昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

初秋(北朝鮮ミサイル危機に絡めて)

2017-08-29 15:02:10 | 国際・政治

北朝鮮が、またもやICBMを発射した。
しかも今回は北海道の日本国土を飛び越えて、太平洋に落下している。
危機は一層その緊張の度合いを高めている。
ところで、今回のミサイル危機をチキン・ゲームに例える論調があるが、無理があると思う。
①チキン・ゲームは両者が避けずに正面衝突して双方が壊滅的被害を被るという選択肢も前提としているが、北朝鮮と米国では核攻撃能力に差があり過ぎてこのような結果は考えにくい。
②北朝鮮の挑発は、北朝鮮にとってほとんど抑止効果がない。と言うよりも北朝鮮の挑発は、抑止→力の均衡による平和、ということを目的としたものではなく、一方的な脅迫による国際社会からの果実の奪取を狙ったものである。
③北朝鮮は、果たして合理的判断ができるアクターなのか?
以上から、オカブは今回の事例をチキン・ゲームや他の古典的ゲーム理論のモデルに当て嵌めるのは不適当なのでは、と思う。
だから北朝鮮と米国の行動を無闇・適当に「チキン・ゲーム」と騒ぎ立てる俗論には違和感を感じる。
一方で、ではどのような分析モデルに当て嵌まるかということに関し、適切なものが思い当たらない。
一連の事例を政治分析的アプローチで解説するとすれば、どのような手法をとるべきなのか?
オカブは北朝鮮による、一方的脅迫でもたらされる北朝鮮のプレゼンスの強化と、外交的果実の享受という北朝鮮の単独ゲームの、軍事・外交闘争だと思っている。
北朝鮮の無法な脅迫に対して、かつての六カ国協議でピエロを演じた米国のヒルをはじめ、今回のメルケルの意思表明にも見られるように、対抗勢力は、北朝鮮に対する軍事的オプションという、最も有効な対抗策を最初から捨象して、単に状況を「対話路線」に導くことだけを念頭に置いている。
そこで、北朝鮮による核ミサイルの脅迫というアクションに対して、対抗陣営はそれに見合ったアクションを取らずに、全くゲーム理論のモデルには当てはまらない異常ともいえる行動を取っている。
もちろん北朝鮮との「対話」が可能なら、今、カタストロフィックな結末を回避するうえで、これ以上望ましいことはない。
しかし、北朝鮮の意図が「対話」による相互の譲歩、例えば北朝鮮の核放棄と彼等への制裁の緩和、あるいは経済援助のバーターが可能かというと、それは北朝鮮にこうした交渉は全て反故にされてきたこれまでの経緯から、まずあり得ない解決策といえる。
では、各国は北朝鮮への制裁を強化することで、北朝鮮が音を上げるまで待てばよいのかというと、まず中国とロシアという北朝鮮に対する強力な支援国家があり、この二国の経済的・軍事的・技術的支援の下、北朝鮮は核・ミサイル開発をエスカレートさせるだろう。そして関係国が「待っている」間に、北朝鮮の核攻撃能力は飛躍的に増強され、日本はじめ米国はその脅威に曝され、あらゆる場面で北朝鮮の脅迫に屈せざるを得なくなる。
事態が好転しないことを前提に考えれば、危機の重大性は急速に増大する。
今日より明日が事態が緩和されていることはあり得ない。
仮に、北朝鮮が米国本土に到達可能なICBMと核弾頭を完成し終わったら、そこで従来、人類が数々の犠牲を払って構築してきた国際秩序は終了だし、米国、中国、ロシアを巻き込み他の核保有国も参加する世界核戦争の可能性もはらんでいる。その場合、地球は滅亡する以外の未来はないだろう。
そうなってからでは遅いというのは言うまでもない。
今、世論に問えば無謀の誹りを受けようが、米国の北朝鮮に対する先制軍事攻撃が世界の安寧のために少なくとも最善の選択肢の一つになりつつある。

