S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
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「嘘」

2005年09月24日 | つぶやき
もう、数年前のこと。
夜、電話が鳴りまして。
深刻そうな声で、「わたし嘘をついていたんです」と。
「んん?」

いや、その日の日中、何人かで彼女の結婚のなれそめなど聞きつつ、ノロケがかわいらしくてからかいまくっていたんですが。
「嘘」とは、知り合ったのが「バイト先」ではなく、「就職先」だったと。
「バイト」ではなく「正社員」だったと。
この彼女、中卒だったんですね、要するに。
そのこと自体は自分では納得していることなのだけれど、そのことで他者の余計な関心を引くのが面倒で、ついそれがわからないように嘘をついてしまう、と。
でも「お世話になっている」ので、嘘をついたという思いに耐えられなくなったのだと。

笑止。
語りたくないことは語らなくていいという自由が人間にはあるのだよ。
それを語らなくちゃならなくなるきっかけが出ることを避ける「嘘」なんてものは、自分に許してやってもいいのだよ。

と返答しつつ、「思いつめた声での電話」という部分をありがたくありがたくいただいたのだけれど。
わたしは、この彼女の「10代の経験」の話が好きなので、その背景になる「学歴」自体はそのことを解釈する情報でしかないということが、相互で確認できたという要素もあったなあと。

娘がまだ小さい頃、連れて歩くときに話しかけられる言葉。
「何ヶ月?」
いや、頻繁にこう言われる時点で、「何ヶ月」ではなく「歳」なんです、「歳」。
言えば、相手、固まります。
大きさとしても発達としても「歳」とはとうてい思えない現状でしたから。
言えば、障害に関して語らなきゃ、その場はおさまらなくなります。

最初はいちいちまともに答えて、驚きのどん引きに丁寧に対処し、娘の状況なんぞを答えたりしていたんですが。
だんだんめんどくさくなった。
「7ヶ月くらい?」と聞かれりゃ、そうですと答える。
「10ヶ月?」と聞かれりゃ、そうですと答える。
「まあやっぱり」なんていううれしそうな顔を見ながら、まあよろしいんじゃないかそれで、なんて思ったり。
そう、「7ヶ月」とか「10ヶ月?」って言葉が妙に記憶に強く残っているので、多分、1歳半から2歳くらいの頃のことだと思います。

3歳下の息子が生まれたら、今度は「あら、双子ちゃんよ」と言う声かけが多くなる。
(双子じゃね~よ)
でも、そう言えば結局、展開は同じ。
「3歳ちがい」と答えれば、相手の驚きのどん引きは簡単に推測できた。
もうこの頃は、どーでもいいよの心境だったんで、相手が言うままで放置。
「双子ちゃんですか?」と聞かれれば、曖昧な笑みで返す。
相手は「勝手に」肯定と取り、それだけのこと。

まあ、このくらいの「でまかせ」なんぞ、罪も無いことよ、と思いつつ、どこかに引っかかっていく部分というものは、多分「正直に言えないようなことなのか」っていう自問自答が関わってくるからなんでしょうね。
でも、関わる相手によって「嘘」も含めて、対応を変えてもいいんではないかと思うのが結局の結論だった。
相手の反応に、いちいちいちいちつき合わなきゃならんことから解放される自由だって、あるよねって思う。

まあ、こんな「通りすがり的相手」に対しての嘘っぱちなんぞは、自分が割り切ってしまえば楽なんですが、難しいのは「中途半端な仲の人間関係」だと思う。
自分が「ちゃんと言いたい」と思う相手には、迷わずに「言う」っていう展開もあるし、迷ってから「言う」というケースもあるだろうと思う。
ただ、そんなときに「視点」として持つ部分。
「嘘」をまぜるときに、問われているのは「自分」というケースももちろんあるのだけれど、問われているのが「相手」って場合だってあって、実はこっちの方が多いんじゃないかとも思う。
まあ、そういうときは、「正直な展開」じゃなくたって、別に罪もあるまいと思う。
どこまで相手に理解されるのか不透明と思いつつ、言葉を尽くしていくのも面倒なときは非常に面倒だ。
話すことを「迷う」部分を抱えているってこと、相手が全て引き取って救ってくれるわけでもないのだし、相手の解釈に誤解があれば、それを解く努力もまた、しなくちゃならなくなっていく。
現実的なとこで言えば、「嘘をつく」か「つかない」かは、現実的な対処として相手に「情報」を与えることが必要不可欠かどうかって、そういうポイントが分かれ目になってくるのではないかと思うのが、個人的な見解。

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