昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

Tricotage Concertとユトリロとヴァラドン・母と子の物語展を観てきました。

2015-05-30 23:34:52 | アート

久しぶりの予定のない土曜日。
コンサートと美術展の二本立てで時を過ごそうと12時半過ぎに家を出た。
1つ目のコンサート、二本のフルートとチェンバロのトリオソナタの物で、初台のオペラシティ近江楽堂が会場。
先週、山野楽器でチラシをもってきて値段も手ごろなので参考までに行ってみるかと思った次第。
1時半開場の10分前くらいに会場に着いた。
ホールに入ってびっくり。このホールは残響が2.5秒以上あるのではないか?ほとんど海外の教会状態。ぱーんと手を打つとぼわぼわぼわと残響が残る。これでフルートの演奏会が出来るのか少々不安になる。
演奏者の山田芳恵さんと内村知美さんはそれぞれ音大の学部を卒業して、YAMAHAなどで講師をやっておられる。
今日の曲目はバッハ一家作曲のフルート・トリオソナタ。中村恵美さんのチェンバロ伴奏によるもの。
最初はヨハン・セバスチャンから。初めの第一楽章でこりゃあかん、と思った。ソノリテの基礎がまだまだなうえに、ホールの音響で音がなんとか保たれている状態。うわべだけの音がうゎんうゎん鳴っているだけで、とても音楽的な響きとは申せぬものだった。音にキレと輝きと粘りと透明感がない。キレと透明感は、高残響のせいも半分あるが、今後しっかりと、「ソノリテ」からやり直してもらいたい。それに曲の解釈も平板。先生から、バロックはこう吹け、と強く教わったのだろうか。彼女たち、公開レッスンでは、アラン・マリオン、アンドラーシュ・アドリアンなどの一流どころを受けているようだが、どうも音楽的なアナリゼーが出来ているとは言い難い。指は良く動くのだから、音の研鑽とあとは音楽性の追求が課題か?カール・フィリップ・エマヌエルなどバッハ一家でもフルートという楽器を知り尽くしている作曲家の作品の演奏では本当に「もっと音楽を!」と叫びたくなる。
アンコール曲は『G線上のアリア』。シンプルなロングトーンの曲の場合、一層、音楽性が問われるのだが、なんだか電子楽譜の自動演奏を聴いているような感じだった。

さて3時半にコンサートがはねて、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の『ユトリロとヴァラドン・母と子の物語』展に向かう。ここには発表会の準備で大忙しのかーたんも呼んである。
新聞屋からもらったタダ券で、そんなに期待していなかったのだが、ユトリロの『小さな聖体拝領者・ドゥイユの教会』、ヴァラドンの『コキオ夫人の肖像』、『画家ユトリロの肖像』、『自画像』が見られたのは良かった。いずれもそれぞれの画家の名品である。
この二人の画家の奇妙な母子関係は、正常な成育環境が必ずしも芸術的にはプラスに働かないということを示しているのではないか?
『ドゥイユの教会』を見入っているとユトリロの孤独、不安、そして決して得られぬものへの希求、それらが昇華して聖なるものへの洞察へ向かうところが見て取れる。

              

さて、美術鑑賞も終わって、かーたんと、下北沢で久しぶりに肉でも食うかと決めてあったので、新宿から小田急線で下北沢へ。北口の『KENNEDY』へご入店。
まずは飲み放題。男性1200円、女性900円である。この値段ならオカブはアルコールをほとんど飲まないかーたんとでも十分元が取れる。まずはビール。サッポロ黒生。ケネディ・サラダの大鉢一杯のを平らげ、ステーキはオカブがメガ・ジャンボ500g、かーたんがフィレの200g。それぞれ2580円、2980円也。 さすがに500gのステーキを平らげるのはオカブの年になるとしんどい。大藪春彦の小説の主人公になったような気分である。かーたんはこれにデザートも。この女性(ひと)はいくつになっても健啖である。
お腹一杯になった身をひきづって徒歩でご帰宅。9時前だった。エルさんは学校の運動会の打ち上げで朝帰りになる模様。早々に寝ちまった。

夏来るやける舗道の日差しかな   素閑 

                                                  

                                                     

                                               

                                                     

                                                        

                                                      

                                                        

 


