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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷中学校、農業実習地返還等につき報告 1960年

2009-09-15 22:40:00 | 菅谷地区

昭和三十五年六月二十日 埼玉県比企郡菅谷村立菅谷中学校長
                        安藤専一
菅谷村教育委員会殿
   農業実習地返還等につき報告
右のことについては左記のとおり報告いたします。
     記
 大字 字地番 台帳 現況 耕作面積 等級 地主管理者 小作料
1 菅谷 城779-1    畑 4畝       農林省
        昭和35年3月返上。東南ア農業センター敷地となる
2 〃  城784  畑  畑 1反8畝1歩 4 【氏名略】 小麦1斗5升
        昭和35年6月返還
3 〃  城747  畑  畑 2反23歩  6 【氏名略】 小麦1俵
        昭和34年12月返還
4 〃  元宿  (校地) 畑 約1畝      村有
        電信柱移転の条件として無料にて  氏に耕作させる
5 〃  西裏472 沼  畑 1反3畝     菅谷神社 饌米として白米3升
        現在実習地

※1960年の時点で菅谷中学校の農業実習地として使われているのは5番(山王沼の西、現・菅谷中央公園の一部)のみであるが、菅谷館跡内にも実習地があったことがわかる。1・2番は菅谷館跡二の郭(忠魂祠前)、3番は三の郭内の地番である。


都幾川砂利採取跡で水難事故 1960年

2009-09-08 12:39:40 | 1960年

昭和三十五年五月二十七日
            菅谷小学校長 藤野秀谷
  菅谷村教育委員会教育長殿
     児童通学途上の危険防止について
最近都幾川に於て興農研修所下並に二瀬附近に別紙略図の如く砂利採取跡に多数の危険箇所があり、何れも水深甚しく学童の事故未然防止のため、至急、村当局の御配慮を御願致します。
        至急
【以下鉛筆で加筆】
学校と電話連絡の結果
学校長の意見としては、唐子小学校PTA会長関田氏(県議)に依頼して県土木課に陳情し、採取跡を埋めさせることにしたいから、それには委員会からも出向いてお話ししてもらいたいとの事です。昨年は唐子の方から学校に連絡があったのでお話した由。

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【二瀬下流200mには、水深2.5m~3mの穴が11、その下流の右岸側30mには水深2.5m~5mの穴16、左岸の興農研修所梅林下流50mには水深3.5m~5mの穴5が描かれている。都幾川での砂利採取後、そのまま放置されたものである。7月には小学三年生の児童が溺れる事故が起こった。】

昭和三十五年七月二十日 菅谷小学校長 藤野秀谷
  菅谷村教育委員会殿
     児童事故発生報告
左記のとおり事故が発生したので報告します。
   記
一、事故の種別 水難
二、学年氏名 三年生 【氏名略】
三、日時 七月十六日午後二時半(放課後)
四、場所 都幾川二瀬
五、状況 別紙の通り(現在無事通学)
六、措置 本人は勿論、全校児童に厳重に注意。尚救出者に関しては駐在所より表彰方申請。
                    以上

   おぼれている児童を救出
一、日時 七月十六日(土)午後二時頃
一、場所 菅谷地内、都幾川の二瀬(砂利採取の穴)
一、おぼれた児童 【氏名略】(菅谷小学校三年)
一、救出した人 内田政一(大字平沢)会社員

「あらまし」 十六日の午後、同場所に、六年生の友人二人と泳ぎに行き、砂利穴の水の中で、おぼれるまねをしていて、それが、本当になり、おぼれかかってしまった。大事に至らずに済んだのは、内田政一さんのおかげであります。
     七月二十日   報告者 木村忠夫


重忠節 作詞:中島運竝 1965年

2009-09-07 10:10:00 | 菅谷

   〝重忠ぶし〟

 一 秩父の嶺に 雲は湧き
   流れも清き 都幾川(つきがわ)の
   山河ゆかしき 菅谷野は
   関東武士の かがみなる
   重忠公の やかた跡

 二 文武の道に 励みたる
   誠忠無比の 精神(まごころ)は
   源平宇治の たたかいに
   ひよどり越えの かちどきに
   先陣競う 男意気

 三 風雲告げる しらせにて
   鎌倉山に 急ぐとき
   二俣川の 夕まぐれ
   世に謳(うた)はれし 英雄も
   天命ついに 果敢なしや

 四 時は過ぎゆく 幾星霜
   菅谷野山河 遷(うつ)るとも
   鎌倉武士の 功(いさ)をしは
   われ等がたぎる 熱血に
   生きてぞ通う 重忠ぶし

     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日

※埼玉県知事畑和(はたやわら)作詞、三橋美智也歌唱の重忠節が発表されたのは、1977年(昭和52)7月21日である。
 一 国は武蔵の畠山
   武者と生まれて描く虹
   剛勇かおる重忠に
   いざ鎌倉のときいたる
 二 平家追い討つ一の谷
   愛馬三日月背に負えば
   そのやさしさに馬も泣く
   ひよどり越えの逆落とし
 三 雪の吉野の生き別れ
   恋し義経いまいづこ
   静の舞の哀れさに
   涙で打つや銅拍子
 四 頼み難きは世の常か
   誠一途が謀反とは
   うらみも深く二俣に
   もののふの意地花と散る
 五 仰ぐ秩父に星移り
   菅谷館は苔むせど
   坂東武者のかがみぞと
   面影照らす峯の月    


