昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

「朝日・岩波史観」からの脱却

2017-08-19 13:38:32 | 政治

この一週間、ある政治学者とネットで議論している。
主題は、北朝鮮情勢、アメリカ国内政治、中国情勢などだが、ここでつくづく思うのは、現代日本の我々はいかに古いフレームワークの中で思考しているかということである。
この政治学者は、かなり保守的な方向性を持つ方だが、こういう人が、この偏狭な日本の知的空間の中からよく出てきたな、と驚きを禁じ得ない。
「古いフレームワーク」「偏狭な日本の知的空間」とは、日本の学壇、思想形成、論壇、法曹、政治状況、行政、教育、社会形成などありとあらゆる分野を強力に支配しており、それをオカブは「朝日・岩波史観」と呼ぶ。
では、それは具体的にどのようなものを指すのか、どのように定義されるのかと言われると答えに窮するが、オカブは、それが主に朝日・岩波の出版物によって伝播された日本を覆う偽善的・欺瞞的な「ヒューマニズム」に基づく価値観と感じている。
これが「人権」「平和」「反戦」「平等」「人間の尊厳」などの甘い単語と相俟って、日本人の心理や価値観を支配し、支配される側の日本人は思考停止を強制され、選挙や世論形成などで、可視的にそれらの価値観が実態を伴って社会に表面化する。
だから現代日本人は安保法制、森友・加計学園のような事象に出くわすと、朝日・岩波史観に基づいた情報を無意識のうちにメディアから選好的に受信し、自ら問題の本質を論理的に思考しないまま、朝日・岩波史観に基づく自らの深層心理に存する価値判断基準によって直感的に反応するのである。
思えば、朝日・岩波史観は戦後において戦中・戦前の皇国史観、反動政治に対する反省から生まれ、大内兵衛、丸山眞夫らの理論的支柱によって体系化され、それはある意味、戦中・戦前の日本の問題を総括するツールとして一定の意味を持っていた。
しかし、それがいつしか日本の「国家」理念の主流となり、メディアの論調も、大学教育を含む教育の方向性も、政治思想もすべて朝日・岩波史観に基づかなければ排除されるという独裁的状況に至るようになった。これは、学壇における主流の学説、大学教育の実態、司法試験の正答基準、公務員の採用基準などによって実体化しますます支配力を強める。
昨今、「日本の右傾化」なるものが朝日・岩波陣営によって危機感を以て指摘される状況を迎え、ようやく一部の日本人が逆に「朝日・岩波史観」のドグマの存在を意識するようになった。冒頭にあげた政治学者なども、こうした環境の中で自らの論説を構築してきたのだろうが、オカブはこうした動きが決して喜ばしいと思っているわけではない。
ただし、朝日・岩波史観が古臭い欺瞞に満ちた「空気」の「暴力」を振りかざし、日本人に思考停止を強制し、他の言説を一切認めないという独裁的言論空間を独占しようとするに至って、日本人はそれに対する異議申し立てを行ってもいいのではないかと思っている。
オカブは日本人はすべて保守的指向になるべきだと考えているわけではない。そこには多様な言論があっていいのであり、その中には極端に言えばプロレタリアート独裁的な思想も含まれると考えるのが自然だと思っている。
だからこそ、朝日・岩波史観の排他的・独裁的な社会全体を覆う精神基盤に対しては異議申し立てを行うべきだと考える。
昨今のように、合理的思考が求められる安全保障問題に日本が直面するにあたって、ドグマ的かつ先験的な言論空間を再検討しても良いのではないか?

秋曇り思い煩う果ての空   素閑


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モリ・カケとはなんだったのか?

