S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

二人のわが子と、その個性

2005年05月16日 | 「障害」に関わること
先日、「障害者のきょうだい」という記事を上げまして。
この記事上でリンクさせた「障害児の”きょうだい”のつぶやき」というブログの閲覧を続けております。

先日、このブログの「ガラスの小物」という記事に、コメントを入れました。

いや実はね、このコメントを入れながら、なんだか泣けて泣けてという状態で。
まあ、思い出し泣きというか、小さなフラッシュバック状態というか。

わたしは幼少から、「言いたいことは即、口に出して言える」タイプの子どもだったのですが。
姉がそうではなかった。
自分が言えない、でもそのそばで妹は簡単に口に出して無邪気に表現する。
このことで、姉は余計につらい思いをしたかもしれないと、思う。
まあ、その感情的なとばっちりも来ていたことは来ていたのですが、そばにいた身としては、とてもよくわかるわけで。
姉が本当に言いたかったこと、言えなかったこと、というものが。

それが影響しているのか、どうなのか。
どうも、わたしは、言いたいことを言えず、黙ってうつむくタイプの子どもに、弱い。
言えるなら、苦労はしない。
でも、その苦労の持っていき先が、わからない。
そういうシチュエーションには、ものすごいスピードで、同化してしまうんですよね。
言える子というのは、自分がそうだったからわかるのだけれど、失敗でもなんでも、動くことで形になって戻ってくるもので学習していける。
でも、言えない子どもというのは、自分の中でその苦労が展開されていく。
あっちに頭ぶつけ、こっちに迷いながら。

「障害児のきょうだい」という立場にいるウチの息子。
内向的・外向的というカテゴリ分けでいけば、外向的の方に類するかもしれない。
でも、自分の思いを話すというのは、苦手な方だと思う。
この子は、言葉の発達がとても遅く、一歳半検診では発語が見られず、三歳児検診では「言葉の遅れ」で引っかかった。
年少での幼稚園入園時に、「自分の名前をフルネームで言える」なんてことすら、できなかった。
三歳児検診で、言葉の遅れでひっかかったときに、療育機関を勧められたりもしたのだけれど、わたしの意志でお断りをした。
「わたしはもう、知的障害児の子育てはわかっています。
 この子の言語の発達は、ゆっくりではあるけれど、きちんと発達のカーブは見られています。
 今、臨床や療育を早急に考えなければならないレベルではないと判断していますし、豊かな生活の中で解決できるものと思っています。」
と、生意気にお断りしたわけです。
もともと、このときに住んでいた自治体の療育機関が、わたしとあまり意見が合わず、療育が必要な娘には集団指導は受けさせず運動機能の個別リハだけを選び、生活の場は保育園を選択していたということもありました。
よく、言葉の遅れがある子は「その後、劇的な伸びを示し、普通の状態に追いつく」だの、「学習障害の可能性がある」だの言われていますが、息子は、結局、そのどちらでもありませんでした。
本人なりに、ゆっくりとゆっくりと、言語の発達は上昇。
幼稚園や、小学校の低学年時は、周囲の言語能力に比べて、「言いたいことを言葉で話す」ことに歴然とした「差」がありました。

集団の中で、この状態は、「苦労」する。
幼稚園の面談でも、一年生の面談でも言われました。
「集団の中で困ったときに黙ってしまわないで、口で言えるように家庭でも言ってください」

はっはっは。
笑止。
そんなことは、本人が一番、わかってます。
できれば苦労しないと、本人が一番、わかってるはずです。
それを苦労して、苦労して、本人がどうやってそのスキルを獲得していくか。
わたしができることは、「口で言え」と追いつめることではなく、そのスキルを獲得していくために絶対に必要な「自尊心」を身につけることを手伝ってやることだけです、とね。
そんなことを、まあ、答えてきたのですが。

という背景があり、思いを言葉にのせるという能力に、ハンディがある。
その上で、他の子どもよりも、「障害児のきょうだい」ということで、普通の子どもも言葉にのせるのが困難なような「経験」も、それなりに積んでいるわけです。
持っている精神世界と、アウトプットしていく能力とに、非常にアンバランスがある。
持って生まれた個性として、徹底して争い事を好まないというものもある。
争うよりも、忍耐を選ぶ。

