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丸子城 駿河 その1  東海道を扼する規模が大きく城郭遺構がてんこ盛りの山城

2025-07-05 | 歴史


丸子城 北曲輪(3) 右に土塁d 東から 今川氏時代の本丸だったか
 丸子城は鞠子城とも呼ばれ静岡県静岡市駿河区丸子にあります。今川氏が当初の築城者で、後に武田氏によって現在見るような大規模化の改修が行われたとの伝承があるようです。丸子城は旧東海道を見下ろす位置に在り、東方から宇津ノ谷峠を越して駿河に侵入する徳川軍を食い止める役割が在ったようです。今回の参考資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978  (2)『静岡県の城跡 中部・駿河国版」静岡県の城跡編集委員会2012 (3)現地案内板 などです。丸子城は規模が大きく、城郭遺構が多数ありましたので、複数回に分けて紹介します。今回はその1  です。

丸子城 西方から宇津ノ谷峠と日本坂を超えて駿河へ侵入する敵を阻止
 丸子城と花沢城、用宗城は、宇津ノ谷峠と日本坂の峠道からの敵の駿河進入を阻止する役割を担っていたようですが、資料によると天正十年には徳川軍が用宗城を落とすと、丸子城の武田軍は城を捨てて退却したと伝わります。

丸子城 城が稼働していたころは元宿が宿場だった
 丸子城周辺を通る東海道は、以前は現在の1号線よりも南側を通っていたようで、現在「元宿」と呼ばれる地区に丸子宿があったようです。 江戸時代に「とろろ汁」で有名な丁子屋の東側に宿場が移ったとされ、後に国道1号線とバイパス道路が敷設され、付近の様子はかなり変わったようですが、城域の改変はなく、往時の姿を見ることが出来ました。見学は匠宿の駐車場に駐車し、見学路の入口から進みました。匠宿の休館日には駐車場も閉鎖されるようですので、お出かけの際は確認されると良いでしょう。

丸子城 見学路入口の案内板の図
 丸子城は、ハイキングコースとしても人気のようで、城域を通り、大鈩(おおだたら)方面に抜けるコースが設定されていました。ハイク道の為に城郭遺構が改変された様子は殆どなく、見学コースとしても快適でした。この図を見ただけでも、一般的な山城の3~4城ほどの城郭遺構の見学が楽しめそうなのが分かりますね。

見学路の入口からしばらく登ると、図4で現在地とされている平場(5)の東端部に出ました。城域が広範囲なので、図4をいくつかに区切って紹介したいと思います。

まずは、案内板の図4の1です。

丸子城 左に道イ  右に道ロ ロは現在使われていない古い道
 いつから平場(5)に稲荷神社の奥宮が祀られているのかは確認していませんが、道は新しいハイク道と奥宮の参道を兼ねているようで、城道は古いだったかもしれません。道を登ると薬研道を通って平場(5)へ出ました。

丸子城 平場(5) 東端部の稲荷神社奥宮 右に案内板
 山下の稲荷神社は一号線やバイパスの大規模な工事の為に現在の山下の谷間に遷座し祀られていますが、奥宮の社殿もその時に更新されたのか、新しかったです。

丸子城 平場(5) 東から 兵站地か
 平場(5)は尾根を削平した広い平場で、兵站地としての役割が想定されるようです。土塁等の防御施設は見当たりませんでした。武田軍の兵站地としてよくある形のように感じました。

丸子城 大手道aは登りの土橋状 東下から 
 大手曲輪(4)(東曲輪とも云う)への大手道aは両サイドが削られ土橋状の登りの道になっていました。。

丸子城 平場48 北東から
 平場48は虎口へ登る土橋状の道aを削り出すための平場のようでした。道aの反対側にも小さな平場がありました。

丸子城 土橋8 奥に大手曲輪(4)の虎口と土塁 右に堀(A) 東から
 大手道は二度折れて土橋8を渡って大手曲輪(4)の虎口を入る厳重な備えとなっていました。

丸子城 土塁と堀に三方を囲まれた大手曲輪(4) 西から
 大手曲輪(4)は桝形に相当する曲輪のようにも見え、大手道を厳重に規制していました。平場(5)との関係性は不明ですが、西側奥に続く曲輪群の入口の関門としての役割があったように思いました。

丸子城 大手曲輪 北辺の堀(A) 東から
 大手曲輪(4)は、一般的な山城で言えば主郭に相当するような厳重な堀と土塁が設けられていました。堀(A)はコの字型に深く掘り込まれて両サイドの土塁の急な切岸を造り出していました。

丸子城 竪堀42 右に竪土塁47 南下から
 丸子城は長大な竪堀が多いのにも驚きました。竪堀42も谷(養福谷)へ向かって長く切れ落ちていました。竪土塁47は竪掘42とセットで、東海道から谷筋を攻め登る敵が大手曲輪の方向への回り込むのを防ぐ役割だったのではないかと思いました。竪堀は東海道方面の谷に向かって、異常なほど多く設けられていました。

丸子城 平場⑳ 右に土塁Ⅽ 東から
 平場⑳は大手曲輪と北曲輪の間の尾根を削平した郭で北辺には削り残しと見える低い土塁が在りました。

丸子城 北曲輪(3) 今川時代の本丸ともいわれる堅固な曲輪 東から (写真再掲)
 北曲輪(3)は丁寧に削平された面積の広い平場と、幅広で高い土塁に囲まれた曲輪でした。今川氏が当初築いた丸子城の本丸だったとする見方もあるようですが、確定されていないようです。往時の土塁はもっと高かったのが、風化で低くなり輪郭が曖昧になったように見えました。
    ※その2に続きます
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