“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

認知症事故訴訟

2014年04月29日 10時59分14秒 | 臼蔵の呟き

法律に沿った判決として理解すべきことなのかどうかが問われる判断です。裁判所、裁判官は判例、法律に沿った判断を下しているのでしょうが、すべての法律が時代の変化に対応することは難しく、法に基づきながら、時代の変化を事件の状況判断に反映させる役割も裁判所、裁判官に必要な役割ではないかと考えます。

そうでなければ、コンピュータに法律、判例を記憶させて、裁判所などの判断を関与させないほうがよいと言うことにもなりかねません。高齢化社会は日本が誇るべき長所です。その努力して到達した成果が年金削減、医療費の増加、介護設備の不足と不備、高齢化の弊害などとばかり強調されるのはいかがなものかと思います。

誰でも認知症にならずに、自宅で最後のときを迎えたいと考えるのは普通であり、常識です。また、そのことは権利でもあると思います。そのための社会的な備えを怠っているのは何か。その責任はどこにあるのかを考えないといけないと思います。家族が悪い。家族が賠償責任を負うべきだと言っていて済ますことは許されないのではないかと思います。

<東京新聞社説>認知症事故訴訟 介護への影響

認知症の男性の事故で鉄道会社に生じた損害を家族が負担すべきかが争われた裁判の控訴審は、妻のみ賠償責任を問われた。認知症が急増する社会に沿った判断か。公的な賠償制度も検討すべきだ。

 家族側に全面的賠償を命じた一審の判断は適正か。介護現場の注目を集めた裁判だった。

 愛知県大府市で二〇〇七年、認知症の男性=当時(91)=が徘徊(はいかい)中に列車にはねられ死亡し、JR東海が男性の遺族に振り替え輸送代など約七百二十万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、名古屋高裁は男性の妻(91)と長男(63)に全額支払いを命じた一審判決を変更し、妻に対してのみ約三百六十万円の賠償を命じた。

 遠方で暮らす長男への請求を棄却し、新たにJR側に対して、「駅の利用者への監視が不十分だった」などと安全対策の不備に言及し、賠償を半分に減額した。この点は一定評価ができるだろう。

 しかし、妻だけであっても、家族に賠償責任を負わせる点は一審と変わらない。民法が定める監督義務者として配偶者の責任は免れないという考え方である。夫婦が互いに協力し、助け合っていくことが大切なのはもっともだが、配偶者というだけで常に責任を負わされるなら、精神的にも、経済的にも追い詰められる。在宅介護は立ちゆかなくなる。

 認知症を患う人は、今や高齢者の七人に一人、予備軍もあわせて四人に一人に上る。高齢者が高齢者を介護する「老老介護」も増え、高齢ながらできる限りの介護に尽くしている人は大勢いる。

 事故で亡くなった男性は「要介護4」だった。妻がまどろんだ数分の間に家を出た。

 同じような事故はほかでも起こる。認知症の徘徊対策として玄関に開閉センサーをつけても、ヘルパーに頼んでも、行動予測の難しい人を二十四時間、一瞬も目を離さず見守ることは不可能だ。在宅であれ、施設であれ、部屋に閉じ込めることなどできない。

 この判決が前例になれば、ほかの事故でも損害賠償裁判で責任を問われる。亡くなる人は被害者でもある。家族だけに賠償を押しつけない、鉄道会社の責務や、社会的な救済制度が考えられるべきだ。保険料は運賃に上乗せし、事故の時は保険から支払われる仕組みがあってもいい。

 認知症の事故は列車に限らず、自動車などでも起きる。事故による負担を社会全体で分かち合う、そんなシステムをつくりたい。


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