S嬢のPC日記

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見失う希望、見つける希望

2005年09月07日 | 「障害」に関わること
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希望をくれたブログ / 徒然こそだて日記
この記事、実は5月に書かれたもので、最初はリンクは無く、心境だけが語られていた。
ライブドアのブログの「未来検索」というツールに入れてある「ダウン症」というワードでピックアップされて、わたしのところにメール通知が届く一覧のうちの一つだった。
リンクは無かったけれど、なんというか、自意識過剰というか、読んですぐ「あ、ウチのことだ」と思った。

「希望をくれたブログ」という形容はすごいけれど、言ってしまえばなんてことはない。
そのくらい「希望が見えなくなる」ものだと思う、「生まれた赤ちゃんはダウン症でした」という告知を受けることは。
ダウン症だけじゃない、生後早くに障害がわかる子どもの親は、みんなそうなんだと思う。

人生が変わる、と思う。
昨日までの喜びは、もう手に入らない、と思う。

重い合併症、特に命に関わる合併症の治療のスケジュールがたてこんでいる場合はそっちに気持ちを持っていかれるけれど、幸いに健康に生まれたダウン症児の親は、つらい。
ダウン症の乳児は、本当に育てやすい。
育てやすいというか、なんというか、ヒマだ。
けたたましく泣く子は少なく、ふにゃとか、ふにゃ~~とかというような、こちらが余裕を持てる泣き声で泣く。
生後一ヶ月や二ヶ月は「寝ている」というより「昏睡状態」のような寝方をしていて、気がつけば必要なミルクを摂取する時間なんてものが全く無視されるかのように、寝ている。
たいがいの赤ん坊の母親は、夜中にぎゃーぎゃーと赤ん坊に起こされて授乳をするのに、この子たちは下手すれば日中でも「起こさなければ」ならなくなる。
時間的な余裕を、持たされてしまう。
時間的な余裕ができれば、湧き起こるのは、不安。

たまにダウン症でも、まあってくらい健康な乳児もいる。
ダウン症の母乳育児は、下手くそな吸い方と、母乳を吸い続ける体力が無いこととかで続かず、母乳は出なくなり、たいてい失敗する。
しかし、まあってくらい健康なダウン症の乳児は、たくましく母乳を吸い続け、大きな声で泣き、夜中に母親をたたき起こす。
こういう健康なダウン症児の母親は、わたしの見てきた経験上では、受け入れもいい。
時間的な余裕を持たされるってのは、ある意味、ろくなことじゃないのかもしれない。

人生は、変わらない。
昨日までの喜びだって、手に入る。
ただ「自分は何かを告知されるということの無い、普通の赤ん坊を抱くつもりだった」という思いは永遠に消えないだろう。
それでも、新しい扉を開くことで、きっと一生知らなかったはずの思いと、発見と、喜びが手に入る。
望むことをあきらめなければ。

人生が変わってしまうんじゃないか。
その衝撃の中、みんながみんなではないけれど、ダウン症の親で多い、ある「思うこと」というものがある。
後日、仲間内で笑い話になる。
思っていた人間は、「自意識過剰」と呼ばれる。
「ダウン症の子を連れ歩く人生は、人にじろじろと見られる人生になる」
→「きれいでいなきゃ」「きれいにしてなきゃ」
ま、ある意味「女の意地」みたいなモンで、父親には出ない発想でしょうな。

「希望をくれた」というすごい形容がついたのは、ぶはははは、の「朝の母」。
娘の登下校の送迎及び尾行において、「耳に音楽」というのは長きにわたる楽しみでしたね。
だって、自分よりはるかに遅いペースで歩くヤツの尾行って、ヒマよ?  
耳、あいてるし。

まだ「耳に音楽」、やってなかった頃のこと。
小学校の通学路を、朝、1人、帰る。
道に人はいない、頭、ヒマ。
小さい声で、好きな歌を歌う。
人はいない、テンションが上がる。
そんなときに、わたしは右足首を捻挫しました。
ぐきっと、かなり派手にやりました。
帰路、テンション、上がり過ぎました。
小さい声で歌っていた歌のテンションがピーク時に、目の前に段差がありました。
歌のサビに合わせて、段差を飛び降りました。
不幸にも、そこには、普段、あるはずの無い、両手でなければ持てないくらいの「でかい石」がありました。
頭の中を巡る音楽のリズムに合わせて勢いよくジャンプしたわたしは、その石の存在により、派手に着地に失敗し、右足を抱えてうずくまったのでした。
2001年6月5日の「朝の母」です。
後で友人に「状況がよくわからん、現場写真を」と言われて撮ったのがコレ。
ノリノリでジャンプした「現場」です。

*TB*
希望をくれたブログ / 徒然こそだて日記