昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

針供養

2019-02-08 15:27:30 | 俳句

キリスト教と仏教に接点があるやなしやと聞かれたら曰く「ある」が正しい。
ガンダーラ仏には厩で誕生した釈尊の像などがあることから、キリスト生誕の聖書の挿話が仏教にも影響したという話があるが、ここは、そんな歴史的な話ではなく、今現在進行中のトピックスである。
しかも他宗教交流などといった微温的なものではなく、キリスト教神学の中枢に仏教宗教思想を採用しようという(あるいは既にしている)という事実がある。
オカブもついこの間まで、キリスト教と仏教は水と油だと思っていた。
しかし、キリスト教前衛の自由主義神学に基づくと、仏教思想はキリスト教的に有りで、キリスト教はそれを採用すべきだとする説が堂々と唱えられているそうだ。
これを聞いたとき保守的なキリスト教思想に基づく信仰を持っていたオカブは魂消た!
そして即、それは違うだろう、と思った。
仏教にもいろいろある。キリスト教にもいろいろある。
人間を救済するという初期設定は共通している。
しかし、その方法論が仏教とキリスト教では真っ向から対立すると思った。
ただし、オカブの称する仏教とは、釈尊が説いたいわゆる上座仏教である。
オカブの理解によれば、それは万物は消滅する運命にあり、その無常の世への諦観が、己の魂の救いとなるというものである。
一方で、キリスト教は、イエス・キリストのみが救済への路であり、救われた者は永遠の命が与えられ、三位一体の信仰とともに、希望を捨てるなと言うものである。
キリスト教はある意味、非常に偏狭な宗教だ。寛容などとは程遠い。仏教の諦観と相いれる要素などゼロである、というのがオカブの理解だ。
市井の全く敬虔ではない一人の温い信徒が考えた妄想で、自身でもどれが正しいと断言する自信はないが、オカブの立場で言えば、仏教は所詮他人である。
だからオカブも仏教、仏教的なものとは他人と思って付き合っている。仲の良い他人として・・・

針納め花見ぬ里の女下駄   素閑

比丘浄土納めた針の行く末や   素閑

針納め西のかたへと拝みけり   素閑

古今とも針を納むる阿弥陀堂   素閑

針納む奉書のごとく包みけり   素閑

針供養納戸の奥の古木箱   素閑

針供養逢瀬の岸に古き寺   素閑

縫い針の折れた一本納めけり   素閑

堂覆うはだかの銀杏や針供養   素閑

納ると集めた針をマッチ箱   素閑

針納め娘のさちも願掛けぬ   素閑


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