初秋や水面たいらかいと清し   素閑





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北朝鮮情勢に思う

2017-08-14 10:29:17 | 国際・政治

北朝鮮による、核、及びICBMによる脅迫、挑発が日本、中国、米国を揺るがせている。
中国、北朝鮮、米国の三者関係の状況を見ると、米国が北朝鮮に対して、なんらかの先制軍事行動を取った場合、中国がそれに対する対抗措置をどこまでエスカレートさせるかという観点から予測すると興味深いプロセスが想定できる。
最も極端な例は、米国が北朝鮮に先制核攻撃を行い、中国が米国に対して全面核報復を行うというシナリオだ。この場合世界が米中を中心としてロシアも巻き込んで全面的かつ最終・壊滅的な核戦争に至るという夢物語だが、まずそのような結果はあり得ないだろう。
しかし、米国の先制攻撃の可能性も排除しないで仮定を組み立てると、偶発的な過大な軍事衝突に至ることはないと楽観もしていられない。
中国は合理的判断のできる大人の国と考えたいのは山々だし、おそらく水面下で、米中は最悪の危機を回避するための協議を行っていることは想像に難くはない。しかし、米国の第一撃が中国の想定外だった場合、それに応じて、中国の対抗措置もエスカレーションするであろう。
ただし、米中間の全面衝突は軍事的のみならず、国際経済、国際秩序の維持のためにクリティカルな結果をもたらすことは両国のみならず、周辺国もよく理解しているはずなので、どこで矛を収めるか・・・一旦発生しエスカレートした軍事衝突をどの地点に収束に持っていくかが焦点になると考える。この際には両国の思惑のみならず、世界各国からのプレッシャーも働くと考えられるので(メルケルは明確に米国の軍事措置に反対している)想定以上に平和裏に安定が回復すると思う。
ただし以上に述べたことは、米中間の関係の文脈のみで予測したのみで、北朝鮮の行動は全く視野に入れていない。仮に米国が限定的な軍事介入を行った後北朝鮮がいまだ抗戦能力を有していた場合、ましてや「第二撃」能力を有していた場合は、北東アジアは非常な危機に曝されるであろう。その意味で、北朝鮮の潜水艦がどれだけの戦闘能力を有しているかは非常に興味がある。
他方、中国が北朝鮮の援護のためにいかなる行動を取るかは、中国の国内問題、門閥、人民解放軍の内部事情等、素人には測り知れない力関係が働いているので上記に述べたことは、あくまで非常に単純化した予測の構図であることを付言しておく。
乱暴な言い方で批判に曝されるのは覚悟で言えば、米国が北朝鮮を一撃で仕留めてくれれば、それが最も平和的な手段では?とも愚考する。

撫子に幾万遍の念仏や   素閑


集団的自衛権は合憲か?

