S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「地域」で育む

2005年09月17日 | 「障害」に関わること
「えらいでしょう?」
「えらいんですよ~」
「すごいでしょう?」

「親」たるもの、たいがいの親は「親バカ」だと思う。
ただ、たいがいの人は、そうそう、他人の「親バカぶり」を受け入れてくれるわけではない。

ところが。
知的障害児の親の「親バカ」は、たいがいの人が受け入れてくれるモンだ。
ありがたい、ありがたい。

明日は地域の神社のお祭りです。
御神輿と山車が出ます。
今日は、その「宵宮」。
神社で、地域の子ども会と、その地区の大きなマンションの子ども会との合同の主催の「宵宮」行事。
自治会の役員も「招待」されます。
神社の境内で子ども相手の出店を並べる中で、自治会の役員さんたちとマンションの自治会長にふるまい酒が出ます。
地域の子ども会の会長経験者であるわたしは、そこに呼ばれてふるまい酒のお相伴。

うちの町内の自治に関わる役員の重鎮たちは、うちの娘を熟知です。
当たり前だ、わたしは数年前町内会の広報紙に
「知的障害児の娘が町内行事に参加するのに配慮をいただいたご恩返しに、子ども会の会長を受けることにしました」と書いたんだから。
この「おおっぴらに言うこと」で、地域の中で「おらが町内に住む知的障害児のちぃちゃん」を「見守る方々」は、圧倒的に増えた。
娘に対してどう対応していいかわからなかった「傍観者」の中に「支援者」が増えた。
わたしは安心して町内の「一人歩き」をさせられる。
もしも娘に何かが起きたとしても、目撃者となる人は大勢存在するはずで、それはとても心強い。
障害をもつ子にとって、「地域の目」は財産だと思う。

今日は、在住地区の大きなマンションの自治会長さんの座る席の隣に、ちょこんと娘が座っていた。
酒のつまみが好物の娘は、ばくばくと柿の種やら、おしんこやらを食う。
娘を知らないこの自治会長さんは、時折娘を眺める。
わたしはその前で、うちの町内会長に話しかける。
「腰の具合はいかがですか」
「最近、朝お会いする機会が無くなって、どうされているかと思っていました」
そして娘の隣の自治会長さんに話しかける。
娘が養護学校まで自力で電車で通っていること、その練習のためにわたしが娘を見守っていたときにうちの会長と朝いつも出くわしていたこと。
うちの会長の話は、いわばダシで。
娘の話を手っ取り早くするためのテクなわけで。

「電車で通っているんですか」
「この子にそれを教えて、それが実現しているんですか」

「えらいでしょう?」
「えらいんですよ~」
「すごいでしょう?」

わたしは堂々と親バカになる。
「親バカぶり」が許されることにしあわせを感じながら。

こうしてわたしはまた、地域に娘の味方を増やす。
これはけして「正解」などではなく、わたしの個性を使った、単なるひとつの「やり方」なんだと思うのだけれどね。

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9 コメント

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こんな時間に・・・ (ビックママ)
2005-09-18 04:12:55
大笑いしました。

私も昨日小学校の旗とりでちゃんと順番を待っていたジューに感動し「すごいでしょう。」「えらいでしょう。」をやりました。

そうそう、皆さん私の親ばかぶりを寛大に受け止めてくれました。



私ちぃちゃんのお話をきいていて、いっつも生きていく力っていうものは数字や判定ででるもんじゃないんだな~って思うんですよ。



ちぃちゃん重度判定ということで、そういう重度の判定を受けた子が電車通学してること私の中ではすごい衝撃的だったんです。

発達テストの結果や判定だけでは絶対にわからない部分ていうのがやっぱりあって、そのわからない部分はその子にとってすごい可能性に繋がっているんだな~って。

毎日の生活がこの子達の未来に繋がってるんだよな~と思って暮らしています。



しかしS嬢さんの会話テクみならいたいもんです。









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Unknown (S嬢)
2005-09-18 08:42:51
昨日、初コメ入れてくださった方のブログに飛びまして。

とても興味深いものを見つけましたよ。



http://blog.goo.ne.jp/ai_0407/e/80adb639c76eb5b61c1e62839fed3670



ここに出てくる、実年齢5歳5ヶ月の子どもと発達年齢5歳5ヶ月の知的障害者とを比較した図。



「子どもが下位のスキルから上位のスキルに向かって発達して行くのに対して、知的障害者は、発達障害のある部分で足踏みしていますがそれを経験で補っていることが分かります。」



