教職員による給食注入実施決定/atelier F.F. ゆうくんちの日常
日常的に医療的ケアが必要な子どもたちというものがいる。この医療ケアは養育者に関しては、医療従事者じゃなくても認められる。しかし学校の場に関しては、教職員がやるのはダメという自治体は多い。給食注入以前に気管切開をしている子どもが肢体不自由養護学校に通学する(通学籍をもつ)ということも、自治体によってはひどく難しい。
医療ケアを行うときには、養育者が学校に行って、その医療ケアを行う必要がある。←簡単にいっちゃえばこんなことだけれど、それは養育者の体調不良時には「親ガメこければみなこけた」状態になるということであり、子どもは学校を欠席することを余儀なくされる。そして子どもが学校で「社会生活」を行うという精神的な成長の場に常に親がうろうろすることというのは、障害の有無に関わらず、子どもの成長にとって、けしてほめられたことではない。
「教職員による給食注入実施決定」、これはこの壁に穴をあけ、道を開いていくこと。ここに行き着くのは、簡単なことじゃない。簡単なことじゃないなんて簡単な言葉で語ることさえ罪なんじゃないかっていうくらい、簡単なことじゃない。
よくやった、よく道を開いた、と思う、リエ、エラい!
あなたが歩いた道は、きっと誰かの力になる。
「女性自身」を読んでください!/モラルハラスメント・ブログ
これはもう、本文参照で用は足りる。
あの精神的な地獄の日々、揺り返される泥沼からよく這い上がったと、いつもいつも、何度も何度もそう思う。そしてあなたの記していく軌跡は、誰かの目覚めと勇気につながっていく。
まっち~、エラい!
だから何? いや大声で賞賛したくて。
日常的に医療的ケアが必要な子どもたちというものがいる。この医療ケアは養育者に関しては、医療従事者じゃなくても認められる。しかし学校の場に関しては、教職員がやるのはダメという自治体は多い。給食注入以前に気管切開をしている子どもが肢体不自由養護学校に通学する(通学籍をもつ)ということも、自治体によってはひどく難しい。
医療ケアを行うときには、養育者が学校に行って、その医療ケアを行う必要がある。←簡単にいっちゃえばこんなことだけれど、それは養育者の体調不良時には「親ガメこければみなこけた」状態になるということであり、子どもは学校を欠席することを余儀なくされる。そして子どもが学校で「社会生活」を行うという精神的な成長の場に常に親がうろうろすることというのは、障害の有無に関わらず、子どもの成長にとって、けしてほめられたことではない。
「教職員による給食注入実施決定」、これはこの壁に穴をあけ、道を開いていくこと。ここに行き着くのは、簡単なことじゃない。簡単なことじゃないなんて簡単な言葉で語ることさえ罪なんじゃないかっていうくらい、簡単なことじゃない。
よくやった、よく道を開いた、と思う、リエ、エラい!
あなたが歩いた道は、きっと誰かの力になる。
「女性自身」を読んでください!/モラルハラスメント・ブログ
これはもう、本文参照で用は足りる。
あの精神的な地獄の日々、揺り返される泥沼からよく這い上がったと、いつもいつも、何度も何度もそう思う。そしてあなたの記していく軌跡は、誰かの目覚めと勇気につながっていく。
まっち~、エラい!
だから何? いや大声で賞賛したくて。
ありがとう。誉められて伸びる子ですっ!やれば出来る子ですっ(笑)。
今までの過程を文書にしてほしい…と学校側に希望しましたが、却下されました。
そういうあんまり嬉しくないことはやってほしくはないんでしょうねぇ。(必殺責任問題がおまけで付いてきますから)
個人的に作る分には構わないと確認を取ったので、少しずつ今までの流れを整理して
「前例として必要」とされた場合に使ってもらえるようなもの、作ろうかと思ってます。
まぁ、必要とされたらうだうだやってるより話に行っちゃいそうですけどもね、私。
私も来年度から通学席で
今月、校長と面談です。
それよりも、なにごと消極的な夫に頭を痛めてますが。
また、お知恵をお借りしたいです。
学校は文書は作らないでしょうなあ。
学校が文書を作ると、学校が主導になったという「意味」がつく。
でも、「個人的に作る分には構わないと確認を取った」ということだって、やっぱり意義はでかいよねえと思う。
自分の軌跡のためにも作っといた方がいいと思うよ。
学校のその先ってのも、見据えましょうぜ。
>ゆきさま
ふむ。
いや、ゆきも賞賛、だよ、充分にね。
よく歩いてきた、と思うよ、今までの間、ホントにね。
リエんとこの「教職員による給食注入実施決定」なんていう、対外的にわかりやすいものじゃないかもしれないが、賞状でも絶賛でも賞賛でも、なんでも好きなもの、あげるよ。
あと、リエちゃんに、ちょっと「重度重複障害児の母親である前に、自分というものの楽しみ方」ってのの「勢い」「根性」「暴走」ってのを伝授してやってください、よろしく。
ん、でも「勢い」は自分には必要だと自覚してます。
それさえあれば、あとはスルスルとやってけそうですけどねぇ。
いつもなんか背中押されてばっかりですね。
それを居心地良いと思っちゃう所が、私の甘い所でもあるんですが。
うだうだ言ってるのを聞いてもらえる場所があるってのはありがたいことです。
>ゆきさん
なんか協力出来ることあれば…と思ってるので、思い出したら声掛けて下さいね~。
リエちゃん「はじめまして」「こんにちは」のきっかけは、リエちゃんのご訪問ではあるが。
しかし前にも言ったけれど、わたしがリエブログを見つけたそもそものきっかけは、「なんかゆきの情報収集になるとこってのは無いのか」と、gooのブログ検索に「気管切開」と入れたってこと。
当時はリエんとこしか出てこなかったけれど、今は他にも出てくるのかしら。
しかし、ご縁というものは本当に不思議なもので。
子どもの障害以外に、あれよあれよとリエゆきの共通項は出てくる。
オリーブ石けんだの酵母のパンだの平井堅だのと。
ああ、アロマってのもあったね。
これはもう、ホントに縁のようなものだと思う。
しかもおもしろいことに、その個性差に補い合うようなものがある。
「橋渡し」は完了している、縁を楽しんでちょうだい。
・・・PCはつけっぱで(笑)。
今、アロマ整体というのの講習に週一で行ってて、ばたばたしてるんで(だって来年からは、そうそう外出もできないし)4月以降に、ぜひ、りえちゃんのガッコ、非公式でもなんでも見学できないかしら?