2015-08-01 12:25:07 | 国際・政治

6月29日のエントリーで集団的自衛権について述べたが今日はこれを若干補足しておきたい。
礒崎陽輔首相補佐官が、今次安保法制は法的安定性とは関係ないと発言して物議を醸している。
野党は辞任を要求しているようだ。
しかし、集団的自衛権に関わる安保法制が、高度に政治的なため、憲法の制約に馴染まず、統治行為に該当するというなら、それはその通りである。国家安全保障上の問題より法律論議を優先させるというのは、自民党からの、違憲論憲法学者への口撃がいかに見苦しいとはいえ、冷静に論を組み立てていけば、まったく本末転倒の国家主権を無視した愚論であることは明白だ。
しかし、安保法制が合憲かというと、それには反対だ。安保法制、また集団的自衛権(個別的自衛権、否交戦権も)日本国憲法に違反しているというのがオカブの考えだ。その観点からオカブは憲法9条に関して峻別不能説に立つ。武力の放棄、交戦権の放棄は憲法九条の文言から明らかであり、これを否定することには無理がある。
これについて、安倍首相があくまで安保法制について合憲だと強弁するのは、なんの根拠があってのことか知らないが、あまりにも合理性を欠いている。
日本国憲法はその制定の発端となったマッカーサー・ノートの段階で、日本に絶対的な意味であらゆる武力行使を放棄させようという、立法趣旨が明確だ。それは曖昧模糊とした第二項の芦田修正を経ても覆らない。
現在の安保法制の賛成論者の主張は、そもそも自衛権は国家に天賦に与えられた自然権であり、その延長である集団的自衛権は、国連憲章で認められた国際法上の要請であるとするものである。しかし、日本国憲法は、自然法的な概念を徹底的に排除した、実定法主義をとっていることを強く主張したい。このことは、つまり、憲法に規定されていないところのものはすべて無効とする主義・主張だ。だから、自衛権が自然権であろうと、日本国憲法に規定されていない・・・逆に9条で放棄を謳われているのだから、日本には自衛権は存在しないことになる。
しかし、マッカーサーの当初の意図に反して、東西冷戦、朝鮮戦争など国際情勢の変化は風雲急を告げるようになり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」という大前提が崩れ去ったのである。本来であればこの時点で本格的な改憲論議が行われて当然であった。しかし、当時は残念ながら「吉田ドクトリン」の呪縛の中に日本政界は包まれていた。そして今日に至るまで改憲は行われていない。
ところが現状の国際情勢の激変に伴い、中国の脅威が高まるにつれて、日本の防衛を考えるうえで、個別的自衛権では対応できない現実があり、実質的集団的自衛権の行使である日米安保条約による日米同盟による安全保障を整備する必要がある。これは、日本国民の安全を守るために不可欠である。
また、PKOに代表される国際貢献、またホルムズ海峡の安全確保、また極端な例では、同盟国が攻撃を受けた場合の協同作戦による敵国への攻撃に見られる日本から見ての対外的集団的自衛権の行使は、上記の日本の集団的自衛権による防衛を確保するうえで不可欠である。ここで重要なのは、あくまでも日本国の安全保障、日本国民の生命・安全を守ることが最優先目的であるということである。これは存立危機事態の新三要件に謳われているとおりである。
その結果として、片務的集団自衛である日米安保条約の扱いが今後問題となるのではないか?日米安保改訂までも視野に入れた今回の安保法制議論であるかどうか気になることである。
だから、純粋に法的議論の観点に立てば武力の保持の自衛隊も、交戦権も、自衛権も、もちろん集団的自衛権も違憲のなかで、どうやって国家安全保障を確立するかが最大の課題となる。
だから、安倍首相が今国会でこれら法案を成立させる過程で、これらは本来は「違憲」であるが、改憲が困難な現状に照らせば、国家主権と国民の安全を守るために必要不可欠であることを、丁寧に説明すべきであった。しかし、これに関しても、彼は改憲が困難であるから、解釈改憲を行ったのではないと、国民を煙にまいている。
安倍政権の実行力と安定性は現在の日本の財産なのであるから、一つ、安倍首相が正論で事態に取り組まない姿勢は惜しまれてならない。
やがて、この法案成立後に必ずや違憲訴訟が起こされるであろう。そして最高裁は「統治行為論」の裁決を下すであろうことは明白だ。
安倍政権は堂々としていればいいのである。
しかし現在のところ、そのプロセスや説明の仕方がご都合主義に流れていて実に残念だ。
安倍政権には、原理・原則を貫くことを期待したい。

下の写真は、昨日のおかずの、生ハム・メロン、ほうれん草のキッシュ、サーモンとブロッコリーのクリーム煮だ。かーたんが作ってくれた。平和な食卓は国の安全と不可分である。

街白く炎暑の家路なお遠し   素閑

 


集団的自衛権の行使について

2015-06-29 02:22:40 | 国際・政治

5月3日のエントリーで、今年は憲法論議が静かだと書いたがとんだ間違いだった。
そして、安保法制に関する解釈改憲が違憲で、反対だと書いた。これも、いまとなっては間違いだったと自省せざるを得ない。
前国会での解釈改憲についての閣議決定が違憲であるという見方については、今でも変わりない。
しかし、「憲法改正」が事実上100%不可能なこと、有事への対応が喫緊の課題であることを考慮すると、このことは憲法論議以前に、政治判断として苦渋の選択だったといわざるを得ない。
安倍晋三も票にならない、なんの得にもならない安全保障政策を提出して、批判を浴びることはあっても、巷に言われる軍国主義国家を作ろうなどという気は毛頭ないだろう。
オカブは世の中には二つの狂気に類する議論があると思っている。
一つは「戦争をしたくて」たまらない議論。
もうひとつは安全保障など不要であるという素っ裸を主張する狂気の議論。
そして両者とも大真面目で主張する者が世の中にいるから始末に悪い。
しかし冷静に考えてみれば、両者ともまったくの不合理であるということはすぐわかる事実だ。
「戦争はしたくない」しかし「安全保障は必要だ」
そうすると両者を結ぶ課題はどこにあるのだろう。
それは「抑止理論」を認めるか否かである。
オカブも元来、抑止理論には懐疑的であった。というか、大学で勉強した基盤が、当時の東西冷戦下の核の脅威と競争のもとで、抑止理論は悪であるという出発点から始まっていたからである。当時の論壇も朝日・岩波を中心にそれが主流だった。
しかし、以降、いろいろな事実を見るにつけ、抑止理論は現代において効力を持つという結論に至った。
これについて、一例をあげれば、海上自衛隊が冷戦を終結させたという事例はあまり知られていない。海上自衛隊のP3C対潜哨戒機の活動がオホーツク海のソ連ミサイル原潜の第二撃能力を無力化し、核バランスの均衡を崩し、結果としてソ連側からのデタント、ひいては雪解け、ペレストロイカ、ソ連崩壊へと繋がったのである。
これは抑止能力の正当性を証するもので、しかも当時からいわば「集団的自衛」が機能していたという事実なのである。