2017-07-29 17:23:43 | 政治

暑い。
本当に、この蒸し暑い日本の夏は嫌いだ。
ヨーロッパでも熱帯の島にでもどこでもいいから引っ越してしまいたいくらいだ。
熱帯の島でも日本よりは涼しいだろう。
ところで、日本でも、またかと思われるのが、森友・加計問題。
森友は籠池氏をはじめ役者が豊富だったし、見ていても楽しいので、まだ許せたが、家計に関しては出会い系助平をはじめ登場人物が面白くない上に、完全な無理筋の言い掛かりレベルの話なので、詰まらんとしか言いようがない。オカブは蕎麦でも盛りのほうが好きだ。
①まず、発端となった文書が、公文書としての態をなしていない。
②では、内部的なメモ書きか。私的なメモ書きならだれがどのような内容を書こうと、勝手なことを書ける。
③文書の内容が、完全に真実であったとして、だからなんなの?という話。
④加計ありきだったのは16年2月の地方創生諮問会議の議事録にあるように、その当時手を挙げたのが加計だけだったから。京産大が手を挙げたのは16年6月。
⑤石破四条件が閣議決定されたのは、国家戦略特区で加計に獣医学部を今治市に設置させることが決定して以後。
まあ、なんともお粗末なマスゴミの倒閣運動なのが加計問題なのだが、倒閣して安倍政権が倒れたら日本はどうなってしまうのかという話。
あそらく株価は暴落するだろうし、来年からの就活生は、また氷河期のような思いをするだろう。
自ら、海に飛び込んでいるネズミの群れが今の日本の状況なのだが、まあ国民の大半が理解できないのなら仕方がない。
今日も、かーたんと三茶すずらん通りの『きゃんどる』へブランチに行った。
その後、キャロットタワーのラウンジ『スカイキャロット』で一休み。
あ~涼しい。
束の間の涼味だった。

風死して昼の燈火に虫寄する   素閑




蓮舫個人より制度の不備を叩け

2017-07-18 13:10:24 | 政治

民進党党首蓮舫に、二重国籍問題が持ち上がっている。
要は台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた蓮舫が、もちろん日本国籍を持ってはいるが、台湾国籍(実は、台湾は日本は国家と認めていないので中華人民共和国国籍)の離脱の手続きをしないまま、参院選に立候補・当選し、民進党の党首にまで上り詰めたという問題である。
テレビ、新聞などでは、連日、森友・加計と稲田問題で持ち切りだが、ネットでは、目下、蓮舫問題がトップニュースだ。
多くの読者は、これが、なにが問題かはご理解の上だろうが、一旦、政権交代すれば、自衛隊最高指揮官になる野党第一党の党首が二重国籍(台湾とならまだ許容範囲だが、中華人民共和国?!)では、安全保障上の大問題であろうというのが一つ。
ここで、蓮舫問題に火をつけた八幡和朗という官僚上がりの評論家がいる。
このお方は、蓮舫がよほどお嫌いらしく、当初のとっかかりに蓮舫に目を付けたのはいいが、その後も蓮舫の個人攻撃を続け、案の定、左翼からは、なぜか問題まで持ち出されて「差別問題」、「民族問題」に焦点をすり替えられてしまったお粗末を仕出かしたという一席である。
もちろん、問題の目下の焦点は確かに野党第一党の党首の蓮舫が中心になることは自然なのだが、現実的に考えて、蓮舫を祭り上げている民進党、神輿になっている蓮舫など、横山ノックと大阪、青島幸男と東京みたいなものだから、具体的対象として、こんなカスを集中攻撃することもないだろうと思う。(それでも横山ノックは首長として冗費のカットを実現した実績があり蓮舫よりマシ)。まあ、どう転んでも、今の情勢で民進党が政権与党になることはあり得ないのだから、蓮舫の責任を追及しても、それは、民進党というゾンビ政党に引導を渡すことにはなっても、問題の本質からはどんどん離れていく。
八幡和朗には、まるで泥船の蓮舫・民進党体制にダメ押しの一撃を与えた功績は認めるが、政治家の二重国籍問題の本当の危険性の問題を喚起したとは思えない。むしろ、現状の議論はどんどん明後日の方へ行ってしまっている。
逆に、蓮舫を個人攻撃することにより、その代償として、差別主義者、レイシストなどとレッテルを貼られては堪らない。
だから、八幡のおっさんをはじめ、ネットの「保守」諸氏は、蓮舫の個人攻撃を止めて、一般の問題として「外国籍」の人間が、日本の首相にもなりうる、その時点で、国防の最高指揮官にもなりうるという、現行制度の抜け穴の不備を徹底的に叩けばよいのである。問題の本質は蓮舫個人よりもそちらのほうにあり、主権在民の精神に照らしても大問題なのだからである。
まあ、政治の本質論などはどうでもいい、日本のマスコミの手で、この問題も適当に葬り去られるのだろうが、国籍制度・国籍法・公職選挙法の不備はネット上でもよいから、継続的に徹底的に叩いてほしいものである。