三年目の勤評反対デモ 1960年

2009-09-06 18:35:54 | 1960年

 九月十五日行はれる勤務評定反対のデモ行進が、九月二十二日【ママ】村内を通過した。
 勤評反対、勤評即時撤回せよ等のプラカードや、赤旗に埼教組の支部名を書いた大旗をふりかざした物々しさ。よく見ると大部分が、「俺が村の先生だ」。この暑いのに、「御苦労様」と声をかけると、先生もニコニコ手を振って挨拶。プラカードと赤旗がなければ、先生達の遠足見たい。勤評反対も三年目を迎えて、年中行事化か?
   『菅谷村報道』114号 1960年(昭和35)9月10日

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菅谷大通りを松山方向に行進するデモ隊(小島屋前から撮影)
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嵐山町・菅谷神社の祭神 6 菅原道真公命

2009-09-04 06:22:45 | 菅谷

  贈太政大臣正一位 菅原道真公命
此の大神は当所字城畠山重忠大人城跡三の郭に壱丈参尺余の築塚あり其山上へ*宝暦十二年(1762)九月吉日京都市上京区御前通馬喰町に鎮座官幣中社北野神社(往古は天満大自在天神宮と奉称)の御分霊を奉遷観請す因て天満大自在天神宮と奉称しを明治四年(1871)に至り無格社に列せられ社号天神社と改正す然る処今般神社の設備完全を期して明治四十年(1907)三月二十日付を以て村社菅谷神社へ*合祀の儀出願の処同年四月十七日付を以て埼玉県知事の御許可を得同年七月十七日合祀祭執行す
   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*文字は「伊」(い)であるが、「江(へ)」の誤記として改めた。


嵐山町・菅谷神社の祭神 5 保食命(うけもちのみこと)

2009-09-03 13:43:15 | 菅谷

  保食命亦名稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
此大神は当所本宿に直立壱丈余築塚(此の塚の下は石室)あり其山上畠山重忠大人の鬼門除の農蚕業の守護神として年月日不詳雖然京都府城紀伊郡伏見里深草村稲荷山に鎮座の官幣大社稲荷神社の御分を奉遷観請す本社境内は五畝拾八歩御除地の処明治四年(1871)に無格社に列せらる尚同五年(1872)に境内参拾歩を残し跡は上地官林に引裂れ明治三十七年(1904)六月二十日付をもって特売により四畝拾歩および立木共買受設備完全のために同年三月二十日付を以て村社菅谷神社合祀の儀出願候処同年四月十七日付を以て埼玉県知事の御許可を得同年七月十七日合祀祭執行す

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より


嵐山町・菅谷神社の祭神 4 畠山重忠公

2009-09-02 13:38:00 | 菅谷

 畠山重忠命
畠山重忠ハ秩父神社ナリ重忠当地ニ新城ヲ築キ居住中農工商悉ク愛撫シ終ニ元久二年(1205)六月二十二日四十才ニシテ武蔵国ニ於二俣川ニ戦死ス農工商ニハ重忠ノ恩徳ヲ感シ承永元年(ママ)*六月二十二日戦死ノ日ヲ以テ鎮守ノ末社トシテ其ノ神霊を勧請ス

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*永承(えいしょう)(1046年5月22日~1053年2月2日)という年号はあるが、「承永」はないので、「貞永(じょうえい)」(1232年4月23日~1233年5月25日)と思われる。貞永元年は1232年。

※畠山重忠については、川本出土文化財管理センター『武蔵武士 畠山重忠辞典』。


嵐山町・菅谷神社の祭神 3 市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)

2009-09-01 12:28:00 | 菅谷

  市杵島姫大神
抑当神社ハ往古当地ノ者弁才天ヲ信仰シ安芸国佐伯郡*厳島町ニ鎮座ナス厳島神社ヘ懇願ノ上建久二年(1191)五月二十一日ノ吉辰ヲ以テ当所鎮守山王宮御境内御手洗池中ノ塚ニ末社トシテ御分霊ヲ奉遷シ然ル後変シ王政復古**維新ノ際遂ニ敷地ノ沼地ハ境内ヲ分裂シ官有第三種ニ編入セラレ共ニ神社ノ名称モ取サレタル始末ニシテ各氏子信徒ハ遺憾極リナク因テ明治四十年(1907)十二月二十五日ヲ以テ沼地六段六歩ヲ現今ノ菅谷神社ノ境内ニ編入ト共ニ神社ノ再興ヲ出願シ仝四十一年(1908)五月二十三日埼玉県指令社収第一五九五号ノ七ヲ以テ境内取拡ゲ境内神社公認ノ件聞届ケラレ茲ニ再挙ヲ成スヲ得タリ因テ記念トシテ其経歴ヲ謹記ス
  明治四拾壱年五月弐拾弐日

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*「佐郡」を「佐伯郡(さえきぐん)」に訂正。
**「往政復古」を「王政復古」と訂正。