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一心に愛した男への女心『夫婦善哉』(名作で思う事)

2020-05-14 14:27:03 | 人生を「生かす」には
@世間が何を言おうが、誰が何と思っても一心に愛した男に貢ぎ、従う、そんな女心を弄ぶ男が憎い、とはこの小説だ。 女はそのぐうたらな男を何とか身を削り苦労し、助け、最後には「夫が認める夫婦になりたい」と願う、悩ましい女心である。世間にはよく「話の上手い奴」がいると言うが正に騙されやすい人が使われ、貢がされ、最後はポイっと「別れ」を言う奴「金があれば馬鹿も旦那」の逆である。最近は男でも、女でも多いと聞くが「お金の世界」(人間万事金の世の中)だけで人をつなげておくのは何とも寂しく、最後はそんな仲は呆気なく(金がなくなれば)終わるのが定番だ。

『夫婦善哉』織田作之助
大阪の天ぷら屋の夫婦は一人娘を商いの丁稚奉公に出す、がある日娘の願いから芸者になる事を承知した。その芸者は元気がよく売れっ子となり、ある妻子を持った男がその娘と東京へ駆け落ちする。関東大震災で戻ってくると娘は芸者をしながら稼ぎ、その稼ぎは男に貢ぎ、いつも散財していた。やがて貯めたお金で煮物屋、居酒屋、果物屋、最後には飲み屋を経営するが、男は仕事に飽きっぽく長続きせず、芸者を上げ散財する癖も全く治る気配も見せなかった。男が病気で、女は必死にお金の工面も看病もしたが、またしても男の癖は治らず女は妻としても認められず男は去ることを告げた。ある日男は戻り、前の妻の娘と余生を送りたいと女に頼み事をする。お寺にある「おとめぜんざい」善哉屋に入ると、そこはいつも大盛の善哉を2つに分けたお椀に出す事でお客の気分を盛り上げた。男は「一杯の善哉を山盛りにするより、ちょっとづつ2杯にする方がぎょうさん入っているように見えるやろ」と言うと、女は「一人より女夫の方がええ言うことでっしゃろ」とさりげなく言った。

あの伝説の信憑性を探る『晩節の研究、偉人・賢人のその後』

2020-05-14 07:59:10 | 歴史から学ぶ
歴史に残る様々な伝説(疑惑説・生存説)などこの書の面白いところを抜粋した。
源義経=ジンギス・カーン、明智光秀=天海僧正、西郷隆盛のロシアでの生存説などである。 特に歴史を大きく変えた、あるいは活躍した庶民の記憶に深く残る人物の「説」(仮説)が現存することは更なる真実を求め探求される価値はあると感じた。この先新たな事実資料が発見されると期待したい。 偉人・賢人の多くはいずれも変わった性格・行動などをする、いわゆる「出過ぎる杭」となり庶民に印象を遺した人が多い