夕立や孤独と自責と悔恨と   素閑




憲法記念日

2017-05-03 15:54:25 | 政治

憲法記念日である。
日本国憲法に関しては、毎年の憲法記念日のエントリーでさんざん持論を述べてきた。
しかし、半島情勢の急変をきっかけに、ここへ来てにわかに改憲論議が現実味を帯びてきている。
オカブは従来、改憲論者であったが、ここへ来て掌を返そうとしている。
特に9条、安全保障に関する項目で、今までの通りでいいんではないかなあ?と思えるようになってきた。
日本の繁栄の基をなしてきたのは、経済高度成長政策とともに、安保に関する『吉田ドクトリン』が根幹である。
この吉田茂の基本政策によって、日本は国防・軍事に力を割くことなく、経済成長に集中して邁進してくることができた。
これは、一方では『安保ただ乗り論』である。
日本の安全保障の責任と努力をすべてアメリカにオッかぶせ、自分は銭勘定の美味しい所だけをいただくという、誠に虫のいい理屈である。
もちろん、日本も血を流さない代わりに、相応の経済的負担を安全保障に関しては行ってきた。
しかし、それでも『安保ただ乗り論』は美味しいのである。
特にトランプが大統領になってから、アメリカとの同盟関係による過剰な同盟国であるアメリカとの集団自衛義務、また国際平和維持貢献によって生じる紛争当事者になるリスクなど、日本の軍事負担を増やすのはやめてほしいと思うのである。
安保法制成立によって集団的自衛権のの行使が可能になったのだから、ここは日本としては逆に新三要件を隠れ蓑にして、『安保ただ乗り』の安逸を貪っていればいいのである。
憲法9条を改正すれば、日本は、自らが望まなくても、国際協調の一環として、世界中の紛争に軍事介入することの義務を負うことになる。
もちろん、自衛隊も、その法的位置づけはもとより、従来の用兵思想、軍事戦略など、専守防衛原則すべてを変えなければならない。
武力紛争の当事者になるということは、現在の日本にとっては、消化しきれないリスクである。
北朝鮮の危機もアメリカにおんぶにだっこで解決してもらえばよいし、だいたい、そうするしか今の日本に選択肢はないではないか?
だから『安保ただ乗り』万歳である。
だから、これをもって、左翼は日本を「アメポチ」などと蔑称すべきではない。
しかし、上記とは別に、改憲論議は大いに行ったほうがいいだろう。
特に、体制変革に必要な改憲の歯止めとなっている、96条の改正を中心に議論してもらいたいところである。

