ターボの薩摩ぶらり日記

歳時記を念頭において

2010年03月31日 | 俳句雑考

電線に鶫がとまっていた。画像は29日、鹿児島市上福元町で写す。

   鶫死して翅拡ぐるに任せたり     誓 子

野鳥が貴重な蛋白源だった時代の吟詠と思う。


草芳し

2010年03月30日 | 俳句雑考

春の日差しを浴びながら、木之下川沿いの道をさかのぼった。
やがて舗装が尽きて、青草に覆われた道に変わった。画像は29日、鹿児島市上福元町で写す。

   野辺の草草履に踏めば芳しき    子 規

歳時記によると「草芳し」が春の季語。


野牡丹

2010年03月29日 | 俳句雑考

民家の庭に野牡丹が咲いていた。花びらにだけ雨滴が残っていた。
画像は28日、鹿児島市谷山中央で写す。

   野牡丹の古代紫たぐひなし    播 水

今後、古代紫と聞くと雨に濡れた野牡丹が思いうかびそうだ。


水芭蕉

2010年03月28日 | 俳句雑考

民家の玄関わきに水芭蕉が咲いていた。画像は4日、鹿児島市谷山中央で写す。

   水芭蕉苞は子を抱く母に似て     節 子

広辞苑によると、水芭蕉の苞は仏炎苞というのだそうだ。


稲荷

2010年03月27日 | 俳句雑考

数日ぶりに太陽のひかりを浴びた。
慈眼寺の森の稲荷のあたりは人影がなく、聞こえてくるのは滝の音だけだった。画像は26日に撮影。
   
   稲荷よりもどりし父や冷し酒    嶌 岳

肴は油揚げか。


こでまり

2010年03月26日 | 俳句雑考

雨あがりの民家の石塀の上に、こでまりの花が咲いていた。
画像は25日、鹿児島市谷山中央で写す。

   こでまりや上手に咲いて垣の上    嵐 弓

垣に咲く花をいろいろ見比べての結論と思う。


放鶏

2010年03月25日 | 俳句雑考

鶏が放し飼いになっていた。薩摩の地鶏かどうか、これまでに生きているすがたは見ていない。
画像は22日、鹿児島市平川あたりで写した。

   臼の蔭に鶏交む日向かな    朝 叟

永き日の一瞬の出来事。


花見

2010年03月24日 | 俳句雑考

さくらの下、若者が携帯電話のカメラで、乙女の写真を撮っていた。
画像は22日、鹿児島市平川で写す。

    二日灸花見る命大事なり     几 董

二日灸が季語と受けとった。こじつけかもしれないが、歳時記には「花見」は載っているが「花見る」は載っていない。


2010年03月23日 | 俳句雑考

一部が改装された動物園は、休日とあって賑わっていた。
とくに親子連れで混んでいる場所があったので、のぞいてみると、兎にさわってもいいのだった。
画像は22日、鹿児島市平川で写す。

    春日差親に抱かれて兎抱く   信 子

省略されている主語は嬰児、と説明するのは蛇足と思う。


ブラジルの国花

2010年03月22日 | 俳句雑考

民家の門わきの木に黄色い花が咲いていた。すぐに昨春、主婦から教えてもらったブラジルの国花イペーだと思い出した。
画像は20日、鹿児島市谷山中央で写す。

   南米の花すくすくと薩摩の春

引用句を求めて歳時記をめくったが、探し出せなかった。


春眠

2010年03月20日 | 俳句雑考

高台から眺めた桜島は、煙を吐いていなかった。
画像は19日、鹿児島市上福元町で写す。

   火の山も春眠の刻かへりなん

桜島を眺めているうちに、あくびがでてきて、帰って寝たくなった。


渓流に沿って

2010年03月19日 | 俳句雑考

慈眼寺の渓流沿いの小径を歩いた。画像は18日に写す。

 若楓


   若楓径をおほひて明るけれ      年 尾

楓の木のあたりは初夏のように明るかった。

 渓の音


   万緑に抱かれて渓の音弾む     嘉 幸

雨の日が続いたせいか、渓流は水量が豊かだった。

 花八分

   死支度致せ致せと桜哉   一 茶

桜は満開にみえたが、桜守によると八分咲きだった。作者がながめていたのは満開の桜と思う。


底意

2010年03月18日 | 俳句雑考

木之下川の枯れた枯葎に翡翠がとまっていた。画像は13日、鹿児島市谷山中央で写す。

    翡翠のとばざることの底意あり    爽 波

作者は翡翠の底意をはかりかねていると思う。


2010年03月17日 | 俳句雑考

  落花

ビルの前庭に真紅の花びらのようなものが散らばっていた。画像は14日、鹿児島市谷山中央で写す。

 満開

仰ぐと満開の庭木が見ごろだった。帰宅していろいろ調べてみたが、何の木か判らなかった。

   何の木の花とは知らず匂ひかな    芭 蕉

歳時記では花といえば桜の約束になっているようだが、より文学的、詩的なことばであり、梅や桃、椿などにも、さらに植物以外のはなやかなものにも変幻自在にすがたを変えるという説がある。