しかし、現日本国憲法上はこれすらも違憲であるという説にオカブは同調する。
憲法は当然ながら最高法規として、立憲主義に立つならば、硬性性を保ち、政治への拘束力を持つものでなければならないのは明白である。
しかし、国際情勢の変化により中国・北朝鮮の軍事バランスの上昇に伴って、日本の抑止力のレベルを上げなければならないのは明らかだ。
国際紛争が起これば、日本国憲法など、微塵に砕けるというということから目をそらせてはならない。
釈然としないのは、政府がPKO活動、国際貢献などと、集団的自衛権の行使をオブラードに包んで国民に目晦ましすることである。そんな姑息なプロパガンダを行わずに、堂々と国家の主権と国民の安全を守るために同盟国と集団的自衛権を行使するといえばよい。 
改めて、現状で憲法改正が不可能な以上、解釈改憲によって安保法制を整備するということは好ましいことではないかもしれないが、苦渋の正しい政治選択であったと言わざるを得ない。

四方の海波風騒ぐ梅雨の夜半   素閑 


投票年齢が18歳に引き下げられた。

2015-06-18 14:41:09 | 国際・政治

投票年齢が18歳に引き下げられた。
昨日、参議院を法案が通過したとニュースでやっていた。
これから少子高齢化で、最も割を食うステークホルダーの若者にも投票権を与えないのは、片手落ちと見たのであろう。これは正しい。
このこと自体は、別にいいのだが、早速、高校で投票の模擬授業を行う教育を始めている。
しかし、この程度の教育で、若者の政治参加意識が根付くとは思わないし、そもそも、今の20歳以上の投票行動だって、見てみれば、文字通りのカリカチュアである。
物事の本質とは何か、から始まって、煽動的プロパガンダを流しているのはどこか、 本当の意思決定者はだれか、中心的利害関係者はだれか、なぜその政策が必要か、政策の中身は何か・・・・ふうっ、自分でも分からないことが多すぎるのだから、人に要求するのは無理筋だが、最低これくらいのことは認識しておいて、投票しなければ、若者に選挙権を与えたからと言って、政治は良くならないし、政治は良くならないとしても、合理的な投票行動はできない。
今のオカブはどこかモヤモヤしている。果たして表向き選挙による「民主政治」が最も良い政治形態なのであろうか?果たして、選挙だけで政治判断が下されるのであろうか、選挙だけが政治参加の方法で、他に圧力団体などの行動により意思決定が行われているのではないか?
こう考えてみると、今の社会に間接民主制、ましてや選挙のみによって、有権者に、お前らは政治参加の機会を与えているんだぞ、と思い込ませる手口は姑息である。なぜなら、労働組合、巨大企業、財界、メディア、市民団体を中心とする各種団体は、選挙などしなくても自分の思い通りに世の中を動かしているからである。
こういう、本質を分からなくちゃぁ。
一方で、選挙によって、彼らの動きを制肘するという考えも認められないわけではないが、逆に彼らによって投票行動が踊らされるという事態も考えられる。
まさに、有権者がどうやって自分の権利を守るのかの術も知らずに、形式的な「政治参加」を促しても、無意味この上ない。
まあ、非政治的人間でありノンポリのオカブとしてはそんなことはどうでもいいのだが、オカブは現代社会にフィットした最も理想的な政治的形態は「賢人政治」だと思う。
しかし、そこの永田町のあなた!ゆめゆめ自分が「賢人」で有権者は「衆愚」などとは考えめさるな!
これから馬鹿馬鹿しい永田町の猿どもを追い出して、若者に真に「賢人」になる教育を施して、入れ替えるのだ! 

