S嬢のPC日記

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「自尊心」考

2006年06月12日 | つぶやき
 人間は失敗や挫折を味わったときに、次のどちらを言われた方が、より生産的な方向へ進むことができるだろうか。
A. だからアンタはダメなのよ。ちゃんと反省してこれからを考えなさい。
B. あなた自身が乗り越えて解決していく可能性を、わたしは信じる。
 Aの場合は、思考の中で、ずっと挫折感や自己卑下を持ち続けていくのではないかと、わたしは思う。
反省、後悔なんてことは、失敗や挫折を味わったときには、わざわざ言われなくても充分に味わっているんじゃないかとわたしは思う。

 Bの場合は、思考の中で経験から「その先」へと続く希望を持って、失敗や挫折と向かい合っていけるのではないかと、わたしは思う。
誰かから信頼されること、生の存在、生き続けるということ、その上での可能性を信頼されるということは大きな力となる。
「ピンチはチャンス」、経験から拾うことができる「宝の山」というものがある。
その「宝の山」を前にしても、自己卑下で下を向いていれば、見えるはずが無い。
実に実に、もったいない。

 生きていくという上で、失敗や挫折なんてものはくさるほど出てくる。
そのときに大事なことは「どんな経験をしたか」ということ自体ではなく、「経験から何を拾ったか」ということなのではないかと、わたしは思う。
失敗の数だけ「宝の山」を拾っていけばいい。

 「自尊心」は、自惚れや高慢とはちがうと、わたしは思う。
自惚れや高慢は、自分の視界や視点、熟慮の幅を狭くする。
このことは「自分を大事にする」こととは逆行する。
本当の意味で「自分を尊ぶ」ということは、自惚れや高慢ではなく、謙虚さを呼ぶのではないかと、わたしは思う。
そもそも謙虚さを持たなければ、経験ということで発見する「宝の山」は見つけられない。

 「自尊」という心は、自己の現在の姿だけでなく、自己のマイナス面さえも受け入れ、そして自己が存在することそのものを尊重、つまり「成長する未来」という可能性をも視野に入れるものだと、わたしは思う。

 自己を「マイナス面を含めて『受け入れる』」ことは、他者に対しても同様のことを思考するトレーニングを積んでいることにつながっているのではないかと、わたしは思う。
すなわち、「自尊」という心は、「他尊」にもつながっていくのではないかと、わたしは思う。

 とは言いつつ、子どもに対して生活の中で、「A」の言い方が口をついて出てしまうこともあるわけで。
あっと口を押さえ、そして自省の道順を教えてやり、見つけられること、失敗のその先の糸口の見つけ方なんてものを、教えてやる毎日。「これこれこう考えて、こうやっていけば逆転よ~」と言うと、ぱっと輝かせる顔を見るのはなんとも楽しい。
そうしたまだ「手の内」にいる我が子だけれど、成長の中で、もっと手痛い失敗や、深い挫折を感じることも出てくるだろう。
その成長の中で、いつか「自尊」を中心とする思考が、我が子の「標準」になって欲しい。
 
(2005年5月29日記事、加筆修正)
 

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (ののか)
2006-06-12 15:41:30
これ、過去記事なんですね。



「A」のような言い方を何度もされていると、そのうち何も言われなくても「A」のように考えなくちゃいけないと思ってしまうような気がします。ただ間違いを指摘されただけなのに「自分はやっぱりダメなんだ」と思ってしまう。そして萎縮する。緊張感が常にある状態。その中で新たな失敗をすることによって、また萎縮する。そういう中で、自尊心はどんどん小さく弱くなっていくのかな、なんてことを思いました。



でも、そうやって生きてきて「可能性を、わたしは信じる」と言われたときの嬉しさというのはもう何とも言えないものだと思います。「私は生きていていいんだ」と思う。おおげさなようだけれど、私はそれくらい救われた気持ちになりました。



そういう言葉を言ってくれた人の存在や、そのとき感じた気持ちは忘れられないです。砂漠の中をずっと歩いていて、お水を与えられたような感じ。



何だか私にとっては、グッドタイミングな記事でした。

ありがとうございます。
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相手を見つける (ユタカ)
2006-06-12 16:22:02
まずは関係をつくらないと、この言葉は軽くなりますね。

言葉にふさわしい関係性づくりが必要かと思います。そしてまたその先だけでなく、今ここを考え受けとめる力があってこそ、響くものになりまた互いが、対等に相手を尊重できるという関係性は、マニュアルのような言葉と対応では作りあげられないと思いました。
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Unknown (S嬢)
2006-06-12 20:09:32
自尊心の萎縮、それに向かわせるやんわりとした「攻撃」。