ふけ頭掻いて憲法記念の日   素閑


トランプ大統領就任と安倍政権・・・体制側からの反定立

2017-01-21 15:50:49 | 政治

トランプ大統領が就任した。
就任して政権誕生後、失政したわけでもないのに、選挙中はもちろん、大統領選当選後も、批判の嵐に包まれ、激しいバッシングを受けた。
実は、選挙前からアンチトランプの危機感は相当なものだった。一介の泡沫候補だったトランプに対して『危険な男』のレッテルを張りまくっていた。
オカブも、トランプのアメリカ政治の運営、ひいては世界政治の運営には不安を抱く。
しかし、選挙制度のマジックとはいえ、アメリカの多くの有権者がトランプを選んだ事情は理解できる。
これは、ヨーロッパ、日本も含めて、『自由』『平和』『民主主義』など、誰も否定しようがない確固とした定立として確立されてきた価値観に対する、敢えての異議申し立てとしてのアンチテーゼの提唱の流れとオカブは理解している。
一方で、『ナショナリズム』『武力安全保障』『経済的自由』などは、誰もが否定する、否、否定すべきネガティブな定立であった。
現状、ヨーロッパでは難民問題を、日本では日韓問題を、そしてアメリカでは移民問題とそれとセットになった雇用問題を抱えている。
それを、これまでリベラルを中心とした勢力が、『自由・博愛・平等』、あるいは『反差別』などの定立としての価値観を振りかざして、問題の所在をはぐらかし、選挙民の不満を掻き立ててきた。
国民・有権者の側も、そうした一見高尚で普遍的に見える理念には抵抗できず、あるいは自らを『良識派』と装うことによって、本音としては反対のテーマに対して、賛成する態度を示した。
そのような、現象がここにきて、限界点を越え、 国民・有権者は本音を隠すことがなくなってきた。
ヨーロッパにおいては国民戦線やドイツの選択などの右派の台頭。日本では安倍政権の驚異的支持率の上昇。アメリカではトランプ政権の誕生などがその動きの一環である。
先に挙げた、耳に心地よい定立としての価値観は、あまりにも国民・有権者の実利を無視しすぎた。 それはかつて封建時代から近代への移行期には王権をはじめとする、人民を抑圧する『体制』を抑える定立であったが、一方で、現代の複雑な政治社会では、国民が体制側にいるか、反体制側にいるか明確な線引きがされにくい。体制側を批判する立場にいると思っていたら、自らが体制側におり、自らを疎外していることに多くの人が気づいたのである。
数値的に、体制側が国民に実利をもたらしているか計測は困難だが、アベノミクスによって雇用環境が劇的に改善されたのは事実だろう。これによって、若年者の政権支持率が目覚ましく上がったことは自然の結果である。
アメリカのかつてのティーパーティーのようなリバタリアン的ムーヴメントはまさに、その自らの実利に根差した立場の表明であった。それに対して、対して多くの人々は、定立に立った空虚な価値観から反対を唱え、彼らの『正義』に基づいた社会の構築を望んだかのような幻想を抱いたのである。それが今、まさに幻想であり欺瞞であることが明らかになった。
これから数年の世界を占ううえで、この体制側からの本音に基づいたアンチ・テーゼというものは、大きなキーワードになるのではないかとオカブは予測する。
オカブは欺瞞的な定立かのように言ったが、しかしそこには全く価値がないわけではないことを最後に付言しよう。
『建前』の存在は、社会や組織、人間関係の緩衝地帯として重要である。
それが、まったく用をなさないというのではない。
円滑な国家や社会の運営にとって、その『建前』に基づいた定立としての価値観は重要な役割を果たす。
だから、今後のトランプ政権や安倍政権が、体制側からの反定立を掲げすぎて、定立を捨象することにより、自ら泥沼にはまる懸念は大いにあると思う。そこに、この世界的動きの不安はある。
しかし、この隠れたムーヴメントは当面終わりそうにない。難民・移民問題を始めとする国際情勢の解決。雇用・経済成長・通貨・格差などの経済問題を巡っての綱渡り。そして、人類が長年抱いてきた、『自由・平等・博愛』、『反差別』、『寛容』などのお題目としての・・・水戸黄門の印籠としての価値観が脆くも崩れ去るのか? これから世界から目が離せない。
今年はいい年になってもらいたいものである。

われもまた野垂れ死にせん痩せ布団   素閑 

 


憲法記念日

2016-05-03 21:13:29 | 政治

連休も次第に終わりに近づいている。
まだ火曜日だというのに・・・・ボトルに三分の一しか入っていないor三分の一も入っている・・・のうちの三分の一しか入っていないの心境である。ネガティブ思考は生まれつき変わらない。
さて、憲法記念日である。
日本国憲法については一昨年以来、このブログでさんざん論じたので、今年は簡単にまとめる。
まずオカブは改憲論者である。
理由は以下の通り。
①現行憲法は硬性憲法過ぎる。国民が国家の最高統治形態を選択することができない。
②憲法九条に照らし自衛隊は違憲である。九条の文言を読んで自衛隊合憲説を唱えることが理解できない。日本国憲法は厳密な実定法である。九条で戦力の放棄を謳っているのだから当然自衛隊は違憲である。しかし、それで現在の国際情勢に対応できるのか?当然、自衛隊を合憲とするよう改憲すべきである。
③昨今、喧しく議論された解釈改憲のような愚に陥らないよう、憲法の条文は、国政の実態をよく把握したうえで作成されるべきである。
そしてオカブは①の理由により改憲は96条よりなされるべきと考える。
なんとしても安倍政権は7月の参院選後、改憲論議を活発化してほしい。
今日の夕飯はパスタであった。
腹一杯食った。