 

梅雨空や隣家の赤子泣きゆるか   素閑 


憲法記念日に寄せて

2015-05-03 20:15:22 | 国際・政治

今年も憲法記念日がやって来た。
今年は憲法に関する目立った争点もなかったのか、比較的平穏な憲法記念日だった。
憲法に関する、争点・論点というと「護憲」か「憲法改正」か、ということになる。
オカブも少し前まで「憲法改正」を唱えていたが、今はどうでもよくなった。
今の憲法論議はあまりにもイデオロギッシュであるからである。
もちろん、人はバイアスのかかったイデオロギーから離れられない。
自分自身もバイアスがかかっていることを十分に自覚している。
しかし、その「バイアス」とか「イデオロギー」というものは、一見確固としたものに見えながら、個々人が置かれた環境や、取り入れた情報や社会情勢によって左右される極めて脆弱なものであると言えよう。
だから、戦中から戦後にかけて、「左」から「右」へ、「右」から「左」へと猫の目のように転向者が出たのであろう。
ウェーバーが「ベルト・フライハイト」を主張したのは、「価値観」という呪縛からの自由というよりは、こんないい加減なものに左右されるなという訴えかけのように思えてならない。
「日本国憲法」の中の最大の争点である九条も極めてイデオロギー論争的な場で議論されている。一方で「自民党憲法草案」も内容の稚拙さは措いておいて、一方的価値観を露骨に前面に出した実に政治的なものであった。
集団的自衛権も、安全保障という観点から必要な政策ではあったが、イデオロギー論争において「悪」とされ、安全保障の確保のための技術的問題が価値観の争いに置き換えられてしまった。しかし、あの解釈改憲を閣議決定したのはまずかった。現行憲法の縛りという点からは、現状の武力の保持、すなわち自衛隊も、もちろん集団的自衛権も違憲であるのは明白である。堂々と改憲を訴え、国民の議論を待つべきであった。
しかし、われわれ一般庶民が憲法への思考を停止してしまってはいけない。
立憲は国民の最大の政治的権利である「参加」の根幹をなすものである。
要はこの日本国は国民が造り上げたという証左を成すものである。
しかし、現行憲法の縛りの中では、現行憲法を改正することも、新憲法を制定することも事実上「出来るわけがない!」のである。
日本人の政治意識の低さはこのあたりから来ていると言えなくもない。
しかし、「護憲」「改憲」双方の立場から憲法を議論することは、選挙以上に重要な国民の参政の基本的機能である。
そして、それは現行憲法の意義の議論を含めて、改憲の意義をも対象にしなければ無意味である。「日本国憲法」は他国の物と比較しても、「憲法」としては非常に完成度の高いすぐれた憲法であるとオカブも認める。惜しむらくはその制定時に国民的議論がなされず、政体の根本を国民自らが選び取るという歴史を逸してしまったことである。
だから、イデオロギーでギトギトになった九条を議論することはさておいて、手続法である九十六条を「議論すること」の正否を「議論すること」から始めてはどうだろう?
「護憲」の立場も理解したうえで、憲法が「不磨の大典」であってはならない、というのがオカブの立場である。

世の中の喧し憲法記念の日   素閑 

 


JE SUIS CHARLIE.

2015-01-12 08:47:24 | 国際・政治

フランスで痛ましい事件があった。
イスラム原理主義者が、宗教的風刺画を掲載したパリの出版社を、武器をもって襲撃し、多数の死傷者を出した。事件はそれだけに止まらず、連続して2件のテロ事件がパリで起こった。 
オカブが注目したのは事件そのものではなく、事件後に起こった大衆の、集団示威行動である。フランスだけで100万人の人々が参加したという。集会やデモはフランスのみならずヨーロッパ各地に飛び火している。彼らは「Je Suis Charlie」 (私はシャルリー(襲撃された出版社))というプラカードを掲げて、とにかく集まった。
集まったのはいいが、彼らが何をやりたいのか?彼らが何を訴えたいのか、まるで不明であるということが不気味である。一部では、言論の自由を守れということが焦点のように言われ、ペンを模したプラカードがデモで掲げられているが、果たしてそうであろうか?追悼集会にしては人数が多すぎる。暴力やテロに対する抗議行動なら、まるでイスラムを挑発してそれらを助長しているかのようにしか見えない。本当に分からない。
FACEBOOK上でも多数の「JE SUIS CHARLIE」が踊っていたが、多くが銃を持ったイスラム系の男や、アラーやムハマンドを模した風刺画を堂々と掲げている。 
オカブは、イスラム系の移民問題に悩まされてきたヨーロッパ諸国民の怒りがこの事件をきっかけに噴出したものと思っている。集会に参加した民衆のうちの多くの部分を排外主義者が占めていると推測している。
ということは、この事件に乗っかった大規模な移民排斥運動が、今度のヨーロッパの示威活動の本質である様な気がする。 情報や分析の結果が不十分で結論付けるのは早計であるが十分に考えられることである。事件に先立つこと3日に、ドイツで1万2千人を動員した移民排斥デモが行われたという。ヨーロッパが移民排斥に向かうなら彼らの国々の国民の選択である。しかし、もはやヨーロッパ諸国は移民が多すぎて移民が決して国民のマイノリティーではないという現実がある。実態として、現在にほとんどのヨーロッパ諸国はネイティブの国民によって国の政策の意思決定を行うことはできない。現代は病んでいる。

