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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷の千手観音について 浅見覚堂

2008-09-18 10:10:00 | 志賀

 昭和53年(1978)12月、享年80歳で亡くなった中島喜市郎氏の遺構を、編集したものです。

  菅谷の千手観音について
 
比企郡嵐山町大字菅谷、曹洞宗東昌寺に、多田山千日堂があります。

①千日堂の由来
 千日堂の本尊は、千手観世音菩薩であります。嵐山町大字志賀の「陣屋」と土地の人たちに呼ばれている、多田米三郎氏の先祖【主君が正しい】岡部主水(もんど)もしくは玄蕃守(げんばのかみ)の母は慶長年間(1596~1615)、徳川二代将軍秀忠公の乳母【秀忠誕生は1576年(天正4)】をなされ、正心院さまと申されておりました。正心院さまがお亡くなりになりましてから、正心院様のお位牌は国許の志賀の陣屋、多田家に送り届けられました。法名を正心院殿日幸大姉と申します。そのため当主の多田平馬は正心院様の位牌堂建立を計画し、宝暦年間(1751~1763)、多田一角が完成したものが多田山千日堂であります。

②千日堂の焼失
 この千日堂は昭和10年(1935)、大字菅谷の大家にあい、本尊・位牌・堂宇共に焼失しました。

③本尊千手観世音菩薩新造祭祠の縁起
 昭和18年(1943)10月下旬のある日の夕方、日本農士学校農場長、長野県出身の酒井利晴先生が我が家を訪れまして、「中島君、サツマのふかしたのがあるかな」と云いました。その時あいにくサツマのふかしたのがなかったので、私は先生に「今晩、夕食を食べていませんね」と言いますと、先生は「見破られたかな、その通りです」と言うので、「それでは百姓の真の生活を味わってもらいましょう」と麦飯に白菜、自家製のおなめを出して食べてもらっていますと、隣家の関根正作さんが「今晩は」と言って入って来ました。食べ終わって参人でお茶を飲んでいましたが、酒井先生の言うことに、「俺はこの間、安岡先生のお供して、東京に石油会社を経営している松村善蔵さんという人のところに行きました。すると食事が出たので観音経を読み合掌しました。すると、松村さんは先生に、『あなたは観音信者か』と聞きましたので、先生は、『観音信者ではないけれど観音経を読んだのだから観音信者だ』と言った」のだそうです。「松村さんは、『観音信者なら観音様の軸物をあげる』と言った」という話をしました。
 この話を傍で聞いていた正作さんが独り言のように、「菅谷では観音様が焼けてないのだから、誰か観音様をくれる人があればいいなぁ」と言いました。酒井先生が「それでは私が話してみましょう」と言って帰りました。
 二、三日過ぎて松村宅に行き、その話をすると松村さんも快く受けてくれ、「それは何観音」と聞かれたので、「それはわからない」と言いますと、「聖観音ならすぐある」と言われたそうでが、わからないまま帰り又、正作さんに会いその話をしますと、「千手観音である」と言いました。先生は松村宅に行きその話をすると、「千手観音ならこれから半年後でなければ出来ない」ということでした。昭和19年(1944)7月になって「ご希望の千手観音像が出来上がった」という知らせがありました。

④観音像を迎えて
 昭和19年(1944)7月19日、当時観音さまの世話人であった根岸久一郎さん、関根正作さん二人と、観音さまの事につき非常に協力していた的野哲四郎さん(陣屋の血統を引いているという)と私と四人で行くことになりました。四人はまず東京の金鶏学院に着きました。休憩して昼食は学院に戻ってやることになっておりましたので、私は学院のコック飯野さんにおかずを頼んで学院を出発しました。安岡先生のお宅に立ち寄りましたが、先生も非常に多忙な方で、菅谷から来てくれたのでゆっくり話したいが、小磯君が帝国ホテルに待っているとのことで、先生と一緒に安岡先生宅を出まして松村氏宅に向かいました。その時は小磯内閣の組閣の時でした。松村氏の宅で、昼食としてあんこのない炭酸まんじゅうを頂きました。松村さんは観音像の前にて謡曲をやってくれました。そのあと松村さんの奥様と私二人で観音像を箱に入れ荷造りしました。それを頂いて金鶏学院に戻り、持参の弁当を食べました。
 東上線にて菅谷駅【1935年(昭和10)以降は武蔵嵐山駅】に着いたのですが、驚いたのは駅の玄関前には当時の東昌寺住職・中島信龍和尚、宝城寺住職・鷲峰玉堂和尚、他檀信徒三、四十人が出迎えに来ていたのであります。私は白布に包んだ観音像の箱を抱え、四人一行は迎の方々に護られて無事、東昌寺に着きました。

⑤正心院殿日幸大姉の位牌
 東京の実業家松村善蔵氏の篤志によって、多田山千日堂の本尊千手観音像が大字菅谷に寄進されましたので、多田家の当主多田浦吉氏に相談いたしましたところ、浦吉氏はもう全部焼失してしまったからと言って、相談に乗ってくれなかったので、多田家八代目豊吉氏の三男竜作氏(当時、東京深川清澄町に住す)に観音様の写真を持って行き相談しました。快く引き受けてくれまして、出来たのが現在の正心院殿日幸大師の位牌なのであります。

⑥奉安殿が観音堂に
 昭和20年(1945)8月15日大東亜戦争も終戦となり、その後はマッカーサー元帥の指令の許に我が大日本帝国は自由国家となり、天皇は帝国国王の位が無くなりましたので、日本国家の象徴となったのであります。そのため全国学校の奉安殿が廃止となり、菅谷小学校にても不必要となり、大字菅谷にては村会の議決を経て奉安殿を観音堂としてもらい受ける事になったのであります。そのため全国学校の奉安殿が廃止となり、菅谷小学校にても不必要となり、大字菅谷にては村会の議決を経て奉安殿を観音堂としてもらい受けることになったのであります。
 翌21年(1946)2月ある日の事、前夜の雪も止んで、快晴の日でありました。当時の区長中島勝哉さんと区長代理の石根丑三さんの二人が私宅に参りまして、この度大字菅谷にて奉安殿を観音堂としてもらい受ける事になったのでと言うことでありました。それからしばらくして三人で相談してから関根亀次郎さんを呼び、四人で相談してから奉安殿を見に行きました。私宅に戻って相談の結果、奉安殿を引く準備を亀次郎さんに任せました。亀次郎さんは志賀の斎藤与吉さんを相手に準備することに任せました。亀次郎さんは志賀の斎藤与吉さんを相手に準備することになり、基礎の方は石根丑造さんと私でやることになりました。
 奉安殿は菅谷丸通運送店のトラックに積まれ、エンジンをかけずに大勢の信徒の力引き綱によって観音堂の位置に着きました。その後入佛式を行い、供養を行っておりましたが、堂の痛みが激しくなり、中島操、中島正男、山岸一利氏三人の篤志金参拾万円にて、現在の位置(東昌寺境内】に「観音堂兼茶室」として移転したのが多田山千日堂であります。
 多田山千日堂(観音堂)解体は昭和52年5月頃で、その跡地には菅谷自治会館が建設され、同年八月十六日竣工式を行いました。
  『原っぱ比企』7号(1990年10月)の「街角の歴史散策」に掲載されたものを修正、補筆した。


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