命日

2009年04月14日 | 雑感 -

昨日、体調が芳しくなかった。
会社へ向かう電車で、人身事故に遭遇して、90分ぐらいの立ち往生!
「都会の電車通勤」にはめずらしくもないが・・・
昨日は、本当に疲れていた。
会社の方が近かったのに、そのまま家に引き返して、今日はお休みした。

今日は、父の「命日」だ。

時間が経つのは、本当に早いけれども、父を亡くしたときの感情は、
私の記憶から消えることはない。

お彼岸あたりには、想いが四国にあった私も、正直に言うと、
昨日は「命日」をすっかり忘れていた。

身体が疲れ、心がそれに呼応するかのように、疲れていって・・・
仕事をするということに意味をもたない価値観が、私の中に芽生えた昨日は、
“ただ、だらだらと生きた一日だった”。
そういう日は、いつも哀しい気分が追いかけてくるものだ。
それで、自然と、父のことが思い出された。

不思議なものである。

こうして、今日の「命日」を思い出した。
先週はしっかりと認識していたのに、不思議なものである。
いつも一緒ではあっても、こうした流れで弔うこともあるのだと・・・
あらためて“じんわり”と、父の存在感を感じている。


私は、どんな場所でも、老人をみると複雑な気持ちが沸き起こる。
目で追いながら、「大丈夫だろうか?」と勝手に慮ってみたり・・・。
それは、私の心の習慣のようになっているみたいだ。
しかし、その感情や行為について、はっきりとしていることは、
子どもの頃に教わった「お年寄りを大事にしましょう」という質感のモノとは、
全く違うモノであると感じている。

都会での生活環境の設備は、まだまだ老人や障害者には、完全とはいえない。
まして、昨日のように、駅で立ち往生してしまうと・・・杖をもった高齢者には、
厳しい現実となる。アナウンスされる情報は、不確かで、不安をあおるもので、
実際には事実と交錯してしまうし、とにかくハウリングして聴き取りづらい。
明らかに一人で困っているようだったし、「発車」を告げられた混雑した電車が、
一向に発車しそうもない。その繰り返しである。
杖をもったおじいちゃんは、困惑しながら、関係ないポスターを見だしたりした。
勿論、座る場所もない。
それだけで、そういう現実を見るだけでも、私の心は疲れてしまうようだ。
その人たちからは、「大きなお世話よ~」と思われそうだけれども・・・
しらんぷりができないのが、今の私の長所でもあり、短所でもある。

この私をやりこめるには、「高齢者」が一番かもしれない(笑)。
今日が、父の「命日」だからではないが、本当にそう思う。


ところで・・・
あの世では、父は元気にしているのだろうか・・・。
おばあちゃんと会って、喜んでいることだろうなぁ。
あれだけ恋しがっていた「愛ちゃん(母)」とは、会えたのだろうか・・・。



もう私の部屋から見える景色は、美しい緑の芽吹きがはじまっている。
枯れ木のように、はだかんぼうだった木々が、緑の葉っぱをまとっているのだ。
美しい「緑」というよりも、もっと薄くて、やわらかい「ミドリ」。
新緑の季節は、やはりたとえようもないくらい美しい。
生命力を感じさせる。