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三河・亀ヶ城 西尾根への対処に謎が残る遺構に興味津々。石垣が残る山城

2020-10-01 | 歴史

亀ヶ城は亀岡城、奈根城とも呼ばれ、愛知県北設楽郡東栄町大字三輪にあります。
 東三河と伊那谷を結ぶ別所街道を眼下に見下ろす奥深い山間地にあり、切り立った尾根の先端部に所在します。土豪伊藤小右京が康正年間(1455~57)に築いたと伝わりますが、今見る亀ヶ城は後の戦国期に修築された可能性があるとされます。
 今回の資料は(1)愛知県中世城館跡調査報告書と (2)史跡散策愛知の城  (3)東栄町誌です。


亀ヶ城 城址の所在地は杉地区だが河内地区や奈根地区の集落との関連もありそう
 北から東にかけては城址から高低差約80mの崖下に奈根川が流れ、南側約40m下には河内川が流れ自然の要害となっていました。亀ヶ城への道は、現在は図1のA,B,Cの3本があるようでした。
 北、東、南の三方向は侵入不可能な切り立った斜面ですが西側の尾根続きの防御態勢はどうなっていたのか?城道はどこか?謎の多い遺構の地形でした。


亀ヶ城 Ⅰ郭(主郭)の北、東、南は急な崖。西側はⅡ郭で切岸が形成されている
 今回は長峯神社の境内に駐車しての道をたどりました。西側尾根の平場の東側は、Ⅱ郭との境に両側に浅い堀のある低土塁④で仕切られています。往時の城道は、南西の河内地区との関連からはの道が、主要な別所街道沿いに屋敷地があったとすればBの道が考えられます。の道は後世の道と考えました。
 から登ってくると、最近建てられた磯丸の歌碑があり、にはから来た人用の道標がありましたので、こちらの道が地元では見学路のメインと考えているのかもしれません。
 

亀ヶ城 城址は長峯神社の背後にあり、今回はここから登る
 長峯神社は奥三河一帯で毎年冬に行われる「花まつり」の会場の一つとなっている神社で、河内長峯神社というそうです。祭りの始まりは鎌倉時代にさかのぼると伝承されているようですから、亀ヶ城の築城よりも前の時代から鎮座していた可能性もありますね。


亀ヶ城 道Aから登ると土塁②が現れる。往時は①に門があったとの伝承も
 Ⅱ郭南辺の①の両側には土塁状地形があり、資料(3)によれば往時は①に門があり、土塁②は三方に石垣が積まれていたとされますが、石垣は確認出来ませんでした。Ⅰ郭側の張り出した土塁には石垣が確認出来ました。①に門があったとすれば、の道が城道だった可能性が強くなると思いますが、どうでしょう。


亀ヶ城 Ⅰ郭へは虎口状地形③で登る  右手には張出した土塁に石垣が残る   奥上のⅠ郭に小祠
 Ⅱ郭からは坂虎口状の通路でⅠ郭へ登ります。Ⅰ郭には他に登り口はありませんので、虎口とみてよさそうですね。Ⅰ郭は西側に低い土塁状地形があるのみで、ほぼ平坦で小祠と立派な城址碑が建っていて周囲は急角度の切岸で防御されていました。


亀ヶ城 Ⅰ郭 南西隅の張り出した土塁の石垣。板状の石が積まれている
 ①に張り出した土塁には石垣がありました。裏込め石は不明ですが、往時の石垣とみて間違いないようで亀ヶ城の見どころになっています。


亀ヶ城 Ⅱ郭西側の低土塁?④、両側に浅い堀?(溝)
 Ⅱ郭の西側には浅い堀を両側に備えた低土塁が尾根を断ち切るように設けられていますが、防御性はほとんどなく往時の姿が残るのか疑問の残るところで資料(1)でも ? が付いていました。
 が後世の耕作地、④が地境という解釈も成り立ちそうな雰囲気でした。からの道がの北辺を通りⅡ郭に入る地形も残っていました。


亀ヶ城 Bからの道  「亀ヶ城跡 入口」道標⑤  左手に平坦地ア
 北側からの道をたどると最近建てられた磯丸の歌碑⑥の前を通り「亀ヶ城跡 入口」の道標⑤がありました。資料(1)にはの道が描かれていましたので長峯神社から登りましたが、側にも道があるようでした。
 平坦地は後世の耕作地だった可能性がありそうでしたが、往時は建物があってもおかしくない地形でした。


亀ヶ城 石垣⑦ 河内地区からの道との関連がありそうな石垣 何時のものか?
 河内地区からの道を結ぶ道の途中に石垣⑦が見られました。どの資料にも示されていませんが、道に関連した石垣なのかもしれません。今に残る道B-Cは河内地区と奈根地区を結ぶ峠道だったのではないでしょうか。

亀ヶ城は?の付く地形が多かったですが、河内地区からの道はで遠回りをせずに、道アの南側を通り①でⅡ郭に入る城道だったのではないかと想定し、見学を終えました。