知的障害をもつ娘は、言語能力なんていうものは、全然低いわけで。
ところがコイツの方は、そのことにけして、うつむかない。
言語なんてもの以外に、アタシはこれだけ発信しているではないかと、常に堂々としている。
コイツの前では、わかんない方がダメなんだという気すらしてくる「大物」というか。
これは全く持って、「障害」ではなく「個性」だと思う。
そのせいでかなんでか、娘はどんな集団に入れてもトラブルは発生せず、常に人の中心で威張っており、他者に対しての細やかな神経すら発信する。
たいがいにおいて、いつの間にか、人はコレにやられてしまい、威張ってるくせに本当に人によく好かれる。
争い事を好まないという「個性」はコイツも同じなのだけれど、コイツの場合は「忍耐」とはちょっと違う。
「流す」か、別の展開を持たせる行動を発信する。
この「生きる力」としての能力は、時々「見事なモンだ」と、感嘆すら持つところさえある。

話は戻りますが。
わたしはもともと、自分が子どもを親として持つ前から
「どうも、わたしは、言いたいことを言えず、黙ってうつむくタイプの子どもに、弱い」
偶然にも?、わたしの第二子は、これに該当していたわけです。
第一子の「障害」に関しては、「障害に対しての支援」という選択肢がある。
そして、これは、母だけではなくてもいい要素が多大にあるわけで。

しかし、第二子の息子の方は、娘に比べてこの辺の「生きる力」が弱い。
普通の、障害の無い知的能力で人生やっていこうとする方が、立ち向かうべき問題の複雑さが年々上昇するわけで。
大方の予想を裏切り、「心配は常に、知的障害の無い方の子」という図式になっていくわけです。

その上でねえ。
ガラスの小物」という記事に入れたコメントのように、彼は「知的障害をもつ娘を育てる母」を、心情的に助けてくれたりもするわけです。
母、たまりませんわ。

願わくば、「障害児のきょうだい児」という彼の持つ要素が、人間的な成長にとっての財産になっていくカードとして、本人自身が使えるようになることを。
なんてことを思ったりするのでした。

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障害児の”きょうだい”のつぶやき「ガラスの小物

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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
わたしはまさに (ぶんだば)
2005-05-26 00:49:34
その「姉」のほうでした。

もう言わないこと言わないこと。なにしろ妹が生まれてあかちゃん返りすらできなかったのです!

それで、ヘンな症状(もちろん精神症状です・そのとき二歳)が出たほどですから、筋金入りです。

やはり妹(妹、というか末っ子は割とそういう人が多いようですが)は何でも言えるタイプの人間でした。

欲しいものを欲しいといえない。

親への反抗も上手く出来ない。

今は言語化能力はすぐれていますが、自分を表現することができません。私が自分を語るとき、或いはブログで書くとき、そのことは私にとっては「本当に大切なこと」ではない。上っ面しかかけないのです。



だから、娘が(下の子もいないのに)今あかちゃん返りをしているのをみて、心底ほっとして、とても嬉しく思いました。ああこの子は健全なのだと。私の病理を受け継いでないぞって。そして受け止める余裕がある自分に対しても嬉しく思いました。



相方は非常に特殊な生育歴を持ちますが、精神は今のところ健康ですので、そちらに似たのでしょう。本当によかった。



弟さん、強靭な感性をもつ大人に育って欲しいですね。でもママがS嬢さんなら、心配なさそう。



保健センタの健診は、保健婦によりいろいろで、それだけで傷つくという方もいますね。私の従妹の子も、言語能力の発達が少々遅いのですが、それはそれで発達していないのではないのだから、一度みたくらいでどうこういうなという気がします。ただでさえ子供は他人の前で緊張するのだから。

返信する
Unknown (S嬢)
2005-05-26 08:40:57
>今は言語化能力はすぐれていますが、自分を表現することができません。私が自分を語るとき、或いはブログで書くとき、そのことは私にとっては「本当に大切なこと」ではない。上っ面しかかけないのです。



怖い、んでしょうね。

怖い、んだと思う。

誰から守るという意味で言えば、自分自身の視線からも守っているんでしょうね。



自己暗示、かけてみたこと、あります?

