ターボの薩摩ぶらり日記

歳時記を念頭において

手紙は大切

2005年06月30日 | 俳句雑考
印西市原の瀟洒なマンションにそって、くちなしの花が咲いていた。雨のなか、よい香りがしたので、咲いていることに気がついた。
実が熟しても口をひらかないから、この名になったという。画像は29日に撮す。

  くちなしの花はや文の褪せるごと  草田男

いつから咲いていたのか、ことしはじめて見たのに、もう色褪せた花があった。
17日の日記の「あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ  多佳子」とともに引用句を味わうと、むかしは手紙は大切に保存されたのだとわかる。「丸めて屑籠へぽい」などと書いたのは、不謹慎だった。

6月5日に巣づくりをはじめた草深の燕の巣では、まだ雛が孵らない。

父は裸馬

2005年06月29日 | 俳句雑考
公園でサッカーを楽しんでいる少年たちが、そのうちシャツを脱いで裸になった。画像は25日、印西市西の原公園で撮す。

  今日も子の馬父われは裸馬    鴻 村

戦後すぐ、みんな貧しかったころ、子に玩具を買い与えられなかったので、馬役になって背中に乗せて遊ばせたのだろう。クーラーなどないから、暑い日は裸になって。
もたもたした叙法は、もたもたした馬の歩みを暗示していると思う。汗だくになったかもしれないが、父子のスキンシップは十分にはかられたにちがいない。





白はさびしき

2005年06月28日 | 俳句雑考
マンション脇で沙羅の花が咲いていた。俳句では夏椿としてもよく詠われている。
画像は26日、印西市西の原で撮す。

  葉の色に白はさびしき夏椿    晴 子

同じ椿の一種で冬に咲く侘助と、夏椿は雰囲気が似通っているのだろうか。
夏椿、というよりは沙羅の花と思って仰いでみると、たしかにさびしい感じがする。平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」の一章が念頭にあって、無常観におそわれるのではないか、とも考えた。
きのう「緑を背景にすると、白いものは存在感が増すと思う」と書いたばかりなのに、引用句に出会うと、強烈な反論に見舞われたのかと、たじたじとなってしまった。
ところが調べてみると、釈尊涅槃の沙羅双樹と、歳時記の沙羅の花とは似て非なるもの、という有力な説があって、頭が混乱してしまった。

緑中の白

2005年06月27日 | 俳句雑考
印西市草深の感応寺は、僧房がないのに日中はいつも開扉され、境内は帚目の跡が絶えない。
大きな2本の公孫樹の緑蔭には、白いベンチが置かれ、腰掛けると心身ともに涼しくなる。画像は25日撮す。

   緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的  しづの女

緑を背景にすると、白いものは存在感が増すと思う。
「萬緑の中や吾子の歯生え初むる  草田男」も、歯の白さが鮮明に脳裏に浮かぶ。引用句の射手は的が絞りやすくなって、文字どおり正鵠を射ることができたのだろう。

片蔭をゆく

2005年06月26日 | 俳句雑考
急に暑くなったが、印西市大森の北向地蔵を再訪した。梅雨どきとは思えない強い日差しなので、ながい坂は片蔭を選びながら、自転車を押して登った。ありがたいことに、片蔭は最後までつづいた。
地蔵は同じ装いだった。老女とまた偶然に会ったようにして、いろいろと話のつづきを聞きたかったが、残念なことに人影はなかった。画像は24日撮す。

  片蔭をゆき中年を過ぎにけり  風三楼

片蔭がこんなにありがたいとは、もう歳だなと自認せざるをえない句境が、ひしひしと伝わってくる。

コスモスの気まま

2005年06月25日 | 俳句雑考
別名が秋桜というように、コスモスは秋を代表する花のひとつと思うが、もう咲いていた。それも一輪、二輪の狂い咲きではなく、咲き競っているという感じだった。
画像は24日、印西市別所で撮す。