ハンディを経験で超える。

これが図の形で現れていること、大きいよねえって思った。

「獲得した能力にも支援の必要がある部分がある」ってことでもあるんだけど。

でもね、経験で「飛べる」ってことでもあるんだよなあと。



>私ちぃちゃんのお話をきいていて、いっつも生きていく力っていうものは数字や判定ででるもんじゃないんだな~って思うんですよ。



これ、手帳の判定のためのテストのときに、判定された方に言われました。

「このお子さんの知的能力を確実に判定するテストというものが無いのが残念です」ってね。

「限界はこのお子さんにあるのではなく、判定するテストの方にある」んだって。

こういう見方ができる判定者に当たったからこそ、本人が見せたものというものがあると思うのだけれどね。

このちょっと後に、中学進学のための教育相談で受けた発達テストの結果は惨憺たるものだったらしい。

手帳の判定時に出た数値を思いっきり疑っていたもの。

でも、わたしは、その判定者の娘に対しての態度の方が、「思いっきり疑う」ものでもあったのだけどね。



どうだ、

うちのお嬢、

人を見る目があるでしょう?

すごいでしょう?

(自慢)
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こんにちは1 (ai_0407)
2005-09-18 12:45:10
こんにちは satomiesさん 

そして ビックママさん。 

認定システムに問題を感じて 5月連休前から 認定ソフト作りをしていました。兎に角、このまま放って置いたのでは制度の入り口で行き先を間違われてしまう。そう思ったのです。1塁側のスタンドに入るべき人が、3塁側に入れられたり、外野席に入れられたりするのをだまって見てられませんからね。

案の定、日本知的障害者福祉協会の調査のいくつかに問題があることが分かりました。老人のケアマネには分かるわけ無いのです。

 本屋さんで ん? と思うほど分厚い、ケアマネの本がありますが、わたしが持っているのには、知的障害のことについてたった1~2ページを使ってこう書いています。

「(5)知的障害者の場合

 知的障害と言っても理解力は一人ひとり異なる。その人の現在の言動は、これまでにどのような人間関係をもって、どんな生活体験をしてきているかということと深くかかわっているといえる。言うまでもないが、日常生活技術についても身の回りのことは一人でできる人から介助を要する人までさまざまである。その人が自分のできなさを恥じたり、人間としての尊厳を失うことのないよう配慮し、その人が理解できる言葉や伝え方を選び対応する必要がある。 特に、”力で押さえられる”体験をしてきている場合は、弱い者をいじめる反面強そうな人にへつらう、さらには自分が強いことを暴力で示そうとすることもみられる。それもまたその人の生活の知恵であるが、対人関係での暴力は認められないことを毅然として態度で示さなければならない。」
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こんにちは2 (ai_0407)
2005-09-18 12:56:22
 暴力が知的障害者の特質であるかのような、「教科書」には、どっちが暴力か!って言ってやりたい。

 こんな事くらいしか書いてないのですよ。ぷんぷん。



 その続きはこうです。

「そして、誰もが自分の人格が尊重されていると感じ取れる関わりを工夫する事が求められる。また、トラブルが起こった場合は、自分の気持ちを受け止めてもらって、何がどう悪いのか確かめ合えるよう互いの言い分を伝え合い仲直りできるよう支援する。人としての善悪を判断する力やコミュニケーション能力を高められるような対応が重要となる。」



何なんでしょうね。この人の言いたいことは。どこが知的障害の特性との関連なんでしょうか。

こう言うのを読んでか、読まずか。何も知らないケアマネが判定をする。不気味です。こんな大事なことを100%下駄を預けるわけには行きません。(断固として)いまこっちの福祉協会レベルで検討を依頼しているところです。



それから あの表 わかりやすいのですよね。以前イギリスで働いていた方からいただいたアセスメントです。良い経験をすることがいかに重要かが改めて分かります。

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あのう (S嬢)
2005-09-18 22:59:10
どう言ったらいいか、かなり迷ったのですが。