目をつぶって、両腕を胸の前で交差して、手のひらを両肩に置き、頭を重力に自然に従うように、胸に向かって下げていく。

そうやって自分を抱きしめて、

「だいじょうぶ、わたしはわたしを傷つけない」と。

多分ね、これ言いながら、ぎゅーんって音をたてるように肩から首、頭に向かって、緊張が走っていくような気がするのは、気のせいじゃないような。。。



そういう根っこの部分ってのは、別に出す必要も、実はないんですよ。

と、わたしは思う。

自己防衛も、立派な自分の権利と自由ですもの。

自己防衛に守られることで、出てくる「言葉」も、また大切なあなたの「言葉」だと、わたしは思いますしね。



「下の子が生まれる」というのは、人間にとって、最初の「挫折と試練」だと思いますね。

これを第一子は経験しているが、第二子は経験していない。

この差は大きいと思いますね。



うちの娘は吐きましたよ。

まさに精神症状、でしたね。

たまんなかったですよ、ホント。

この辺の話は、別の側面からちょこっとHPに入れてるんですけどね。

ファイルのURL持ってきました。

このアドレスの文章の、一番下にあるのがソレです。

http://www1.c3-net.ne.jp/satomies/main/hajimeni2.html



アイツはねえ、セルフコントロールというのか、セルフセラピーというのか、

この辺が、もう、天才的のような気がする。

アイツのセルフセラピーには、「お絵かき療法」もありますよ。

絵を描く。そしてそれを真っ黒に塗り潰す。

コレを何度か、集中してくり返す。

コレが出ると、それをやらなくなったときに、晴れ晴れと自信に満ちた顔になってますね。

コレは教えられたわけじゃない。

勝手に編み出しましたね。

わたしはこの行動の意味を、「アートカウンセラー」という肩書きを持つ方に説明していただきました。

わたしはただ、その行動を「知っている」だけでいいんだそうです。



なんなん、でしょうね。

やっぱり人間、知的能力というもので武装していくのかしらね。

その知的能力というものに障害があると、原点の「力」というものが発達するんでしょうかねえ。

アイツを見ていると、人間の「生の存在」の可能性というものを、いつも教えられるような気がしますね。



それと、保健所の乳幼児検診ですが。

なんとも言えないんですけどね。

「言われた」という被害的感覚を持つ人は、その正当性は「問題なかった」ときに力を持つんですけどね。

でも、発達の障害の「早期発見の必要性」ってのも、確実にあるんですよ。

わたしの場合は、この「早期発見」の「芽」のポイントを、すでにわたし自身が知っていたということは大きいです。

だから、このあたりを知らない人に関しては、なんとも言えないですね。

明らかに発達上の問題のある子どもでも、親が「絶対に受け入れない」ということもあるんですよね。

この場合、発達支援も遅れますし、子どもをありのままの状態で受け入れないということでの「二次障害」が発生する危険も、あるんですよね。

「一度見たくらいでどうこう」というのもあるんですけど、でも「初見」で、(おんや~~~)ってのは、けっこうその後、やっぱりねってのはありますよ。

まあ、初見でチェック入ったことに対して、親に対しての「伝え方」の問題が大きいだろうし、実際の「問題」はむしろ、そっちなんじゃないかとは思いますね。
返信する
追記 (S嬢)
2005-05-26 08:52:54
「言語発達の遅れ」に関しては、伝えるべきことは、