  コスモスの気ままや予後の束ね髪    釉

まだ体力が恢復しきっていないので、気ままに暮らしており、髪も束ねるだけにしている、という日常吟と解釈した。
コスモスはギリシャ語で調和や秩序のこと、といわれているが、ことしの咲き方は気ままな感じがする。

青ではなく紅に

2005年06月24日 | 俳句雑考
一週間まえの16日付日記「白に始まる」に書いた紫陽花を観に行った。
当日の日記には「紫陽花は白に始まって青、紫、淡紅と色が移りゆく」と、歳時記の解説をそのまま書き写したが、純白だった花は青ではなく、ほんのりと紅がさしていた。画像は23日、印西市高花で撮す。

  生涯のいま紫陽花のうすあかり   ゆ き

ながい間辛抱した甲斐があり、吉兆があってこれからは、いろいろといいことが期待できそう、という心境句と解釈した。

そのあと、草深の燕の巣を観に行った。
まえにカメラのフラッシュを焚いため、嫌われているのが分かっているので、10メートルほど離れたところで眺めていると、突然、燕が巣から飛び発った。
だんだんと嫌われる一方か、と落胆する暇もなく、もう一羽が現れ、空中で二羽が嘴を合わせた瞬間にすぐ離れ、一羽が巣に戻り、もう一羽は飛び去った。
巣のなかで卵を抱いていた燕が、飛び出して連合いから糧を受けとり、また巣に戻ったということらしい。

北向地蔵

2005年06月23日 | 俳句雑考
印西市大森のながい坂を登りつめたところに、大きな地蔵が建っていた。長雨に備えた合羽を着ており、新鮮な林檎、バナナ、キウイ、菖蒲のほか、名前を知らない切り花が供えてあった。
蓮華座の銘文が判読できなかったので、近くで草むしりしていた老女に訊くと、
「こわい地蔵さあだね」
大切にしてやらないと、顔にできものができるという言い伝えがあるのだそうだ。北を向いているから、いじわるな性格なのだという。
「そんな告げ口をすると、聞き耳をたてていて、あとで仕返しされる心配はないですか」と、むだぐちを叩くと、老女はあわてて手で口を抑えたりはしないで、逆に口を大きくあけて笑いながら、
「北むいてるから、聞こえねべ」
地蔵を手篤く祀っているのは、老女ではないかと、ふと思った。画像は21日に写す。

   義士祭や北向地蔵にも回向   峠

義士祭は例年、赤穂浪士討ち入りの日に赤穂市の大石神社、自刃の日に東京の泉岳寺でひらかれ、忌を修すといわれている。
引用句は、吉良上野介のようないじわるな地蔵は、大切にしてやらなくてもよく、回向もいちばん最後でよろしい、という句意だろうか。
   

夫婦の足なみ

2005年06月22日 | 俳句雑考
夫婦が協力して温床を張っていた。ふたりが端をひとつずつ握って、ひろげていく手作業はよくみかけるが、機械化された作業をみるのは、はじめてだった。
手作業よりたいへんそうであり、二人三脚のように歩調を合わせて後ずさりしないと、すぐにビニールが歪んでしまう。何回もやり直しながら、慎重に作業をすすめていた。
もっとも、手作業のほうは腰痛を患っていてはむりであろう。
温床、フレームは冬の季語になっているが、このあたりではこの時期に、落花生向けに張る作業をよくみかける。画像は20日、印西市草深で写す。

   フレームのため息のごと曇りをり   野生子

内外の温度差のため曇ったのだろうが、閉じこめられた苗のため息によって、曇ったように感じられたのだと思う。

鍬形の闘い

2005年06月21日 | 俳句雑考
男の子が3人屈んで騒いでいた。膝を折って覗くと、鍬形と甲虫を闘わせているのだった。
観察しているうちに、闘っているのは画像の右の鍬形だけで、組み合っている甲虫と、左の鍬形は闘わないことがわかった。
こどもたちの説明によると、闘わないのはおもちゃだからであって、生きた鍬形はおもちゃの鍬形とは闘うが、おもちゃの甲虫には逃げたがるとのことだった。画像は20日、印西市の西の原公園で写した。