わたしの『城』

2015-05-24 10:07:17 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜9時ころに寝て夜半に目が覚めた。
そのまま起きていようと思い、コーヒーを沸かしネットをやっていた。
新聞が届き、朝が明けて、今朝の7時ころ睡魔が襲ってきて二度寝した。
そうしたら夢を見た。
なにやら学校行事で水泳教室のような所へ団体で連れて行かれ、脱衣所で着替える。
水泳が終わり、脱衣所に戻ってくると、自分の着替えが見当たらない。着替えを求めて探し回るのだが、様々な妨害に遭う。辻褄の合わない奇妙な会話。まるで、人格を無視され、慇懃無礼にすべて断られるような扱い。中学か高校の同級生が出てきたような気がする。やっと目的のロッカーが見つかったが鍵が合わない。鍵の合うロッカーにたどり着くとそこには自分の着替えはない。やがて、この脱衣所は男女共用で女子の着替え時間だから出て行けと言われる。そこでも奇妙な人を食ったようなやり取りが行われる。そこで風呂屋の番台のような受付にたどり着いて窮状を訴えたところで目が覚めた。
なんとも後味の悪い夢である。
これと似たような体験をしたことがある。 
カフカの『城』を読んだ後の感覚である。
主人公、Kの目的の城にどうしてもたどり着けない堂々巡りと、周囲の人物との掛け合い漫才のような、しかし一方では不気味な関わりが綴られている。 『城』の出口のない泥沼のような「機構」の囚われ人となった当事者としては、それはまさに不条理そのものであろう。
カフカを壮大なメタファーの創作者として捉えようという論者がいる。
一方、パトグラフィーの観点から、カフカの作品を病的妄念の産物として分析しようという一派もいる。
しかし、オカブはカフカの作品は全てカフカの現実の悪夢の産物であったのではないかと思っている。
カフカは早朝覚醒型の不眠症患者であったことはよく知られている。もしかしたらなんらかの精神疾患に罹っていたのかもしれない。そうした、身体的・精神的状況の中で、現れた、ありのままの「悪夢」を展開したのがあの作品群ではなかったかと。カフカの少なからぬ作品は未完のような形で終わっている。しかしオカブはそれらが「未完」なのではなく、カフカの「夢」がそこで終わったとみるべきと考える。
ただし、オカブはカフカとその作品に対するパトグラフィー的アプローチには賛成しない。それは、新たな手法での「外科手術」である。カフカの作品をそのような無機的なものに還元することは忍びがたい。
オカブはカフカの作品に対する不可知論に与しないけれども、カフカが言うように「私の頭の周りを秘密の烏が飛び回ってることは、誰にも理解できない」という言葉の意味を重く捉えたいと思う。 

一睡の夢にうなされ夏の朝   素閑 

        


銀座→下北沢→『かつ良』で食事

2015-05-23 20:13:50 | 日記

かーたんと銀座へ行ってきた。
なんで金もないのに、銀座などという地に行ったのかと問われれば、銀座の山野楽器で宮澤フルートの無料調整会で手持ちの楽器を、手入れしてもらうために出かけたと答える。
もう、この楽器は40年近く使っていて、とっくに寿命が来ていたと思っていたのだが、リペアの人の言うには、オーバーホールすればまだまだ使えるということ。ただ、オーバーホールの時期はとっくに過ぎているので、できるだけ早く工房に持ち込まなければならないそうだ。オーバーホールの概算は約6万円。思わず膝がへなへなと。
しかし、調整してもらったらいい音が出たのでしばらくはだましだまし使っていくつもりだ。
調整が終わり、かーたんは楽譜さがし。かーたんと楽譜となるとタダでは済まない。
オカブは山野楽器の前の舗道にしつらえられたテラス席でタブレットをいじって暇をつぶす。
さて、銀座での用事が終わって、銀座でぱーっと食事でも、と行きたいところだが、銀座価格の恐ろしさを知っているオカブ一家は、渋谷から井の頭線でぐっと庶民的な下北沢に出て、いつものかつ良 で晩飯にすることにする。
ディナータイムの店を開けたばかりで、オカブたちが最初の客だった。どこでもお好きな席を、と店員に案内されたので、一番大きなテーブルを占領する。
まずはキンキンに冷えた生ビール大ジョッキ。漬物の「ミッバンジャン」を肴にぐびぐび飲みながらカツを待つ。注文は特上ヒレカツ定食と特上ロースカツ定食。特上には突出しの小鉢が付く。筍と里芋とこんにゃくの煮物。遠慮なくいただく。
カツが来る。サクッと上がった上等の肉のカツは最高。美味しくいただく。ビールもお代わりして、楽しい夕餉になった。
ご飯もお代わり、赤だし味噌汁で、たっぷりいただく。
満腹満腹。
お腹をだましだまし、動くのも苦痛という状態の体を引きずって家路につく。

燕みゆそぞろ歩きの銀座かな   素閑 

        

           

        

         


