里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

志賀村騒動記 "娘に色目……"スワ合戦

2008-11-02 20:58:09 | 小江川

 志賀村(嵐山町志賀)の若者たちは、どうも威勢がよすぎたようだ。これは、前回でも触れた水野家の剣術道場(水野倭一郎道場主)「士関演武場」の繁栄からもうかがえる。この血気の多さが、近くの小原村小江川(江南村小江川)との、地域ぐるみの大喧嘩(げんか)を引き起こした。戊辰戦争が終わり、世間が平静を取り戻しかけた明治三年(1870)のことである。
 ことの起こりは、同年四月十二日夜、志賀村の娘に小江川の若者が"色目"を使ったことが発端。これを見とがめた志賀の若者と小江川の若者たちの間で口論となった。この場所が悪かった。大がかりな回向が催されていた杉山村(嵐山町杉山)の薬師堂境内。そばには、志賀村が腕によりをかけて作って飾った大江山酒呑童子退治の人形があった。口論のすえカッとなった小江川の若者が、この人形の首を引き抜いたからたまらない。逃げるのを追いかけた志賀の若者たちは、隣の広野村(嵐山町広野)の石橋の下に隠れていた小江川の岡部勇之丞を見つけ、袋だたきにしたうえ縛りあげてしまった。
 岡部を救出するため、小江川では杉田幸七らを中心に百数十人が集まり、竹ヤリなどの武器を手に志賀に向かってきた。志賀でも、水野倭一郎の長男喜一郎が先頭となり、腕自慢が集まって迎え撃つ準備をした。やはり武器は竹ヤリ。水野家の「一反五畝(約十五アール)の竹やぶを全部切ってヤリにした」=水野信夫さん(46)=というからすごい。倭一郎は鎧(よろい)を着込み、馬上で助宗作の大刀を振りかざして指揮をとる。
"小江川軍"は広野村庚申塚、"志賀軍"は杉山村溝堀谷に陣取った。今では、この地もはっきりしないが、庚申塚とは嵐山町川島地区の庚申塚あたり、溝堀谷とは「溝堀」という屋号が残っている杉山【番地略】、内田恒雄さん(45)宅付近らしい。とすれば、"両軍"の距離は約二キロ。ともにかがり火をたき、ほら貝を吹き鳴らしての一時触発の状況となった。
 近郷の村人たちの方が、この騒ぎに驚いた。広野や杉山など六村の総代ら六人が、あわてて紋付袴(はかま)の正装で仲裁のため両陣営の間をかけ回った。初めは首を縦に振らなかった双方も、十七回も往復した仲裁人の顔を立て、「こう頼まれては……」と和解。流血の惨事は免かれた。
 この騒動は、さっそく大里村の瓦版屋にとりあげられ、てん末は「ここにサァエー 珍し騒動話し」という文句で始まる歌となった。志賀、小江川地区では、やはり歌として明治末ごろまで、娘たちは洗い物などをしながらよく口ずさんだという。
 騒動の後日、小江川で田舎歌舞伎を呼んでの盛大な手打ち式が行われた。争いでの被害者は袋だたきにあった岡部勇之丞だったが、和解での被害者も出た。それは、小江川での聟養子たちだった。歌舞伎は回り舞台。下で一生懸命、舞台を回す役目を言いつかったのが、集められた婿さん連中だった。三角英吉さん(68)(小江川【番地略】)は「昔は、婿の扱いは、そりゃひどかったんです」と、とばっちりの被害者たちに同情を寄せる。
 ところで、志賀での大将格だった水野喜一郎のひ孫の水野正男さん(70)は産婦人科医で子供三人とも医師。一方、小江川の方は、"捕虜"となった勇之丞の子供は岡部宗助さん(71)(小江川【番地略】)で酒店を営み、幸七の孫の杉田弥平さん(55)(同所【番地略】)は「ポンポン山ヘルスセンター」を経営している。杉田さんは、「うちのヘルスセンターに、志賀の人たちも沢山来てくれてます」というから両地区での騒動のしこりは全然ない。

 メモ:騒動の発端となった薬師堂の天井には、「にらみ竜」の墨絵が描かれている。江戸時代、蜀山人らとともに活躍した狂歌師元杢網の筆によるものだ。杢網の本名は金子喜三郎、享保九年(1724)、杉山で生まれた。学問が好きで、家で手習いを教えていたが、壮年期に家を弟の喜四郎に譲って江戸に出た。杢網は初め、当時の銭湯である湯屋業を開いて生計を立てながら、狂歌を学んだ。あか抜けていて好男子だったことから、当時、「杢網は兼好を一度湯がいたようだ」とその粋ぶりが語られたという。
 杢網には子供がいなかったため、生家を継いでいるのは、喜四郎から八代目に当たる金子長吉さん(79)(杉山【番地略】)。金子さんの家には、自画像の狂歌の掛け軸などの遺品が残っており、墓地には「あな涼し 浮世のあかをぬぎすてて 西へ行く身はもとのもくあみ」の辞世の歌が刻まれた墓がある。
     「まちかど新風土記91 鎌倉街道・嵐山」(『読売新聞』埼玉版1978年5月19日)


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