  白馬山麓少年と鍬形と   晴 子

「峠をこえたふたりの夏」(三輪裕子著)の少年ユウキは、山で台風に遭っても、足手まといの鍬形を守りぬくが、台風が去って里へ向かうとき、別れを惜しみながら山に戻した。   

ざりがに

2005年06月20日 | 俳句雑考
幼いふたりは身なりから判断して、姉と弟にみえたが、兄と妹だった。立ちどまって小川をのぞくと、女の子が、
「おにいちゃんは、すごいんだから。もう二匹もざりがに釣ったんだから」
と、兄礼讃の声をあげたので判った。すこし離れたところで、父親らしい人物が目を細めてふたりを見守っていた。バケツをのぞくと、ざりがにが一匹入っていた。画像は19日、印西市草深で撮す。

   ざりがにを釣る花の間に糸垂らし   恵 子

ざりがには歳時記に載っていないので、引用句の季語は花、水面に浮いている桜の花びらであろう。

梅雨晴間

2005年06月19日 | 俳句雑考
きのうは午後からひさしぶりの梅雨晴間だった。
印西市の北西の原公園の三本の泰山木がいずれも花を咲かせていた。写真はそのとき撮った。

   二階の灯とんで泰山木の花    加 賀

点灯の瞬間と思う。泰山木がちょうど二階と同じ高さなので、ライトアップ効果が映えたことだろう。

そのあと草深の民家の燕の巣を見に行った。巣上に燕がいたが、閃光を厭うのがわかっていたので、カメラは取り出さずにそっと近づくと、飛び去った。先日、フラッシュを五回も焚いたので嫌われてしまったらしい。
すこし離れて眺めていると、十分くらいたつうちに、戻ってきて巣上にとまり、熱い風呂にでも入るときのように、ゆっくりとなかに入っていった。慎重に卵を抱きはじめた感じだった。

芋の葉の構造

2005年06月18日 | 俳句雑考
芋の葉構造の化繊で雨傘やレインコートをつくれば、売れそうだという企画をむかし、聞いたことがある。
樹脂加工をほどこさなくても、撥水効果が得られるので、みごとな発想だと感心して聞いたが、後日談は知らない。写真は16日、印西市高花で撮った。

   芋の葉の夜露おもたくなりにけり  霄 子

水原秋桜子の『「自然の真」と「文芸上の真」』に拠って、画像の雨水を露に置き換えても許されるだろうか。我田引水だと非難されるだろうか。

白に始まる

2005年06月17日 | 俳句雑考
紫陽花は白に始まって青、紫、淡紅と色が移りゆくから、七変化、八仙花とも呼ばれる。写真はきのう印西市高花で撮す。
傘をさそうかどうしようかと、迷うような目に見えない小雨が降っていた。

   あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ  多佳子

一日で手紙が色褪せるはずがないから、文面が古くさくなったように感じたのであろう。一夜明けて冷静に読み直してみると、歯の浮くような美辞麗句ばかり、丸めてぽいと屑かごに投げ捨てたかもしれない。




鞦韆は漕ぐべし

2005年06月16日 | 俳句雑考
女の子が両足をきちんとそろえ、膝をすっきりと伸ばして、初夏の日差しを浴びながら、勢いよくブランコを漕いでいた。写真は13日、印西市西の原の公園で撮す。
ブランコは公園に行くといつでもあるが、春の季語になっているのは、中国でむかしから春の遊戯だったかららしい。鞦韆、ふらここ、半仙戯などの別名がある。

  鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし  鷹 女

北総の代表的な俳人鷹女の代表的な俳句として、人口に膾炙されているが、どういう句意だろうか。有島武郎の評論「惜みなく愛は奪う」を読んでいないので、解らないのだろうか。
そうではなく、読んでいなくても、愛についてふかく考えたことがあれば、句意は理解できるのではないだろうか。武郎を読まない引用句フアンは多いように思える。