しかも日本のメディア、オカブが読んだ中では極左日経新聞は移民政策を擁護し、移民に反対を唱えるフランス国民戦線のル・ペンをここぞとばかり攻撃している。
示威行動は日本でも行われたという。そして集会の終わりに「ラ・マルセイエーズ」が歌われたという。これがヨーロッパ人のこの事件の反応の実体を表しているような気がする。日本人がテロに遭ってその追悼に「君が代」が歌われたら、メディアはどのような反応を示すだろうか?彼らがその行動を極右的として攻撃することは火を見るよりも明らかである。この一連のデモ・集会は実はイスラムに対する欧米・フランスのナショナリズムの示威行動であったのだ。
この情報は、集会に参加したヘイト・スピーチ反対、民主党支持の活動家が「フランス人の心をみた」といってFACEBOOK上で嬉々として報告していた。人権活動家が排外活動に積極的に加担しているのである。笑うしかない。まあ、本質を見極められない馬鹿というものはどこにでもいるものである。

昨日は、昼はかーたんとスカイキャロットの窓際の席を占領して、二人で5000円の食事で11時から3時まで粘った。雲一つない晴天でスカイツリーも望め最高の眺め。良かった良かった。 

荒ぶれる世の波風の冬ばれや   素閑


皇室廃止論

2015-01-09 20:35:33 | 国際・政治

オカブが憲法改正論者であることは以前のエントリーでも書いた。
しかし、ここでアナーキスト、極左、反日、売国奴の誹りを覚悟の上で発言すればオカブは「皇室廃止論者」である。
憲法改正と皇室廃止を同一人物が述べ立てることに、現代のいわゆる保守・革新、左右のカテゴライズ、さらには「ウヨ・サヨ論争」の虚しさの実態が浮かび上がってくるのだが、それはさておいてオカブは従来のカテゴリーの右でも左でもない。よくリベラルの連中や、自称真正保守の連中が、自分は「右でも左でもない」と唱えるが、それとはちょっとニュアンスが違う。
オカブは古臭い政治概念の「右・左」に自分が取り込まれないことを自覚し、その右・左、保守・革新のレッテル貼りに飽き飽きしているのである。
話が本題からずれたが、オカブは皇室とは本質的に現代でも極めて政治的なツールであると認識している。
そして、明治絶対主義政治制度から敗戦後、今上まで、天皇制はそれが論者によってネガティブととらえられようとポジティブととらえられようと、日本人の国民意識・アイデンテティを保持するうえで極めて有効な政治的ツールとして機能してきたと認識している。
しかし皇室が「有効な政治的ツール」として機能したのは今上までであろう。天皇制は伝統的統治の正当性の本質であった。
今上が崩御され、東宮・東宮妃が天皇・皇后として即位して皇室は有効な政治的ツールとして機能しうるかははなはだ疑問である。
おそらく天皇をいまだ現人神として敬っている人々は、日本人口の一割程度いると推測している。東宮が即位すればこれらの人のアイデンティは崩壊するであろう。
そして女性週刊誌から皇室情報を得ていた人々のほとんども日本人としてのアイデンテティが崩壊するであろう。
ゴシップネタ的な話題は各メディアを参照していただくとして、女性週刊誌から、ネットから散々叩かれてきた、東宮・東宮妃、およびその息女が日本の象徴たる天皇一家に即位して、どうして皇室が日本の象徴としての尊厳が保たれるのであろうか?
そもそも、明治以降、国民(臣民)と天皇の紐帯は天皇のパーソナリティによって保たれてきた。英君といわれる明治天皇が死の床につかれたとき、病気平癒を祈る人々で二重橋前はあふれたという。そして崩御となったとき追悼を捧げる人々で、また二重橋前は一杯になった。しかし、大正天皇の崩御の時そのような事態が起こっただろうか?あれだけ現代史に重要な役割を果たした昭和天皇の崩御の時そのような事態が起こっただろうか?
伝統的統治の正当性とは言いながら、反面、日本人の意識内にある天皇像のパーソナリティから外れる天皇は国民の求心力とはならなかったのである。最も理想の天皇像から遠い帝徳のない(オカブの主観)東宮一家が即位すれば、日本人のアイデンテティは雲散霧消すると思う。おそらく、日本人の国民意識はこの東宮即位によって八つ裂きにされるであろう。
もはや皇室が権威を失うのは目に見えている。それは国民国家の瓦解につながる。
この際、今上が崩御した時点でもう皇室は廃止しなさいとオカブは声を大にして言いたい。