あいさんの「本」がどのような本かわからないままに、抜粋された引用部を見るに、わたしはそれほど「問題のある文章」とは思えないんですが。



>知的障害と言っても理解力は一人ひとり異なる。



そうそう。



>その人の現在の言動は、これまでにどのような人間関係をもって、どんな生活体験をしてきているかということと深くかかわっているといえる。



そうそう。

関わってきた教員の影響度というものも、実際感じるところもありますし。

だから言動に関して、その言動だけで判断するのではなく、背景を調査することも大事だとわたしは思います。



>言うまでもないが、日常生活技術についても身の回りのことは一人でできる人から介助を要する人までさまざまである。



これは知的障害の手帳の判定で全てを判断できないことからもわかりますし、自立の状態と知的な発達レベルとの個人差やばらつきの存在ということでも、言えることだと思います。



>その人が自分のできなさを恥じたり、人間としての尊厳を失うことのないよう配慮し、その人が理解できる言葉や伝え方を選び対応する必要がある。



個人のプライドは能力と比例するものではなく、「あなたのレベルではこのくらいのことができるはずだ」というような言い渡し方をすることによって傷つくプライドというものは確実に存在し、また適切なタイミングで相手に伝わる伝え方で「抗議」できる力を欠いている部分があることから、この文章が「支援者」「介護者」に伝える意味は大きいと思います。



>特に、”力で押さえられる”体験をしてきている場合は、弱い者をいじめる反面強そうな人にへつらう、さらには自分が強いことを暴力で示そうとすることもみられる。



これは教育場面において「力で屈させる」タイプの教師の存在があったり、「力で屈させる」親(特に父親)の存在がある場合に見られるケースであると思うのですが、あいさんは全くこうしたケースに縁が無かったのでしょうか。

わたしはこのタイプの問題行動が出たお子さんの相談に何件かのった経験がありますが。



そしてその場合、本人の「心」の安定を図る対処を考えつつ、以下のことは「必要なこと」だと認識しています。



>それもまたその人の生活の知恵であるが、対人関係での暴力は認められないことを毅然として態度で示さなければならない。



また、問題行動の単なる「修正」ではなく、本人に対しての「支援」として、この考え方は重要だと思うのですが。



>「そして、誰もが自分の人格が尊重されていると感じ取れる関わりを工夫する事が求められる。また、トラブルが起こった場合は、自分の気持ちを受け止めてもらって、何がどう悪いのか確かめ合えるよう互いの言い分を伝え合い仲直りできるよう支援する。人としての善悪を判断する力やコミュニケーション能力を高められるような対応が重要となる。」



知的障害というものを知らないときに、電車やバスの中、公共の場で「ぶつぶつと何かをつぶやいている変な人」がわたしは怖い存在だったのですが、現在は「聞き耳をたて、言っていることを聴き取る」習慣がついてしまいました。

暴力的なことをつぶやいている人の言葉はよく聞いていると、それはその人が「言われたこと」がくり返されており、その「言われたこと」に対して「その時に言いたかったこと」をくり返しています。

つまり、その場に現在進行形でいる他者への攻撃的な言動なのではなく、タイミングがやや遅れた時点で「その方の本当の気持ちと言いたかったこと」を言うことで、本人の気持ちを自浄しているように思うようになりました。

怖いなと思うのは、こうした言動に聞き耳をたてていると、その方の現在の環境の中にいる「指導者の乱暴さ」が見えてくるような気がすることです。



また、学齢期においても家の中で攻撃的な言葉をつぶやいている場合は、本人の心の中で「後出しケンカ」を自分ひとりでやって消化しようとしている「試み」であることもあり、わたしはこうしたことは、本人の中での「経験で受けた心情の精算」として、必要なことなのではないかと思っています。



こうしたことが「単独精算」ではなく、他者に衝動としてぶつけられた場合にどういう考え方で処理をしていくか。

そういうことに関しては、この文章は知的障害者の側に立ったものだとわたしは解釈します。



ケアマネの判定とどうずれるのか、わたしは知的障害者のケアマネについて不勉強でわかりませんが、こうした考え方をもってしなければ対応できないものであるのではないかとは思うのですが。

問題行動の出現の可能性から目を伏せていれば、大事なことは落としますし、ここは抑えて欲しいというような感覚で書かれたものであって欲しいと思うのは、わたしの個人的な希望でもありますね。
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Unknown (ai_0407)
2005-09-19 06:25:22
こんにちは satomiesさん