縁側に胡瓜の憲法記念の日   素閑 


ビフテック・フリット

2016-03-18 20:04:49 | 政治

かーたんの体調は昨日と同じくあまりすぐれない。
食事がまともなものが食べられないので疲れやすくなっているようだ。
だから今晩も半病人食。
ところで、一方のオカブは豪勢にビフテキを焼いて食った。いつもいつも食い物ネタばかりで恐縮だが、お付き合い願いたい。今日は、少し真面目な話もしようと思っている。
牛肉を焼いたビフテキとじゃが芋を拍子木に切って揚げた「ポンム・フリット」はフランス人の国民食である。フランス人は当たり前のように、この献立を毎日食っている。このことは過去にも述べた。
しかし、例外がある。フランス人の敬虔なカトリックは金曜日は肉を食べないのだ。いわゆる「精進潔斎」のためである。この日は彼らは、鰯の塩焼きやサバのワイン煮などちょっとフランス人らしからぬものを、普通は家庭で食う。 
ところ日本人のオカブはその金曜日に堂々とステーキを食っている。まあ、無論、たかがオージー・ビーフである。写真で見るとでかいが、いつも行く西友で一切れ600円程度のものだ。 神様も目を瞑ってくれるだろう。目を瞑ったついでに、ビールも飲んだが、こちらもお目こぼし願いたい。

ところで民主党の有田芳生議員が、参議院予算委員会の質問で、いわゆる「ヘイト・スピーチ」に対する対策を安倍首相に糾したという。
言うまでもなく、激越な言葉で他者や特定「民族」を攻撃し貶めることは、たとえ法に触れなくても、一般的な良識や、普遍的な人権の観点から指弾されなくてはならない。
しかし、そのことは措いておいて、滑稽なのは、普段は「安倍死ね!」と叫ぶ輩に与する議員が、こと自分の政治テーマである「ヘイト・スピーチ」に関しては、「国家権力」の出動に縋らなければならないという点である。
この「国家」とか「国家権力」が今日、語りたい中心的論題である。
国民国家の出発がウェストファリア条約からであるとすると、もう人類は600年近くも、この怪物(リヴァイアサン)と付き合ってきたことになる。マルクス主義のように最終的には国家の消滅を予言したり、EU連合のように限りなく、国家の垣根が低くなるような動きもあるが、国内・国際を問わず、未だ、「国家」は政治の中心的アクターである。これに対峙する存在として「近代的個人」があるわけで、西欧型近代社会の歩みは、この「国家」と「個人」との絶え間ない闘争の過程であったと言っても過言ではあるまい。
その中で、国家を・・・・特にその経済的規模において最小限にし、個人の活動への国家の介入を必要最低にまで抑えようとするのが自由主義の基本的概念である。そして、それは突き詰めれば「夜警国家」や「茶会」の世界まで突き進むのは、例外的事象とは言えず、ごく自然な事である。「新自由主義」も、結局は、それは自由主義が生んだ鬼子とはいえ、自由主義のメカニズムの本質を見据えれば、それが行き着く先として、なんの不思議もない。
当然、その国家対個人の関係の質や程度は国ごとの事情や国民性、歴史的背景によって異なるのであり、例えば、中途半端な福祉政策であり、とても国民皆健康保険の制度とは呼べない「オバマ・ケア」にも強く反対するアメリカ人という国民がいる一方で、ほぼ完璧な国民皆保険の制度を当たり前のように受け容れている日本人という国民もいるのである。しかし、双方の「国家」の「個人」への介入、言い換えれば行政の権能に関する考え方の違いは、程度の問題であり、根本的な相違はない。
近代国家は「ある程度」個人の自由を認めつつ、「ある程度」福祉国家としての機能も維持しているのだ。
では、個人の自由を極限まで認めれば、そのことは本質的な意味での国家の「枠組み」の価値を薄めているのかというと、そうした事実を認めることはできない。「個人の自由」も国民が選び取った国家権力の実質的機能により保障されていることを忘れてはならない。そのことは「自由な個人」たる国民が国家に隷属することを意味しない。近代において、「自由化」が進めば進むほど「国家」の存在が肥大化するという矛盾に眼を向けるべきだ。
その意味で、自由主義と民主主義は共存しうる概念なのである。一面では、民主主義下の「国家権力」は立憲国家においては、「憲法制定権力」である国民そのものであり、その観点から治者被治者自同という概念も出てくる。しかし、そのように単純なモデルに還元できないほど現代社会が複雑であることは論を待たないが、本質的には上記の事実は真理である。
そのことは日本国憲法による法の支配の始点と歴史と現実を観れば明白だ。乱暴な言い方に換言すれば、日本国憲法下では、国民は自らのための自由を保障される一方、他者の為の「不自由」をも義務付けられているということである。
民主主義に「立憲」を加えると、「自由民主主義」になるという見方が一般的だが、オカブはそれには疑問を呈せざるを得ない。主権者であり、治者であると同時に被治者でもある国民は、憲法下で自由とともに不自由も同時に受け容れなければならないという事実の前に、先に自由主義と民主主義は共存しうると言ったが、時にそれらは相対立する関係にもなる。
そうした環境と条件の中において、我々はもっと、国家、政府、個人、企業、諸団体、さらにはマスメディアなどが、より国家と個人の関係に緊張を持たせながらも、それに対する調整の役割を果たすように強く思考、自律、監視を行わなければならない。
だから、冒頭の有田議員の質問も国家権力である「安倍晋三」への要求であるとともに、自らへの要求でもあるとよく自覚すべきだ。

