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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

酪農の生きる鎌形・長島崇さん 1968年

2009-12-06 16:02:00 | 1968年

   酪農に生きる
     比企郡嵐山町大字鎌形 長島崇(31歳)

 景勝地で知られている武蔵嵐山の清流槻川に沿って比企郡嵐山町大字鎌形のがある。付近の山々は紅葉で染まり美しい風景を槻川の流れにうつし都会では味わえない農村の良き風景をえがきだしている。
 この地方は山間山添地帯で比較的経営規模が小さく古くから養蚕の盛んな所である。米+養蚕の農家が多く、ついで酪農、養鶏が盛んである。近年畜産については専業化の傾向にあり飼育頭羽数も多く大型化してきている。
 ここで紹介する長島崇さんも酪農に情熱をもやし誇りをもって打込んでいる1人である。経営内容を紹介する前に彼長島崇さんの生いたちから記してみよう。

 ○蜂に刺され皆勤賞を逃す
 昭和12年(1937)4月22日比企郡嵐山町(当時菅谷村)大字鎌形に父実、母まんさんの農家の長男として生れる。昭和19年(1944)小学校入学、25年(1950)3月卒業。小学6年の夏、蜂に顔を刺され友達に顔をみられるのがはずかしく1日欠席する、その為皆勤賞をもらえず後で残念がる。その時中学では頑張ろうと心にきめる。25年4月中学に入学、級長になる。「まじめによく勉強するがおとなしすぎる」担任の先生のいつもの批評である。38年(1963)中学卒業、小学校で逸した皆勤賞をもらう。何事も努力である。

 ○農業に生きる喜こびを感じる
 高校卒業後農事にはげむ。農村に生れ土に生きる喜こびを感じ自分の生涯に一番幸福をもたらしてくれる職業は農業以外にないと心にきめる。昭和32年(1957)県外の酪農家に2ヶ月間研修にいく。この頃より農業に自信と喜こびを強く感じる様になる。33年(1958)成人式「ゆたかな農業生活をめざして」という題で未来の農業経営について発表。全国大会に出場する。
 34年(1959)12月NHK青年の主張に出場、関東甲信越大会に二位に入賞。この頃牛も4頭になり酪農経営に益々希望がわいてくる。

 ○経営の内容
 家族は8人(内子供3人)で労働人員は2夫婦であり、労力の基幹は長島さん若夫婦であるが、父親が昨年(1967)4月より町の農業協同組会長に就任され、現在は労働人員3人であり、労力換算にすると約2.5人である。酪農以外は水田13a、桑園20a耕作している。普通畑の200aは牧草の作付であり、若干自家用そさいを作付する程度である。桑園20aは年間養蚕80gの掃立で25~30万円の粗収入をあげている。養蚕経営については母親が中心である。
 経営の主体は酪農で別表の如く搾乳牛16頭、育成牛4頭を飼育し農業施設も、牛舎2棟、堆肥舎、収納舎、養蚕鉄骨ハウスと整っている。農業機械としては、20馬力のトラクター、運搬用自動車等があり、その外多くの農機具があり、近代的農業へと進みつつある。
 牛乳生産量は年間8万㎏から8万5千㎏だし200aの畑には計画的に牧草が栽培され、飼料の自給化がはかられている。
 昨年の酪農所得をみると約138万4千円であった。その外稲作、養蚕の所得を加えるならば150万円以上になるだろう。目標としている自立経営の代表的農家ともいえる。

 ○経営の概況
   1.家族構成と農業従事者
   2.耕地
   3.主な農業施設(含農機具)
   4.作付面積、家畜の飼養頭羽数
   5.農業所得の概要

 ○農事組合法人設立
 本年(1968)春、普及所より農事組合法人の話を聞き、酪農事業による法人化の必要性を知り、普及所、コンサルタント協会の指導及び役場の協力により資本金320万円で農事組合法人設立に踏切る。8月26日農事組合法人南原農場が誕生した。(南原とは現在地の地名である)
 組合員は5名で代表理事が長島さん、両親が理事、奥さんが監事に就任、妹さんも組合員である。搾乳牛は現在の倍の30頭を目標に飼料作物の計画的栽培、糞尿処理の問題等いくつか事業計画にのせ問題解決に努力している。

 ○農家に嫁いだよろこび
 一時はサラリーマンの奥さんを夢み、出来ればサラリーマンに嫁ぎたいと思った事もある。「自分の仕事に誠意をもって働ける人は幸せだ。どんな職業でもその仕事に心身共に打込んで努力すれば喜びは必ずその中に見出せる。与えられた道を精一ぱい生きる事が大切」。学生時代に読んだ本の一節であるが、その頃から心身共に打込んでやれる職業―農業をやろうと心にきめ農家に嫁いだと、その喜びを奥さんはこう語ってくれた。
 本年10月1ヶ月間、商工会青年婦人の船で東南アジアの視察に参加し大いに見聞を広めてくる。職業の違う人達と接しお互いの職業を理解し合い特に農業を他産業の若者達によく知ってもらうには良い機会と思い参加した。
 酪農を始めてから泊りがけで家をあけた事がなかった。1ヶ月牛からはなれるのはつらかっとと言う。しかしこの視察も何らかの形で今後の酪農経営にプラスになるであろう。
 又これ以上に大きな意味があったのは奥さんが長島さんの留守を守り、搾乳其の他、管理一切をやりとげた事であろう。長島家の一員となり数年、りっぱな酪農経営者になったことを示した事である。酪農経営も技術だけでは向上しない。よき片腕となって協力してくれた奥さんがあったからこそである。
 農事組合法人になってから3ヶ月家族全員いや組合員の活躍を期待してお別れする。  (村田記)

   埼玉県農業祭開催委員会『若い農業経営者の群像』1968年12月 31頁~32頁


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