つい口にしてしまいかねない「攻撃」が積み重なることの影響の怖さ、なんてものを思います。



「B」に関しては、言葉でなくてもいいんだと思います。

文字にしてみれば、言葉にしてみればこんな感じ。

そう、わたしが思うということ、それをわたしが、またどなたかが、どう自分の大事な人間関係にアレンジしていくか。

そこで大事なことはなにか。

なんてことを、それこそ生きていきながらつかんでいくのかもしれない、なんてことを思います。
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Unknown (天竺堂)
2006-06-12 20:44:55
 揚げ足を取る訳ではありませんが、Bの言葉も聞きようによっては「もっと頑張れ」という“追い詰め”にしか受け取られない可能性があります。特に、失敗や挫折で打ちひしがれている人は、激励さえも自己卑下のタネにしかねません。信頼を寄せられることは、裏を返せば「応えねばならない期待」という一種のプレッシャーですから。

 人間、いくら前向きに頑張っても、できないことってあるものです。頑張ることは大切ですが、頑張らせられることは時につらい。失敗や挫折を繰り返してきた私は、心底そう思います。



 C.あんたには向いてないんだよ。違うことやってみたら?



 なんて言葉もアリかと思います。選択肢は無数にあるでしょう。若いうちは。



 ついでに。自尊心とは成功の積み重ねが造り上げるもので、謙虚さは自尊心が打ち砕かれた所に芽生えるもの…と私は思います。挫折を通して自尊心を育むことが、イマイチ想像できないんですよね。あるのかもしれませんが。
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Unknown (S嬢)
2006-06-12 23:21:02
えっと、「C」。

選択肢というものが持たされている場合はアリだろうと思う。

でも、持たされていない場合は。

と、思うのですよね。



例えば、人間関係で失敗をしてしまった場合、そこから逃げるわけにはいかないときがある。

例えば、不注意で子どもにケガをさせてしまった場合、親をやめられるわけじゃない。

選択肢を持たされるわけではない、また、もっともっと小さい局面の失敗でも、それが本人にとって大きな失敗なら、それはとてもつらいことだと思う。

そしてそれを積み重ねてしまうこと。

今日は立ち上がれない、明日も無理かもしれない。

でも、いつか立ち上がれるかもしれない。

と、思うことは、やっぱり生きているってことを信頼することであって、それが「期待の押しつけ」になるかどうか、というのは、相手に対しての気持ちの持ち方、そして関係性、ということかもしれないです。



挫折の中で見つけたいものは、やはり自分自身なんではないかと。

挫折の中で頼りになっていくのは、やはり自分自身なんではないかと。

その、自分というものを自分だけは大切にしてやりたいと思うこと。

そういうことなんじゃないかな、と思うのですよね。



成功の積み重ねで作り上げられる自尊心が、挫折に耐えられるか、なんてことも思う。

なんにもなくたって、わたしは自分というものは大事なものだと、そういう風に思っていたいのですよね。

それが生きていくということの力になる。

なんてことを思うのですよ、わたしはね。
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Unknown (天竺堂)
2006-06-13 00:30:04
 ん~、ストレートに「自尊心=プライド」だと思って書き込んだのですが、S嬢さんは「自分自身を大切に思う心」みたいな独自の意味を付加しておられるようですね。それは「自尊心」より、他の言葉を充てた方が良いと思います。ちょっと思い浮かびませんけど。

 あと、認識の違いかも知れませんが、「成功の積み重ねで作り上げられる自尊心」が挫折に耐えられるはずなど当然なく、自尊心がポッキリと折れてしまうことこそが「挫折」なのだと私は思います。つまり、私は「自尊心は砕け散ったり蘇ったりするものだ」と考えており、一方、S嬢さんは「自尊心には挫折に耐えられるものと耐えられないものがある」と考えておられるのでしょう。
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Unknown (S嬢)
2006-06-13 00:46:12
self-esteem



英和辞書では「自尊心」「自負心」と出てきます。

そして、心理学用語では「自尊感情」とされることが多いようです。

わたしが「自尊」と位置しているのは、こちらなんだと思います。
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Unknown (S嬢)
2006-06-13 00:47:42
この記事、過去記事の時点で、その「自尊心とは」というリンクを入れてたんですよね。

それが、そのサイトが消失してしまった。

その辺、説明不足があるんだろうな、と思いました。
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