さて、その後であるがオカブは、大統領制・共和制を夢見ている。
日本が市民革命を経験していないとはよく論者の中で言われることであるが、オカブはそのことが現代日本の最大の癌であると思っている。象徴天皇制という曖昧模糊とした統治形態に頼り、共産勢力の意図も入っているとも言われているGHQ憲法を押し頂く日本に未来はない。すなわち日本国民は民衆レベルで国造りに携わった経験を歴史上持ち合わせないのである。自主憲法制定議論を端緒として、ぜひ日本国民の意思を反映しした国家の造営と国家の運営を行いたい。天皇制という土俗的な因習が日本の近代国民主権国家としての成熟を妨げているのである。
しかも議員内閣制は意思決定の迅速さを求められる現代国際社会では極めて不効率なものである。全面的にとは言わないが、見習うべきはアメリカ政体である。大統領の権限を強め、意思決定の迅速化を推進する。ど素人の議員大臣を排して、その道のプロフェッショナルを省庁のトップに据える。官僚群もスポイリングシステムを採用して流動化を加速する。その上で、権力の暴走を議会がチェックする。これこそが閉塞化した、オリのたまった日本を再生し生き残る道である。しかし、アメリカに倣ってはいけないのは、主権の所在である。国家主権はあくまでも国民に帰属しなければならない。
以上の求められる将来の日本の政体はオカブの私見である。最も重要なのは、国民全員が国家の根本になる憲法、政体、国家権力の生成に参加し、その後主体的に国家をコントロールできる状態を作り出すことである。これは地方自治にも言える。もはや根拠薄弱な天皇を日本国の象徴として仰ぐのは前近代的であり、そのままにしておけば実質的に近い将来、政治の混乱と停滞、国民の政治への無関心を招くだろう。
日本には真の近代国民国家としての道を歩んでほしい。
このことに反論が巻き起こるのは大いに結構なことである。大いに議論していただきたい。オカブは一石を投じたに過ぎない。