「今後数年にわたって、その発達の状態を注意深く観察する必要がある」

ということなんですよね。

親が「子どもにケチつけられた」と思わないような配慮を持って、これを伝えるべきだと思います。

そしてどういう風に、考えていくかということを、もしも積極的に知りたければ、「良書」はコレ。

「障害をもつ子のいる暮らし」

この「言語発達遅滞」の項です。

「障害」ではなく「個人差に関して起きる」という部分や、親が注意すべきこともていねいに記載されています。

検診で言葉の遅れを言われた場合、この部分のコピーを渡すだけで、けっこう充分なんではないかと、わたしは思うところはありますね。

つか、むしろその方がいいじゃん、

って方が多いかな(笑)。
返信する
いわゆる「障害」について (ぶんだば)
2005-05-26 09:41:15
S嬢さん:

おはようございます。

丁寧にありがとうございます。

そうですね。自分を守っているのでしょうね。

それは小さいときからのクセでもあり、病理といってしまえばそれまで、(病気が治ってから)克服できる「性格のクセ」でもあります。

そして、私はラッキーなことに、そのこと「自体」には気付いているので、きっといいほうに向かうでしょう、と勝手に思っています(しかし、学習機能がついてないんでね、頭に…)

自己暗示、怖くてかけたことがありません。

誰も私を受容しないのだから、私が私を受容するはずがない、と思っている感じですね。

ああ、だからダメなのか。逆なんですよね。

「私が私を受容するかぎり、誰かは私を受容してくれる」



リンク先、読みました。私もよく吐く子で、親はいやだったようです(未だに言われるもの!)。そのせいもあって、思春期以降は嘔吐恐怖になりました。いやよく妊娠できたものだと。つわりのときは食べられなくなりました。吐くのがイヤで。



乳幼児健診ですが、わたしも、早期発見そして早期療育というのは大切だと思います。わたしのブログのリンク先に「ジャスミンのかほり」という、自閉症児のパパのブログがあるのですが、小さいうちから自閉症と診断されて、やはり「否定期」というのがあったんだろうと思うのですが(読破してないので不明)、私からみると、早くからきちんと療育なさっているご両親の姿が伝わってきます。



>明らかに発達上の問題のある子どもでも、親が「絶対に受け入れない」ということもあるんですよね。

この場合、発達支援も遅れますし、子どもをありのままの状態で受け入れないということでの「二次障害」が発生する危険も、あるんですよね。



そうなんですよね。娘だってなにかあるかもしれない。まだ三歳児健診受けてないし。

そして、「絶対に受け入れない(受け入れたくない)」からという自己防衛のような形で、保健所を信頼しない親も多いという話は聞きます。私もどこかで書いたような気がするんですが(何しろ自分で何かいているか多すぎて…)、本当にその子のためを思うなら、早く社会にうまく適応する力を身に付けさせることが親の役目なんじゃないかと思います。ナマイキでごめんなさい。



関係ありませんが、私は本当に二ヶ月で死んでいて「掻爬」しました。そのときしかも局所麻酔でした。あの痛みは忘れないでしょう。

(通常は全身麻酔だそうですが、そこには麻酔医がいないので局所で正解でした。おかげですべて工程を把握しちゃいましたけど)

あと死胎分娩のあと、小さいお菓子の箱みたいなお棺に入ってきた娘のきょうだいのことも。火葬したんです。



そいえば、うちの本サイト(全然「本」サイトじゃなくなっている!)は

http://park3.wakwak.com/~tdu/

です。日記はやっぱり自分のことは書いてませんね。
返信する
Unknown (S嬢)
2005-05-26 10:13:52
>「私が私を受容するかぎり、誰かは私を受容してくれる」



