S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「ありのまま」と「その先」

2005年09月16日 | 「障害」に関わること
巡回先になっている『斬(ざん)』のエントリー「あなたの今のWEB界における注目の話題は?」を読む。
列挙されるものを見ながら(ふーんこれが話題なの)と思いつつ、目が止まる。
「非モテ」ってなに?
最近話題なの?
と思って、はてなブックマークに行き、検索。
はてなブックマーク > 非モテの検索結果

つらつらと眺めつつ、ふと目が止まり、本文を読む。
[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridges

これを書かれた「iduruさん」という方からは、「なんでそう発展するのか」と戸惑われそうなのだけれど、わたしはこの文章に、「障害児の親が『障害児』という存在の子どもを受け入れるということ」ということと共通の要素を見出す。

障害児の親の中に、その障害に対応する早期療育や機能訓練に「躍起になって」という表現が合うような情熱の持ち方をする人は少なくない。
とても短い期間ではあったが、わたしも一時は、この「躍起になって」という表現が似合う行動に引っぱられそうになったこともあると思う。
しかし、ふと立ち止まった。
子どもの声が聞こえるような気がした。

「努力して努力してあなたの好みに少しでも合うように自分を作り変えないと、わたしはあなたから受け入れられないのか」

「普通に近づける」という情熱の「普通」とはいったい何なんだろう。
この子はこの子としてまず存在しているわけで、この子が持っているひとつの要素である「障害」を認められないままに「改善」を子どもに押しつけようとするのはまちがいなんではないだろうか、と。
「障害」を認められない人間が「障害」を改善しようなんて「欲」は、なんというか、そう、醜い。

「ありのままを認める」。
しかしこれはけして「停滞しろ」という意味ではない。
あなたはあなたが行きたい方向に進む権利があり、成長する自由がある。
手を引っぱって「普通に向かって連れていく」のではなく、あなたが成長する自由と成長したいと思う気持ちを育むこと。
そのことが大切なんではないかと、ある日気づいた。
「ありのままを認める」とは、「そのままでいろ」という意味じゃない。
あなたが進もうとする出発点、そのあなたのスタートの姿とあなたの自由をそのままに、その「生きる命」を認めるということなんだと思う。
「生きる」ということは、変化するという可能性を持ち続けることだと思う。

[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridgesの「iduruさん」は、1人の女性から服装に関しての「助言」を与えられる。
これは、この女性が出会った「iduruさん」を、まずそのままで「認めた」からこそ出てきた「助言」だとわたしは解釈した。
「認めた」ということがなければ、他人の服装やそれが他者に与える印象なんぞ、ほうっておけばいいことだと思う。
無視し、流し、忘れる、それで終わることだろうと思う。
「ありのまま」を認めるからこそ、「その先」に対して関心を持ち、相手に対して不快感を与えたらどうしようかと迷いつつ、そのことを出す。
「iduruさん」さんの「行動」とその報告により、自分が伝えようとしたことが「伝わった」こと。
この女性がどんなにか喜ばれたか、わたしはなんというか、見えるような気がした。

「ありのまま」が出発点になり、「その先」へ発展していくこと。
わたしはそのことを信じたいと思うし、信じているからこそ、人間はまずありのままで認められることが大事なんだと思う。
誰かの「ありのまま」を認めるということは、穴蔵の中の自己満足につき合うことじゃない。

[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridgesの文中で、橋本治氏という方の「恋愛とは中途半端に出来上がった自我を壊して築き直すためのプロセスなのだ」という名言の紹介が出てくる。
そしてわたしはこ「名言」を読みながら、さらに思った。
この文章を書かれた「iduruさん」の「人と人とが関わるということはその他人との出会いによって自分が変わるような、そういう経験なのだ」という言葉も、「名言」だよなと。

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[雑記]「非モテ」という言葉なんか捨ててしまえ!/Rivers and Bridges