『晩節の研究、偉人・賢人のその後』河合敦
歴史に名を残す偉業を成し遂げた人物も、ほとんどの場合、本当に活躍したのは、ある一時期に限られる。それどころか、リタイヤ後に意外な「その後」の人生を送った人物が少なくない。「祟り」に慄き死んでいった藤原道長健康に気を使いすぎて逆に死期を早めた徳川家康老人になってから計画殺人を実行した徳川光圀勘違いで殺人を犯して獄死した平賀源内……。有能な成功者である彼らはなぜ”晩節を汚す"ことになったのか。その分岐点には何があったのか。30人の偉人たちの知られざる末路を繙き「人生の本質」を追求する、画期的な書。
・小野妹子 
    華道の池坊の始祖は小野妹子だと言う、それは六角堂の仏道・聖徳太子に生花を供えたことが由来
・鑑真
    日本に仏教を伝達・発展させた中国の高僧、盲目となり最後には座ったまま死んだ僧
    鑑真がもたらしたものは薬、仏具、ガラス、建築、彫刻技術、書道など
・源義経
    チンギス・カーン説は大正13年に小谷部全一郎の「成吉思汗ハ源義経也」の書がきっかけ
    元はシーボルト、その後日本公使が明治12年に英文で発表、その後内田弥八が翻訳
    義経は北海道アイヌに逃れシベリアに渡ったと言う説から、ナホトカには「ハンガン」岬
    日本人とユダヤ人は同祖であると言う説(小谷部氏)
・北条政子
    源頼朝は妻の政子に殺されたと言う説、頼朝の落馬後死亡したという説
    政子自身の浮気、政子は気性の激しい性格で頼朝の愛人屋敷を破壊
・親鸞
    親鸞は関東で20年以上念仏を広めたが、息子善鸞「親の心、子知らず」で親子の縁切り
・一休宗純
    生臭な上エロ坊主と言われた一休、元は天皇の実子、兄弟と絶交、恩師とも絶交
    「破戒」酒を飲み肉を食べ、遊郭で女性を抱く、78歳で40歳位の女性と本気合う、88歳没
・明智光秀
    光秀の誤算は細川藤孝、忠興父子や筒井順慶が味方しなかったこと、勅使吉田兼見は正当化
    光秀=天海説、天海の前半生は不明、家康の側近として政治力を持ち菩提寺寛永寺を創建
    日光東照宮には明智家の桔梗紋が多く散りばめられており近くには明智平という地名の存在
    春日局は斎藤利光(本能寺の変の主犯武士の一人)娘であり家康が共謀した本能寺の変という説
・足利義昭
    信長に反旗を翻した毛利保護下の義昭、本能寺の変のもう一人の首謀者とされている説
    秀吉に冷遇された義昭は毛利・柴田と画策、輝元の叔父小早川の反対、朝廷が秀吉を関白に任命
・石田三成
    関ヶ原の戦いで敗戦、三成は農民に保護されたが最後には拿捕され六条河原で処刑
    「味方の裏切りにあい、勝てる戦いに勝てなかったのが非常に悔しい。だがこれも天命だろう」
    引き回しの途中喉が渇き差し出されたものに「干し柿は痰の毒である」と処刑直前の食物拒否
・徳川家康
    健康オタクで自分の作った薬のみで医者の薬は服用を拒絶 自作「万病丹」「銀液丹」を処方
    乗馬や鷹狩、水泳を行い、贅沢な食べ物は食べず麦飯など粗食、鯛の天ぷらの食べ過ぎで食中毒
    家康病床には秀忠、展開と本多に遺言、遺体は久能山、法会は増上寺、位牌は大樹寺とした
・千姫
    家康の孫娘、秀頼の正室(婚姻は千姫2歳・秀頼6歳)は大野治長が大阪城から助け出す
    子の1男は斬首、1女は尼になる、千姫は桑名城主本多世嗣忠刻に嫁ぐ
    将軍秀忠は10万両の化粧料を出し、その後本多を姫路15万石と栄転させた(化粧櫓)
・徳川光圀
    助さん格さんは実在(佐々木介三郎宗淳・安積覚兵衛)明治20年代から「水戸黄門」登場
    綱吉を推挙したのは光圀、だが光圀は「生類憐みの令」に批判的だった
    丹頂鶴を殺した農民に対し「禽獣のために人間を殺すのは本末転倒だから命を助ける」
    藩の予算の3分の1を費やす事業「大日本史」を完成、尊攘思想は水戸藩から派生
・赤穂浪士
    赤穂浪士の処刑が1ヶ月遅れた理由は荻生徂徠の提案で武士の切腹の儀とした
    細川家(17名)、毛利家(10名)、久松家(10名)、水野家(9名)を預かる
    特に細川家では高待遇で世話役が親切で家族への伝言などもした
・貝原益軒
    「養生訓」の健康指南書 食欲や性欲は抑え、惰眠をむさぼらず、言葉を慎むのも長生きのコツ
    射精は20代は4日に一度、30代は8日、40代は16日、50代は20日、60代は閉じる
    「病気は薬を飲まないでも自然治癒することが多い。薬を飲み過ぎるとかえってその影響で食欲がなくなり、病が悪化して長引き、死に至ることも少なくない。薬を用いるのは慎重にせよ」
    「風邪は身体を温めで消化の良いものを食べ、ゆっくりと休養と睡眠を取れば治る」
    「朝起きたら手で足の指を握り、もう一方の手で足の裏を強くさする、足の裏が熱くなったら、両手を使って足の指を動かせ」
・平賀源内
    「エレキテル」は壊れた舶来を修理して直したものを「見せ物」として利用
    「金唐革紙」(1775年)なめし皮に金箔などを施した細工は大ヒット
    引越しは生涯に十数回、獄中死の源内に親しかった杉田玄白は墓碑を建てた
・葛飾北斎
    好きな絵描きを生涯通した、片づけられない症候群、ゴミだらけの家でだらしない生活
    雅号を50回以上変えて弟子に売っていた(弟子は約200人)、引っ越しも56回
・小栗忠順
    幕府財政運営を担いだことから「幕府埋蔵金」噂が立つが発見されていない
    日米通称交渉、造船城建設、大砲製造所など勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行陸軍奉行歴任
    薩長遊撃で3千以上の伝習隊、軍艦8隻、輸送船7隻、26砲門軍艦で計画が慶喜により棄却
    権太村で(権太城跡)にて薩長が襲撃、三ノ倉村で拿捕だれ斬首
    勝海舟の「幕府には三百数万両の金があった」という疑わしい発言
・西郷隆盛
    大津事件(ニコライ皇太子が襲撃される)によりシベリア・ロシア軍基地生存伝説
    西南戦争で戦功を得た警備の津田三蔵巡査が襲撃した、ロシアとして宣戦布告できる口実
・陸奥宗光
    剃刀大臣として清国と外交交渉した功績が高い(莫大な賠償金と台湾・遼東半島を割譲)
    「蹇蹇録」(ケンケン録)露・独・仏・三国干渉概要など外交記録を出版
    「家族と別れるより、政治から離れる方が辛い」と遺言
・有島武郎
    人生を自死で締めた作家(その他太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成)
    人妻との恋愛の末、心中 (姦通罪で入獄を覚悟しながら自殺)
・榎本健一
    喜劇王「エノケン」の難病、特発性脱疽、血液が湯行き届かなくなり壊死する病気
    息子の死、妻の暴飲・浪費・新興宗教・熟年離婚、足の切断を決意