サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

クリシュナ物語(26)

2016-07-16 00:00:45 | 日記
ポニョ:前回の話はちょっとひどかったぜよ。おいらはアルジュナって英雄のように思っていたけれど、こんな一面があったんやな。ちょっとがっかりしたぜよ。エーカラヴィヤ君が可愛そうやぜよ。

ヨシオ:エーカラヴィヤは指を切り落とした事を別に気にしてないんや。自分の無くなった親指を見ながらこんな小さな事はエーカラ、ヴィヤっと血が吹き出たぐらい気にすんなって言ってたんやて。

ポニョ:そんな事を言ってないでしょう。

ヨシオ:エーカラヴィヤって、それほど大きな心を持った偉人やったんやろな。

ポニョ:あのね、それってアドバンスやけれど、めちゃ苦しいダジャレですよ。さて前々回お約束した通り、 今日はババが御講話で述べられたアルジュナとクリシュナとの友情のお話を二回に分けてお送りしますね。

ヨシオ:今日御紹介する御講話の中で俺が面白かったのは、以前二羽の鳥の話をしたやろ。それに関する話が出て来るんや。

ポニョ:二羽の鳥って、一羽がエゴを持っている鳥で、その横にエゴを持っていない相棒鳥がいるっていう話やったよな。

ヨシオ:そうそう。そのいつもエゴを持っている鳥を見ているもう一羽の鳥は、ただ見ているだけでで何もしないんやけれど、もう一羽のエゴを持っている鳥に、いつもエネルギーを送り続けているんや。つまりエネルギーを送れる本当の実体のある鳥は、横でいつも見ているだけの目撃者である実体鳥なんや。その鳥は自分の相棒鳥が少しでもエゴを無くして行ってくれたらええなと思って、いつも一緒にいるんや。そしてエゴ鳥がエゴを無くした瞬間、二羽の鳥は一羽の鳥になってしまうんや。そして、その実体鳥はエゴ鳥が疲れたりして眠ってもまだ、相棒の横にいて決して眠らず、相棒を見守っているんや。そのエゴ鳥が私、とか私のものという意識を持っている限り、自分に関する事しか興味が無いけれども、もう一羽の鳥は常に目覚めていて、常に相棒を見守っているので全ての事を知っているんや。そういう事をこの講話で言われていたな。

ポニョ:おいらは、自分がポニョだと思っている限り、ポニョなんやな。早くいつも横にいる実体鳥さんのようになりたいな。でもいつも見守ってるって、おいらのプライバシーが侵害されているぜよ。人の事はほっ鳥。

ヨシオ:一人でさっきから何をゴチャゴチャ言ってるんや。

スネーハとは、『バーガヴァタ』や他の聖典によれば、九段階あるバクティ(信愛)の八つ目の段階とされています。スネーハは通常「友情」という言葉に訳され、このように訳されてしまうと、人間同士のある種のはかない関係に当てはめられてしまって、この言葉の本当の意味が失われてしまい、スネーハという言葉は俗化されてしまいました。

友人というものは、そのほとんどが、世俗的で一時的な興味に基づいた、さまざまな理由や事情によってできるものです。財産が豊富にある人は友人もすぐにできます。大勢の取り巻きがいる人や、世話好きな人も同様です。権力を持っている人にも友人は集まります。むろん、そうした友人は、好天の間は留まりますが、権力が衰えれば姿を消します。友情の多くは損得勘定に基づいたものであり、利が得られる間だけ存続します。これは、「池の水が多いときには蛙も多いが、水が枯れれば蛙一匹の鳴き声すらも聞こえない」という諺にもあるとおりです。

友情は、霊的な結びつき、お互いの完全な理解と純粋な献身に基づいた、心と心の関係であるべきです。学生諸君は、偽物の短い友情を警戒しなければならず、挨拶と握手によって単純に連れ去られてはなりません。相手の動機が純粋で、利己的でなく、霊的なものであるとわかるまで、誰とも親密な友情を育ててはなりません。

正真正銘の友情は、一つのアートマン(真我)と別のアートマンの間、言い換えるなら、どちらもが自らの存在の核心はアートマンであると認識している者同士の間でのみ、成立可能です。シャラナーガティ(全託)あるいはアートマニヴェーダナ(神への献身)という最終段階の前の、最後から二番目の段階と言われている純正のスネーハを、ささいではかない俗人の友情の中で得ることはできません。つまり、地上のどこにおいても得ることができないのです。