ムッティス・クーヘンでヤウゼ

2015-05-16 05:53:44 | グルメ

土曜の昼下がり、買い物を兼ねて三軒茶屋の西友に行った。
帰りに、代沢十字路のムッティス・クーヘン で、三時のおやつと洒落込んだ。
ムッティス・クーヘンは普通の民家にある、ドイツ菓子のケーキさんなのだが、 最近、庭に張り出したテラスに椅子とテーブルをしつらえて、ケーキと珈琲を楽しめるようになった。
カフェとケーキ屋さんを兼ねた「カフェ・コンディトライ」の多いウィーンでは、ケーキと珈琲の三時のおやつのことを「ヤウゼ」という。「ヤウゼ」とはもともと「粉」という意味のドイツ語なのだが、「粉」を使ったケーキを食べることから、おやつの意味に使われるようになった。ウィーンっ子は街のあちこちにあるカフェで、御馴染みのザッハー・トルテやアップフェッル・シュトゥルーデルンを食べ、珈琲を啜り、ゆったりした午後のひと時を過ごす。
そういう訳で、かーたんとオカブもケーキと珈琲でヤウゼ。
オカブはリンゴのタルトを、かーたんはナッツのドライケーキ。
ゆったりと、庭に訪れる小鳥などを愛でながら珈琲とお菓子を楽しむ。
ここのオーナー兼パティシエのフラウがミュンヘンに長く滞在したことから、話はバイエルン国立歌劇場、オペラなどへ広がる。
小一時間おやつを楽しんで店を後にする。
大変結構であった。

ゆったりと時は流れつ初夏や   素閑 


母の日

2015-05-10 20:13:47 | 日記・エッセイ・コラム

またまた遡るが母の日である。
この日はばーたんが旅行に出かけていたし、エルさんも深夜まで休日出勤だったので、我が家では特になにもイベントはやらなかった。
いつもは、太子堂の洋菓子屋さん『アーモンド』でクリームチョコを買って、バーたんに贈るのだがそれもなし。
オカブは前夜徹夜だったので、昼過ぎまで寝坊。かーたんは教会。教会では母の日のイベントが当然ながら行われた。
今日、母親の役割は、大きく転換している。従来の、家庭を守り、家事と子育てを引き受ける専業主婦から、総合職としてフル・タイムで働き、男並みの収入を得て、すなわち男並みの所得税と社会保障費を払ってくれる存在が期待されている。
しかし、その様態が望ましいのか?小学校教師のエルさんの話によると、明らかにオカブの子供のころと違って発達障害児の比率が多くなったようだ。また、家庭での子供の躾、ケアも十分でないケースが多い。それでかなりな数の児童がまともな学校生活を送れなくなっている。
こうした子供が成長して社会人となり将来の日本を支える立場となったときのことを思うと空恐ろしい。
今の子供は一面、病的な成育環境を強いられている。
それが、母親としての女性の社会進出の弊害ばかりとは言えないが、やはり母親は、子供が一定年齢になるまで子供とともに過ごす環境が自然だ。
そのためには、今のような一律の新卒至上主義、年功序列の労働市場を壊し、どの年齢からもキャリアを磨け、就労できる雇用環境の流動化が望まれる。一方で、母親が育児期間の家庭の収入を確保するため、父親としての配偶者の賃金、税制も大幅に改善しなければならないだろう。
母親の愛は無限である。
深夜に帰宅したエルさんはかーたんに二つのピアスを贈った。

朝寝して頭うつろの母の日や   素閑 

               


わが誕生日なりき

2015-05-06 22:34:21 | 日記・エッセイ・コラム

さかのぼるが、5月6日・・・わが誕生日である。
わが誕生日といっても何にもしない。
それより、自分がもはや50代の後半半ばになったことにショックである。
当ブログをお読みの方はご理解いただいていると思うが、辱知オカブ、至って幼稚なことこの上ない。
不惑を過ぎても一向に成長が見られず、ついに50にして児戯に等しい人格である。
一時アダルトチルドレンという言葉が流行った。クリントンがカミングアウトした奴である。自分もそうなのかもしれない。
5月5日の端午の節句に生まれなかったことが、こんな間抜けな人物像の形成につながっているのか?
まあどうでもよい。残された人生もあとわずかである。せめてこれからは悔いなく生きましょう。
かーたんが、ムッティス・クーヘンでケーキを買ってきてくれ、家族でささやかな誕生パーティーをしてくれた。
感謝この上ない。 

明るき陽青葉揺れつつ哀しけり   素閑

                              