はい、そうざんす。

「自分を受容しない」という呪縛は、誰にでもかけられるけれど、

「自分を受容する」という認識は、自分にしか持たせることができません。

自分にしか許されていない権利とも、言えます。



>私もよく吐く子で、親はいやだったようです(未だに言われるもの!)。



うちもよく吐きましたよ~~。

体調不良はまず、げろからですね。

最近はアイツも、自分の体質知ったようで、体調悪いときに、トイレに行って、「げー」とか言ってみてますね。

実際、吐き気も起きてないのに、「げー」とだけ言ってみる様子がおっかしくってね。

バレないように、笑ってますが。

こういうときは「あっち、いってらっしゃい」と言われてしまうので、知らないことになってます。



>娘だってなにかあるかもしれない。まだ三歳児健診受けてないし。



いや、言葉が出てればたいがいの問題はクリアかな、と。

自閉症の子で、2歳児近辺でやたらに言葉を持ってる子というのもあるんですが、その傾向があるわけでもないようですし。

心配の種、わざわざ作らなくてもいいと思いますよ。



>本当にその子のためを思うなら、早く社会にうまく適応する力を身に付けさせることが親の役目なんじゃないかと思います。



いえ、

所見や告知を親に伝えていくときに、親の衝撃を受容できない渡し方をしていく側の人間が、愚かなんです。

受け入れが難しくなるのは、親の責任ではないと、わたしは思う。

受け入れが悪い親を受容し、導くという支援者の問題です。



わたしはこの辺に「気づい」ちゃいましたのでね。

その「気づい」ちゃったことで

まあ、自ずと、自分の「役割」というものが発生してるのだなあと思いますね。



それと、アドレス、ありがとう。
返信する
なるほど… (ぶんだば)
2005-05-27 02:46:03
>所見や告知を親に伝えていくときに、親の衝撃を受容できない渡し方をしていく側の人間が、愚かなんです。



そういわれてみればそうですね。

卑近な話にもっていくと、私が病気であると、例えば夫や親に言うときに、ただ言うのじゃ反発くらうに決まっているし「接し方」なんかもわからないに決まっているのに、言って「はい、おしまい」な状態が悪い、ということですね。



なんか、支援って、中途半端ですね。

と、精神相談というところに電話をして門前払いを食った私は思うのでした。



娘ですが、「育児ネタ」シリーズに馬鹿な話ばかり載っていますが、落ち着きがないのがちょっとだけ気になります。まあ集中するときはしているので、大丈夫だと思いますが。

ともかくもタフに育て。
返信する
Unknown (S嬢)
2005-05-27 09:10:44
> 卑近な話にもっていくと、私が病気であると、例えば夫や親に言うときに、ただ言うのじゃ反発くらうに決まっているし「接し方」なんかもわからないに決まっているのに、言って「はい、おしまい」な状態が悪い、ということですね。



ご主人やご家族に関しての「接し方」をサポートするのは、ぶんだばさんの「仕事」ではないんですよ、本来はね。

「当事者」と「支援者」と、両立というのは、なかなかできるものではないです。

だから、説明できる文書や冊子、リーフレットを「渡して」あげることが「親切」なんですよね、相手にも、自分にも。

そこで家族が、家族としての「当事者」と認識し、「当事者」として知ろうとすること。

このことが必要なんだと思いますよ。



> なんか、支援って、中途半端ですね。



その「中途半端」だと思われる「支援」も、先人の努力によって切り開かれたもの、なんですよね。

だから、また、その後の人に渡していくためにも、当事者として支援を知ることって、わたしはとても大事なことなんだと思っています。
返信する
あ、えっと (ぶんだば)
2005-05-27 18:18:10
私が出した例は私が体験した例ではなくて、そして「言う」のは医者、というつもりだったのです。ガン告知のあとにメンタルケア全然しない医者みたいなイメージ。



私は、本を買って両親にも夫にも渡してありますが、

やはりそれはどうしてもわかりにくいですね。家族としてどう接したらよいかということは一般的なことは書いてあっても、個々の性格やこれまでの歴史というものがありますし。

たとえば私の故郷は非常に言葉が荒いところで、母が「~したらいいじゃないの?」という意味でいう言葉が、私には「~せよ」に聞こえてしまうんです。

そうすると、私はとても負担を感じるし、命令された、ってダメージも受けます。

こういう些細なすれ違いで、双方ともに疲弊してしまうんですよね。



32条がもうダメぽなので、あとは別口で支援を頼むしかありません。困ったものです。抗鬱剤は高いんだよ!
返信する
Unknown (S嬢)
2005-05-27 20:33:27
ご家族のことはご家族の「課題」なんでしょうね。

その部分で、かわしていく必要もあるのかもしれないですね、

ご家族のためにもね。



別口の扉、開けていきますように!
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