高ぐもりそよとも揺れぬ菫草   素閑



 


強欲の民主主義とは?

2015-11-11 18:08:28 | 政治

「強欲」とは言い換えれば人間の普遍的向上心であり、文化・文明・経済・社会の発展の原動力である。
しかし、それは「強欲」故に「発展」ではなく「滅亡」に帰する可能性もある。
性善説に基づいた「民主主義」はそれを理解していない。
政治とはもとより財の分配に関する闘争プロセスであり、「民主主義」はそのための合理的な最終解になるはずだった。
しかし、国民が強欲なるが故に、そして民主主義であるが故に、今、日本は財政破綻、経済の壊滅の危機に瀕している。
当たり前である。今の社会・経済構造は永遠に経済成長し、国際競争に勝ちまくり、子供はどんどん生まれて人口は増え、人間は長くとも七十歳で死ぬことを前提にしている。国民は皆、豊かになること、何かを得ることを求めている。それが多数であるが故に、民主主義政体の政治はそれを満たすため、政策を進める。壊滅に至るのは必然である。
小泉純一郎はその危機に多少は感づいていた。しかしやったことは「痛みに耐える」「米百票の精神」などと国民を煙に巻き、福祉・社会保障を削りまくった対症療法だった。 小泉純一郎は単なる「言葉のペテン師」、グランドデザインの描けない哲学のないケチな政治家だった。
安倍晋三はそれとは逆に、夢よもう一度と、「アベノミクス」を打ち出したが、それは頓挫し、失敗に帰した。
今、政治家というか日本国民、否、全世界の先進国国民に必要な共通認識は、21世紀になり、もう過去の歴史の通りにはやっていけないということである。
その結果、各国では市場経済を基礎とした資本主義・自由主義を見直し、過去にない全く新しい社会構造を構築することが求められる。その過程において、「民主主義」の一時停止がありうるかもしれない。日本には厚い「憲法」の壁があり、それを乗り越えるためには、「民主主義」に関する一時思考停止が必要だからだ。
これは敗北主義かもしれない。しかしそれに反論するなら「勝ち」へのプロセスを示していただきたい。
それがなければ、とりあえず、いつ、誰が、「国民みんなで貧乏になろうよ」と言い出すかだ。

夕暮れに秋の冷たさ闇に入る   素閑