憲法記念日に寄せて

2015-05-03 20:15:22 | 国際・政治

今年も憲法記念日がやって来た。
今年は憲法に関する目立った争点もなかったのか、比較的平穏な憲法記念日だった。
憲法に関する、争点・論点というと「護憲」か「憲法改正」か、ということになる。
オカブも少し前まで「憲法改正」を唱えていたが、今はどうでもよくなった。
今の憲法論議はあまりにもイデオロギッシュであるからである。
もちろん、人はバイアスのかかったイデオロギーから離れられない。
自分自身もバイアスがかかっていることを十分に自覚している。
しかし、その「バイアス」とか「イデオロギー」というものは、一見確固としたものに見えながら、個々人が置かれた環境や、取り入れた情報や社会情勢によって左右される極めて脆弱なものであると言えよう。
だから、戦中から戦後にかけて、「左」から「右」へ、「右」から「左」へと猫の目のように転向者が出たのであろう。
ウェーバーが「ベルト・フライハイト」を主張したのは、「価値観」という呪縛からの自由というよりは、こんないい加減なものに左右されるなという訴えかけのように思えてならない。
「日本国憲法」の中の最大の争点である九条も極めてイデオロギー論争的な場で議論されている。一方で「自民党憲法草案」も内容の稚拙さは措いておいて、一方的価値観を露骨に前面に出した実に政治的なものであった。
集団的自衛権も、安全保障という観点から必要な政策ではあったが、イデオロギー論争において「悪」とされ、安全保障の確保のための技術的問題が価値観の争いに置き換えられてしまった。しかし、あの解釈改憲を閣議決定したのはまずかった。現行憲法の縛りという点からは、現状の武力の保持、すなわち自衛隊も、もちろん集団的自衛権も違憲であるのは明白である。堂々と改憲を訴え、国民の議論を待つべきであった。
しかし、われわれ一般庶民が憲法への思考を停止してしまってはいけない。
立憲は国民の最大の政治的権利である「参加」の根幹をなすものである。
要はこの日本国は国民が造り上げたという証左を成すものである。
しかし、現行憲法の縛りの中では、現行憲法を改正することも、新憲法を制定することも事実上「出来るわけがない!」のである。
日本人の政治意識の低さはこのあたりから来ていると言えなくもない。
しかし、「護憲」「改憲」双方の立場から憲法を議論することは、選挙以上に重要な国民の参政の基本的機能である。
そして、それは現行憲法の意義の議論を含めて、改憲の意義をも対象にしなければ無意味である。「日本国憲法」は他国の物と比較しても、「憲法」としては非常に完成度の高いすぐれた憲法であるとオカブも認める。惜しむらくはその制定時に国民的議論がなされず、政体の根本を国民自らが選び取るという歴史を逸してしまったことである。
だから、イデオロギーでギトギトになった九条を議論することはさておいて、手続法である九十六条を「議論すること」の正否を「議論すること」から始めてはどうだろう?
「護憲」の立場も理解したうえで、憲法が「不磨の大典」であってはならない、というのがオカブの立場である。

世の中の喧し憲法記念の日   素閑 

 


5月になりましたね。

2015-05-01 21:49:52 | 日記・エッセイ・コラム

5月になった。
ついこの間まで寒い寒いと言っていたら、真夏のような初夏が来た。
オカブ商会は毎年、5月1日は休業としている。
メーデーだから?ん、俺ら労働者だっけ?違うよなあ。でも、資本家?ハハハハ!
なんだかんだ言って、連休中は少しでも休んでいたいから。
そんなわけでお休みの中、かーたんと三茶に出かける。
ちょうどお昼時で、お腹が減っていたので、いつもの『きゃんどる』でランチ。
ローストポークと鰆のポワレの日替わり定食。セットで1,000円也。
いつもと違って豪遊しようということになりドルチェも頼んだ。二種盛780円也。
話題はエルさんのこととなる。エルさんは昨日も祝日であるにもかかわらず出勤。連休中も2日は出勤だそうな。この子は学生時代から、本当に怠慢な子だったが、社会人になったら驚くほどよく働く。しかし、一方で能力不足で、生産性、効率が上がらないという点も否めないのだが。
『きゃんどる』を出て、かーたんの夏物の衣類を『しまむら』で買う。締めて18,520円也。痛いねえ。しまむらでも。我が家はしまむら~であるが、しまむらでも結構高いと感じる。
世田谷通り沿いの時計屋さんに腕時計の電池を替えてもらいに行く。
もう20年以上前に買ったオメガシーマスターだが、まだ十分使えている。やはり物がいいほうが最初は出費がかさんでも経済的だ。ただメンテナンスに多少金がかかる。時計屋さんに、次の時は正規代理店にオーバーホールに出したほうがいいですよ、と言われる。
少し、お茶でも飲んでいくかというので、キャロットタワー26階、『スカイ・キャロット』でオカブはスパークリングワイン、かーたんは珈琲と菓子パン。
陽がまださんさんと照る中家路についた。

メーデーの燦燦のなか人賑わい   素閑