は宅地開発で造成中
忠門の墓所前を通る小道を東に進むと新道と合流します。以前はここからも忠門墓地へ行けましたが再見学時にはAで宅地造成工事が進められていて小道はフェンスでふさがれていました。
浅田次郎さんの小説「流人道中記 上・下」に触発されて、「城」の川口とよ子さんの記事を参考に百々城を再見学しました。松平から徳川への勢力拡大の中で一族に多くの犠牲を払いながら「三河安祥以来の御譜代」を守り抜いた青山氏に思いを馳せる見学が出来てよかったです。