コメントに丁寧にお答えいただきありがとうございます。知的障害は数百の原因疾患の結果と言うことだけではないのでしょうか。例えばダウン症には心疾患や白内障などの合併症を伴う場合が比較的多くあることが知られていますが、ダウン症には心疾患があるとは言えない。暴力に関しても、もしあったときにはどう対応すればいいのかと言うことであって、知的障害者の多くが力で押さえられておりその結果毅然とした言おうが必要な人が多いと言うことでもない。

 私はそのように思ったのです。

なぜ問題行動に対して、毅然とした態度がことさら必要な対応なのか、どれも、選択肢のひとつとしてあることではないかと思うのです。そして、その選択肢のひとつが、ありうる、または、多くある場合がある。ということであって、知的障害を説明するものではないとと思うのです。
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Unknown (S嬢)
2005-09-19 09:45:52
>知的障害は数百の原因疾患の結果と言うことだけ



確かにそれはそうなのですが、

それだけでは知的障害者を知らない人にはわかりにくいと、わたしは思います。



問題行動ですが。

知的障害を具体的に知らない人には、対応は難しいと思います。

行動に何らかの「加害」の要素が出てきても、周囲の人は対応しにくいケースも多い。

「我慢すること」が、「障害を受けれる善」であると誤解している人も多いと思います。

わたしが関わったあるひとつの問題行動のケースですが。

被害側にこうした「我慢」が積み重ねられることにより、被害を受けている人の心情が逆に強くなってしまい、また「加害」側の家族が抗議を受けることに感情的になってしまって、解決が難しくなっていました。

問題行動が小さいうちに「毅然とした態度でNO」が言えなかったことが、コトを大きくしていった要素だとわたしは思っています。

わたしの介入は、被害側に立つ人に対して「知的障害」を説明することから始まりました。

「コトが小さいうちにNOを毅然とした態度で言ってよかったのか」、ということが、被害側にとって「驚き」と受けとめられるほど、感覚に距離があったことに、わたしはおおいに学ぶべきところがあったと認識しています。

知的障害を知っている人間にはわかることが、知らない人間にはわからないことが多い。

また、被害者側に知的障害を説明することは問題の解決に向かうための影響は大きいとも思います。



つまらないケースですが。

ポケモンフェスタというイベント内に設置されたステージにおいて、簡単なショーがあったときのこと。

客席とステージを隔てる空間に、ショーの間中、ずっと知的障害をもつと思われる青年が歩き回っていました。

それはショーの進行にも観客にもとても邪魔なもので、誰かが一言「ここに入っちゃいけない」とだけ言えばいいことだったのですが、このショーが行われている20分間に、とうとう誰も言わずに終わりました。

わたしが出ていこうと思ってはいたのですが、タイミングをつかもうとするときに常に彼は位置が遠く、かなりの距離をステージの前を横切っていかなければ彼のところに行けない状態で、注意をすることができませんでした。

「一言、毅然とした注意をすればいい」ということが、知的障害者を知らない人にはとても難しいことだ。

わたしはそうしたことを伝えることも、重要なことではないかと思います。



暴力行為というような、過激な表現でのみ伝えているという問題は確かにあるかもしれませんが、もっと小さいことにも関連していくことで、その極端な形を出していくことで「大を知り小を知る」ということの意味では、評価することはできると思います。
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はじめまして。 (ひぃろ)
2005-09-19 10:49:29
10ケ月ダウン症児くんの母です。時々S嬢さんのブログをのぞいておりまして…今日は私のブログにもかいた「親馬鹿」の共通点をみつけ、嬉しくて書き込みしてしまいました!!   これからもっと色んな想いを感じていくんでしょうね。
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こんにちは (S嬢)
2005-09-19 12:06:32
ひぃろさんのブログは携帯サイトですか。

おお、こんなのがあるんだなあと。

このコメントのカタカナが全て半角であるというのは、もしかして携帯からなのでしょうか。

すごいなあ。

なんか、時代を感じるなあ。

ここはだいじょうぶみたいですが、半角カタカナは文字化けするサイトもあるのでお気をつけを。



さて、10ヶ月のお子さんがいらっしゃるとのこと。

もう少しで1歳のお誕生ですね。

いろいろな思いを持たれた一年だったと思います、誕生日はたくさんお祝いをしてください。

こんこんと眠る赤ちゃんを不安な思いで見つめた一年と大きく様変わりして、この先の一年は楽しいことがたくさん見つけていけると思います、お楽しみにね。

もしも思いに迷うようなことがあったら、またお話しにきてくださいね。
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