アルジュナとクリシュナの間には、この純正のスネーハが存在しました。アルジュナはクリシュナを自分のサカ(友)と見ていました。それゆえ、遊んでいるときや休憩しているとき(ヴィハーラ)、座っているとき(シャイヤーサナ)、食事をしているとき(ボージャネーシュ)、アルジュナには冗談交じりに無礼な言葉を使う大胆さがありました。二人はよく同じ皿の食事を食べ、どんな状況においても互いに助け合うという心構えでいました。
アルジュナは知らず知らずのうちにクリシュナに制圧されていた、などという印象をもっていてはいけません。アルジュナは人格的にも成熟しており、ヴェーダの知識も豊富で、強力な武人であり、勇気と英雄的資質に満ちた射手でもありました。クリシュナはプルショーッタマ(至高の存在)で、アルジュナはナローッタマ(最善の人間)でした。それは、至高なるものの化身と最善なるものの化身の間の友情でした。クリシュナはアヴァター(神の化身)たる人物であり、アルジュナはアーナンダ(至福)に満ちた人物でした。それは、アヴァター ムールティ(神の化身の具現)とアーナンダ ムールティ(アーナンダの具現)が一緒になった友情でした。

アルジュナは、しばしばクリシュナから「クル ナンダナ」と呼ばれていました。この名前には深い意味があります。「クル」には「行為、活動、カルマ」という意味が、「ナンダナ」には「幸せな、喜んでいる」という意味があります。それゆえ、「クル ナンダナ」は「行為に携わっているときに喜ぶ者」という意味になります。アルジュナは、『バガヴァッド ギーター』の全十八章を通じて、油断なく、積極的に、注意深く、すべての問答に受け答えしていました。

あるとき、クリシュナはアルジュナに尋ねました。

「君はいくつだ?」

アルジュナは答えました。

「70歳です」

するとクリシュナは言いました。

「アルジュナ、私がいくつか知っているか? 75歳だ!」

ビーシュマはその時、113歳でした。その年齢で、ビーシュマはクルクシェートラの戦いでカウラヴァ軍の総司令官として仕えたのです。そんなことが今の時代に考えられますか? 当時、人々は長生きでした。

心が定まらず揺れ動いているとき、逸脱が存在します。あるとき、クリシュナはアルジュナに小言を言いました。

「私は君にギーターを説いて、多くの霊的な助言を与えた。ところが、君は何も覚えていない。それがなぜだかわかるか? それは君が私の教えを重要なものと考えていないからだ。君は私の教えに無関心で、だから私が説いたことを全部忘れてしまったのだ。重要だと思っていたら、私の教えをすべて覚えていたはずだ。君は、君と私が多くの生でいっしょだったことも忘れている」

アルジュナは申し訳なく思い、へりくだって尋ねました。

「主よ、あなたがすべてを覚えていて、すべてを思い出せるのに、どうして私にはそれができないのですか?」

本当の君、すなわち、内在者は
つねにすべての状態において目覚めている
起きている状態であれ
夢を見ている状態であれ
熟睡している状態であれ
内在者は忘れることを知らない


一方、君はタラカの状態、すなわち、完全な意識のうちの一つではなく、麻痺の一つであるタマスの状態にある――アルジュナは途方に暮れて尋ねました。

「主よ、どうしてそのようなことがあり得るでしょう? 私はそれほど鈍ってはいません」

クリシュナは微笑んで答えました。

「そうか? では、言ってみなさい。私たちはずいぶん長い間いっしょにいるが、君は事のすべてを覚えているか? 君は覚えていない。ところが君は自分の誕生日は覚えている。スバドラーと結婚した日も覚えている。その結婚式が何十年も前に挙げられたにもかかわらずだ。アルジュナ、君は去年のマールガシールシャの月〔11月ごろ〕のチャトゥルダシーの日〔14日目〕にどこにいた?」

意気消沈したアルジュナは、

「覚えていません」と答えました。

クリシュナは続けました。

「君は50年前に挙げた自分の結婚式の日は正確に思い出すことができるのに、ほんの去年の特定の日のことは覚えていられないのだ! これは、揺れ動く心に因をなす、忘れやすいという人間の傾向を反映している」