池に鴨が泳いでいた。画像は28日、市来串木野市で撮す。
池に浮く鴨もそぞろや草萌ゆる たかし
北帰の時期が迫って鴨が落ち着かなくなってきた、と解釈して、念のため広辞苑で「そぞろ」を引くと、七つの意味があって、七番目に「気持ちが落ち着かないこと」と載っていた。
一番目の意味の「何となく心のすすむさま」にしたがって「万物が動き出し、鴨の動きも積極的になってきた」と解釈してみたが、まだ五つの意味が残っている。
池に鴨が泳いでいた。画像は28日、市来串木野市で撮す。
池に浮く鴨もそぞろや草萌ゆる たかし
北帰の時期が迫って鴨が落ち着かなくなってきた、と解釈して、念のため広辞苑で「そぞろ」を引くと、七つの意味があって、七番目に「気持ちが落ち着かないこと」と載っていた。
一番目の意味の「何となく心のすすむさま」にしたがって「万物が動き出し、鴨の動きも積極的になってきた」と解釈してみたが、まだ五つの意味が残っている。
緑萼梅
路傍に野梅が咲きはじめていた。緑萼梅だった。
画像は28日、市来串木野市で撮す。
探梅のわれを見つけてくれし梅 鷹 夫
緑萼梅は探梅をあきらめた直後に見つけた。
菜の花
やはり路傍に、枯れきった草花と一緒に一叢の菜の花が咲いていた。
被写体のピンボケ花菜ハレーション 良 一
被写体は佳人だろうか。
薩摩に住みついてから2年半になるが、はじめて飼猫を捜す貼紙をみた。
こちらでは人と猫の距離が、関西や関東より離れていると感じている。
画像は24日、飼主の住む鹿児島市谷山中央から1,2キロ離れた和田で撮す。
白日に晒されてゐてうかれ猫 芒 子
谷山中央から消えた猫は、いまごろ和田で浮かれているのだろうか。歳時記によると、恋猫とうかれ猫は同じ猫。
甲突川の磴に鳩が集まって、日向ぼこをしながら川面をながめていた。
画像は22日に写した。
しやぼん玉磴を一段づつ降りる 克 己
数多くのしゃぼん玉が磴を流れ降りていくなかで、一段ごとにひとつずつパチッと消えたという叙景句だろうか。
しゃぼん玉をながめているうちに作者はこころが若やぎ、つれて体力も若返って、一気に磴を降りたという句意だろうか。
22日、甲突川の遊歩道でロケットを撮る前は、枝上の雀に似た小鳥を視たり撮ったりしていた。
雀だとしたら、これほど眼がぱっちりした雀は見たことがないと考えていた。
枝には桜の蕾が点々、というより粒々に育っていた。
初桜蕾したがへ楚々として ともえ
多姉妹の長女のように。
甲突川の歩道をカメラを提げて、小鳥の声を眼で追ってきょろきょろしていると、初老の紳士から声をかけられた。
「2時37分、もう間もなくですね」
「?」
「撮りに来られたのでしょう?」
「?」
種子島から打上げるH2Bの写真を撮りにきたのかと、勘違いしたのだった。
あわてて前に進み、ロケットを撮って液晶画面で結果をみると、川を前景とする写真はみな失敗だった。
舌を打ちながら戻ると、ベンチに座っていた媼から,注意された。
「ここに踏みとどまって撮れば、川も写せたのに」
といった意味の薩摩弁だった。
画像は22日、鹿児島市の甲突河畔で写す。
ロケットや鉄の兎のひとっとび 聡 雄
打上げ現場での属目吟と思う。
民家の庭木が二輪の白梅を咲かせていた。画像は21日、鹿児島市和田で撮す。
晩成といふはなかなか梅寒し 純 一
大器晩成を標榜しながら、なかなか達成できないものだ、という句意だろうか。寒中に凛と咲く梅を見ながら、寒い寒いを連発する自分を省みての自嘲句。
辞書には「なかなか」についていつかの意味があるので、もっと正鵠を射た解釈があるかもしれない。
廃屋の撤去作業がおこなわれている路地に、骨董類が集められ、そのなかに賞状が含まれていた。
神武天皇即位紀元二千六百年を記念して、明治勲章八等に叙せれた賞状だった。画像は18日、鹿児島市谷山中央で撮す。
我と我が叙勲の額の煤払ふ 夏 雄
歳時記によると、煤払は新年を迎えるために、一年間の煤を払って家屋内外を清めること。
作者はわが身とわが身のつぎに大事なものしか、清めなかったのだろうか。