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美濃・樫原城 明智光秀生誕の多羅城の候補地 新発見の山城を訪ねる

2020-10-09 | 歴史

樫原城は岐阜県大垣市上石津町上多良にあります。今年(2020年)7月8日付で岐阜県遺跡地図および台帳に登録された新発見の城郭です。  樫原はカシバラと読むようです。
 上石津には多羅(多良)城があり、石田三成生誕の城という伝承があります。以前は西高木家陣屋の地が多羅城であったとされていましたが、その後付近の城ケ平城が発見され、多羅城の候補地が2ヵ所になっていました。
 今年に入って、中井 均さんの現地調査によって上多良の集落近くに山城跡が発見され、縄張図も描かれました。これにより多羅城の候補地が三か所になりました。
 東海古城研究会の会員向けの情報メールでこのことを知って、訪ねてみたかったのですがコロナ禍で県をまたぐ移動の自粛となり先延ばしになっていましたが、やっと訪れることが出来ました。


樫原城 上多良集落に隣接する津島神社のすぐ裏に所在。 今まで見過ごさてきたのが不思議
 上多良地区には関ケ原合戦で島津義弘の脱出を助けるために「捨て奸(すてがまり)」の戦法をとり一説では樫原付近で命を落としたとされる島津豊久の墓地もありました。樫原城の資料・伝承は不明のため築城時期や城主は不明で、調査を担当した中井 均さんは緊急的・臨時的な城と考えられるという見解を述べておられます。
 

樫原城 上多良の集落に隣接した場所に城址は所在 
 津島神社の裏に隣接して樫原城は所在していました。樫原公民館に駐車可能でしたが、集落内の道路は細かったです。津島神社の社殿右側に中井 均さん作図の縄張図付きの案内板が新設され、見学路も整備されていました。


樫原城 現地案内板の縄張図(作図:中井 均均さん) ※木漏れ日が強烈で写真が見にくいです
 資料・伝承に残っていないということですが、城のパーツは一通りそろったコンパクトですが本格的な山城でした。土木量もかなり大量だったと思われますので緊急的、臨時的と言っても「ちゃちな」城郭では無く、見ごたえのある城郭遺構でした。
 ④切岸は切岸というより沢に切れ落ちる高低差の大きな崖で、近寄ると危険な状態で「この先、近づくな!」の看板が2本立っていました。


樫原城 南尾根を断ち切る堀切 表示板が新設されている
 樫原城は南から北に伸びる尾根の北端部に築かれていますので西、北、東は自然地形の切岸が要害になっていました。南側は尾根を大きな堀切で断ち切り②嵩土塁で防御していました。
 表示板と見学路などの整備は多良地区まちづくり協議会の皆さんによるものです。感謝!


樫原城 虎口①は枡形虎口だったかも     ※見学路は城道と異なるかも
 虎口①は風化があり、輪郭が不明確な地形でしたが、枡形があったように見えました。見学路は南(神社側)からになっていましたが、往時の城道は北東下からだった可能性もありそうでした。


樫原城 Ⅰ郭(主郭)南側の高土塁②は高さ約3m  ※黄色に注目
 Ⅰ郭は尾根を削り取って高土塁②を削り出し、50m×60mの曲輪面は綺麗に削平されていました。この点からも丁寧な造りの城だと思いました。
 余談ですが、この日は半そでシャツで普段は着ける足元のスパッツも付けていませんでした。本格的な山城ではないという油断があったと思いますが、帰宅して足元を見るとズボンが血だらけでした。山ビル初体験です。油断大敵! 足元はしっかり固めて出掛けなくてはいけないと反省を込めて再確認しました。


樫原城 Ⅰ郭 北側下の堀と土塁⑤   左手上にⅠ郭 Ⅰ郭から横矢が掛かる
 Ⅰ郭北側の斜面は急ですが、さらに堀と土塁を設けて守りを固めていました。図3でわかるように、Ⅰ郭からは横矢が掛かる構造になっていました。


樫原城 Ⅰ郭東側中腹の塹壕状地形⑦ 低土塁と浅い堀でⅠ郭東側の守りとなっている
 Ⅰ郭の東下は平坦地になっていて、往時は屋敷地が有ったのではないかと想像しました。屋敷地からは城道が付いていたのではないかと思いますが、明確な道は発見できませんでした。
 東側中腹には⑦の塹壕状の遺構がありました。切岸+塹壕⑦が東側の守りと考えましたがどうでしょう。


樫原城 図2「井」 の井戸跡表示板 写真奥に東側山下の平坦地
 Ⅰ郭東側の下部に井戸跡表示板がありました。振り返って見ると崖下に埋まりかかった穴がありましたので、これが井戸跡であろうと思いました。東側山下は住宅建設等で一部に改変が見られますので、屋敷地だったかも、という往時の姿は想像です。

新発見の城郭ということで、多くを期待せずに出かけましたが予想を大きく上回るシッカリした遺構に出会うことが出来てよかったです。付近の城ケ平城も同時に見学しましたので機会を見て記事にしたいと思います。

※補記

島津豊久の墓 案内板   墓地はこの奥にある
 関ヶ原古戦場巡りでよく見かける案内板がここにもありました。島津義弘を薩摩に逃がすために、命を捨てて戦ったとされる島津豊久は、付近の瑠璃光寺の住職がケガの手当をしたが、その甲斐なく亡くなったのでこの地に手厚く葬ったとされます。
 樫原城はその時存在したのか? 廃城になっていたのか?興味は尽きませんね。

 「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」などの新説が提唱され、関ケ原に設置された従来説による案内板の一部にが付いているようですが、案外ここは伝承通りなのでは、と思いました。
   ※「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった 」は → こちら