話は大きく変わるが今日の晩御飯のおかずはお刺身であった。美味かった。ご馳走と言うなかれ。すべてスーパー閉店間際に買ってきた半額物ばかりである。ああ美味しかった。

滅ぶ惧れおおかり寒のうち   素閑




日本ハンディキャップ論を嗤う。

2014-11-08 06:45:30 | 国際・政治

『日本ハンディキャップ論』と言われても聞き慣れないという印象しか持たない方が大半なのではないか?
この言葉の元ネタは、1993年当時の外務次官、小和田恒氏が、東京蓺大学長の平山郁夫氏との対談で、今後の日本の進むべき道として語った中で、日本は平和維持国際貢献をするにあたって、軍事的貢献ではなく、経済的貢献によってなされるべきだとしたものである。これは前提として1991年に起きた第一次湾岸戦争のとき、橋本龍太郎政権が米のクリントン政権に差し出した135億ドルの経済的支援を念頭に置いていると思われる。
さて、『日本ハンディキャップ論』自体は、戦後間もない冷戦構造、及び日本国内の左翼平和主義のはざまの中で、当時の首相吉田茂が打ち出した『吉田ドクトリン』の継承に過ぎない。『吉田ドクトリン』 とは、日本の安全保障及び米国による国際安全保障に対して、日本は極力軍事的参画を行わず、経済支援を優先し、ひいては日本は軍事的大国を目指すのではなく、経済優先の政策を貫こうというものである。このこと自体は当時の日本の国力、置かれた国際的・地政学的環境、安全保障上の脅威とそれに対する米国軍事力の関わり、国際社会の日本に対する認識等々を勘案してその時代においては妥当な策であったと考える。当時、『武装・完全独立国家』を目指すと唱えようものなら、国内、及び国際社会、また米国からも大きな反発があったと予想される。また、米国の核の傘に守られた「軽武装・経済優先政策」は当時の成長期に入ろうとしていた日本経済発展をを後押しする形になった。しかし、『日本ハンディキャップ論』はこの『吉田ドクトリン』の成果を過大視しているし、2014年11月現在の時点では、もはや賞味期限切れの外交政策と言わざるを得ない。
しかし『吉田ドクトリン』は近年まで、日本の外交・安全保障を掣肘し続けてきた。歴代内閣が集団的自衛権を違憲としてきたのも、忠実に『吉田ドクトリン』を踏襲した結果であるとみていいだろう。たとえ、日本国憲法が、法原則上、自明の自然権である自衛権、交戦権を放棄して、その法体系の正当性に対し疑義を持たれたとしても、それを上回る戦後体制の呪縛が強烈であったのである。しかし近年、その『吉田ドクトリン』及び『日本ハンディキャップ論』の根拠となる環境に変化が生じ始めた。
その具体的内容は、まず『吉田ドクトリン』及び『日本ハンディキャップ論』が、アメリカが「世界の警察」の役割を担ってくれることを前提にしていたが、この前提は、世界一の軍事大国、経済大国であるアメリカが21世紀に入って、軍事的、経済的疲弊に陥ることによってもろくも崩壊した。アメリカは日本に対して、国際安全保障、及び自国の安全保障に軍事的な応分の負担を求めだしたのである。さらには、国際世論もこのアメリカの動きに同調するようになった。アメリカは中東とアフリカの軍事的制圧を行うことに精一杯で、極東の安全保障に関しては「極力手をかけたくない」立場なのである。従って、米国防総省は朝鮮半島へのコミットを急激に減らしてきているし、当然、日本の集団的自衛権による軍事的自立、及び国際貢献としての日本へ集団的安全保障への参画を求めてくる。いわゆるいま日本で議論されている集団的自衛権の是非は日本の国内世論ではいまだ定まっていないが、上記のような国際情勢の変化の下では、丸腰外交・丸腰安全保障を標榜することのない限り、取りうる最善の選択と言わざるを得ない。さらには中間選挙の共和党の圧勝によって、米国はさらなる財政規模の削減、小さな政府の施行、ひいては軍事予算の削減を行うであろう。もはやアメリカは日本にとって、どんなに経済的な貢献をして媚を売っても安全保障において縋ることのできる保安官ではなくなったのだ。
そして、20世紀と21世紀の国際情勢の最大の変化は米ソ対立から、中国の台頭に中心的課題を移行したことは論を待たない。そして中国の政策はソ連よりも経済的侵攻を含めた点で狡猾であり、ソ連と比較して国内政治の不安定さからイラショナルである。 そして近年の中国の軍事費の飛躍的膨張はその危険度を説くのに十分な理由となる。今回のAPEC開催に合わせた日中首脳会談の実現による歩み寄りにもかかわらず、依然、中国の現在の情勢はいつ極東で「熱い戦争」が起きても不思議ではない状況になりつつある。
こうした極めて危険な国家である中国と一衣帯水の位置関係にある日本の意思決定者が、上記の国際情勢の変化の下に、まだ「軽武装・経済優先」の『吉田ドクトリン』の支配下にあるとしたらそれは極めて危機的な状況であるといわねばならない。また国際世論も日本が憲法九条にがんじがらめにされた「平和国家」であることよりも応分の軍事的負担を行う「普通の国」であることを望むようになった。日本の置かれた立場は、自国の安全保障に関しても、平和的国際貢献に関しても、米国はもちろん欧州から、あるいは東南アジア諸国からも軍事的自立を求められているのである。
もちろん日本の立国の要は経済である。経済の発展は平和的環境抜きにしては語れないことは言うまでもない。しかし「平和的環境」は確固たる安全保障によって守られることも自明である。また戦争の惨禍は言葉を尽くせるものではない。であるからこそ抑止力としての軍事的プレゼンスを高める必要が、近年になって急激に高まってきたのである。
こうした日本の復興期に唱えられた『吉田ドクトリン』を墨守した『日本ハンディキャップ論』を小和田恒氏をはじめとする外務官僚がいまだに堅持しているとしたら笑止千万というか、背筋の寒くなる思いがする。その一方で、認識しているか否かは定かではないが『日本ハンディキャップ論』の信奉者が第一次湾岸戦争時に日本がアメリカに拠出した135億ドルをいまだに批判しているのも理解できない。
たしかに現在、時代はひたすら悪い方向に向かっていることは確かだ。だからこそ我々はそれを乗り切る知恵を身に着けなければならない。

雲低く心騒がし冬ざれや   素閑