こっちのお母様方、都合付けるのみんな大変だからさ、ほら、訓練とかも曜日違うし、まずは私ひとりで、りえちゃんレポートを作りたいの。それをお母様方(仲間内の、ね)に渡す目的で、先生方にもしっかり渡す。
今日ね、これから校長&先生と校医との「教員のための気管切開指導」に立会いするの。
来週は校長と面談だ。
じっくりお話して、歩んで行くつもりよ。
えーとね、「暴力」と「勢い」については賞賛の実績アリ(笑)だけど、根性ないわ~。
ちょっと前の「たん吸引理由の入園拒否は『違法』、女児と両親が提訴」というケース。
報道だけではわかりにくかったと思う、この提訴の背景というものがね。
ここの文章は、わかりやすいんじゃないかと思う。
http://zara.jugem.jp/?eid=170
要するに、保育園に入園ってことが、保育園ってことだけではなくて、その先を見据えていることに対しての「頑張り」ってことなんだよね。
一般的に見る報道では、なんだか我が儘な提訴みたいに見えるところが残念だなあ、なんて思ったよ。
「ゆき」は、夫婦ゲンカで「襖を投げた」ことがあるオンナです。
わっはっは。
しかし、以前書いた「旅行記」を、ネット非公開にしてしまったことは、とてもとても惜しいと思うな。
アレは傑作揃いだと思うね。
何月にやってたっけなぁ。
年に何回かやってるから、一番早いとこ情報が入ったら連絡します。
因みに、「暴\走」が「暴\力」に変わってるからっ!
入園拒否に対する提訴は、特集組んで報道してた番組の様に、背景から展開までを知らせないと、一般の人に理解してもらうのはなかなか難しいだろうと思いましたね。
ワガママに写るってのも、身に覚えがあってツラかったなぁ。
ダメなもんは仕方ないんじゃない?っていう、割りと近しい人の空気もキツい。
まだ彼女の件は継続中ですからね、これこそ根性やら忍耐やらが必要で。
子ども達が、どんな気持ちでオトナ(や社会)を見てるだろうと思いますよ。
そんな「オープンスクール」なんてのがあること隠しちまって、さも、自分あってで見学できるような能書きたれれば良かったのに。
で、「交換条件として」、「アロマテラピストゆき」に、アロマやってもらえばよかったのに。
気持ちいいよぉ、ゆきのマッサージは。ヨダレもんですよ、マジマジ。
わたしんときは、アマチュア練習台だったけれど、今はなんとかの資格がどーたらこーたらで、一応は自宅サロンオープンの「プロ」ってことだから。
ボディマッサージに抵抗ある場合、手だけでも足だけでもOKって話だったよね、確か。
えっと、以前、アロマの勉強し始めたときのゆきの「決意表明」なんてのがあって。
今できること、今やりたいこと、その中で、自分の環境・状況において生かせること、なんてことだったと思う。
おお、GOだGOって感じだったなあと思って。
育成会の名物の松友氏の講演を以前聞きに行ったときに、こんなことおっしゃってましてね。
「重心の子は、その成長のために親だけの介護から支援者の介護へと。
そして子どもの介護に24時間使い続けていた母親たちの自己実現のために、就労の機会を。
重心の子の母親たちの積み上げた経験のマンパワーを生かすために、重心の子の母親たちには、その経験だけで介護の資格を与えてもいいはずだ。」
なんかね、もっともだなあって思ったんだよね。
母親たちが仕事として介護をやりたいかどうかは別としてね。
我が子だからやってなさい、じゃなくて、その経験のマンパワーってとこに、そうだそうだ、なんてのを思ったんだよね。
障害が重いから引っ込んでろ、障害が重いからダメなモンはダメだって、そういうとこから脱出できる発想ってのは、生み出そうと思えばいくらでも生み出せるはずだ。
なんて、そんなことを思うんだよね。
「子どもがどんな風に見てるだろうか」
まあ、それはそうなんだけれど。
でも、ゴメン、そうしたどこかお決まりになってしまう言葉よりも、
「ダメなモンはダメ」と言われ続けた母親たちの、経験の成長のその先、ってのの可能性ってのを、なんかね、わたしは信じたいと思うな。