高鍋城は宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町にあります。児湯の地名は難読ですが、神話の時代にコノハナサクヤ姫が皇子の出産時に当地の池の水を産湯として使ったことに由来していると伝わります。高鍋城の歴史は古く、小丸川と宮田川に削られた舌状尾根を利用して、平安時代に小規模な山城として創築され財部(たからべ)城と呼ばれたようです。時代を下ると城域は拡張され明治まで続き、今見る興味深い城郭遺構が残されました。高鍋城の絵図は複数ありますが、遺構の名前に不同が見られます。今回の参考資料は(1)見学会資料 (2)「町内遺跡発掘調査報告」高鍋町教育委員会1991 (3)「日本古城絵図 日向国高鍋城図」〔江戸中期-末期〕 などです。
高鍋城 都於郡城の伊東氏の侵攻によって伊東48城の一つに組み込まれた
長禄のころ(1450年代)勢力を拡大した伊東氏は、周辺地域に伊東48城と称する城郭群を配下に納め、高鍋城も組み込まれました。後に高鍋城は一時島津氏に制されましたが秀吉、家康の時代を経て秋月氏十代で明治を迎えました。
高鍋城 高鍋町教育委員会の発掘調査報告書の図
高鍋城の図は各種ありますが、地点名等が異なっている場合もありましたので、地元の高鍋町教育委員会の発行した発掘調査報告書を基にして、地点名を設定しました。
高鍋城 山上には三層櫓が在ったと伝えられる 西から
高鍋城の山上には、慶長14年(1609)に建てられた三層櫓があったと伝わります。資料(2)によると、高鍋町教育委員会の発掘調査は、三層櫓の在ったとされる平場(図2の9)で行われましたが、明確な櫓の規模や位置を確定できる結果は得られなかったとされます。
高鍋城 宮田川と塩田川に挟まれた平地を武家屋敷や城下町などに利用
東側の堀を渡り、大手門を入った三の丸地区には武家屋敷などが在り二の丸地区には武具櫓等が在ったとされます。現地案内板には本丸には規模の大きな御殿の絵図が示されていました。③地区は高石垣の上に三層櫓の建つ重要な曲輪だと思われますが、説明板などは見当たりませんでした。高石垣は高鍋城の一番の見所です。
高鍋城 岩坂門① 三の丸南西から 幅広の石段を登ると上段に二の丸
三の丸は堀に囲まれた曲輪ですが、今は高校が建ち校舎や運動場に利用されている部分もありましたが三の丸を取り巻く堀は今もかなりの部分が残っていました。日本古城絵図では三の丸と二の丸の間には水路が描かれていますが、今は道路となって失われたと思われます。
高鍋城 二の丸北部のクスノキ 国指定天然記念物「高鍋のクス」が見どころ
二の丸は稼働時の役割が不明確でしたが、今は舞鶴神社が祀られ、文教歴史館などが建てられていました。舞鶴神社の北側には、絵図にも描かれている樹齢500年を超える幹回り10m超の「高鍋のクス」が鎮座していて、見どころでした。
高鍋城 二の丸から本丸への通路aの石段 南下から
通路aは石段通路を登り切ると本丸の長峰門へ出ますが、図2を見ると往時の通路とは異なった石段通路のように見えました。
高鍋城 長峰門 標柱と礎石
石段通路aを登り切ったところに長峰門がありました。今は標柱が立ち、付近に特徴のある礎石と思われる特徴ある写真の礎石が道の左右に在りました。
高鍋城 本丸に立つ 丁丑戦亡(ていちゅうせんぼう)記念碑
本丸の北部には丁丑戦亡記念碑がありました、この地方は西南戦争で亡くなった方を慰霊する碑などをよく見かけました。
高鍋城 本丸 北東から 奥に奥御殿
今は広々とした平坦面ですが、現地案内板の絵図によると本丸には政庁の規模の大きな建物が建っていました。
高鍋城 今は高鍋護国神社が祀られる奥御殿跡
現地案内板の絵図によると、今は護国神社が祀られている本丸南部の一段高い平場には、藩主住居の奥御殿が建っていました。一段低い本丸の政庁とは階段で上り下りする連続した建物群になっていたようです。
高鍋城 高石垣と平場③ 西から 左上に三層櫓 見どころです!
高石垣は高鍋城最大の見どころでした。長大な高石垣の上に三層櫓が建っていた姿は圧巻だったのではないかと想像して楽しみました。
高鍋城 平場③と高石垣 南から 左に土塁 奥の高石垣の上に三層櫓
平場③の具体的な名称等は見つけられませんでしたが、平場の大きな面積や西辺の土塁、高石垣などから考えると、重要な曲輪だったと想像しました。ヒョットすると現在の本丸が設けられる以前の本丸に該当する曲輪だったかもしれませんね。
高鍋城 平場③ 西辺の土塁 南東から
平場③の西辺土塁の内側には一部に石積がみられました。土塁上に塀などが設けられていた可能性もありそうに思いましたがどうでしょう。
高鍋城 右に三層櫓の平場 左上に背後の土塁地形 西から
三層櫓のあった平場の背後の土塁地形は幅広で三層櫓の平場からの高低差がかなりありました。見た目で言えば、三層櫓の平場は地山を削り取って、石垣で南辺を固めた平場のような印象で、背後の土塁地形ほぼ地山のように思いました。
高鍋城 公園モニュメント⑤ 奥に詰めの丸④ 北から
高鍋城は公園化されていますので、一部に改変が見られ、公園のベンチやモニュメントもありました。山頂部の最高所は(図3の④)は詰の丸、物見台など呼び名は様々のようで、ハッキリした名称は?で、目立つ城郭遺構はなさそうでした。図2の10の野首堀切は帰宅してから図2で知りましたので見学していませんでした残念!
高鍋城の歴史は平安時代に始まると伝わり、少しずつ形を変えながら明治まで存続した城郭で、長い時間の間に形も変わり、名称のはっきりしない地形もありましたが、逆に勝手な想像をしながら楽しく見学出来てよかったです。
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