磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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戦争を知らない世代へ6 沖縄編沖縄戦-痛恨の日々-

2009年04月21日 | 読書日記など
『戦争を知らない世代へ6 沖縄編沖縄戦-痛恨の日々-』
   創価学会青年部反戦出版委員会・編/第三文明社1975年

「発刊の辞」が書かれてあります。下「」引用。

「昨年六月二十三日「沖縄終戦の日」を記念し、反戦出版第一集として『打ち砕かれしうるま島』を発刊した。それに対し各界から種々の反響が寄られた。とくに沖縄全島の中学、高校、大学への贈呈に各校とも反戦教育の立場から賛意を寄せていただき、編集メンバーは一層心強く思っている。沖縄大学々長の新屋敷幸繁氏からは、三十人の女性が筆をとっているところから「女性の手に成る『沖縄戦平家物語』である。……何物をおいてもこの書物から読んで下さることを、世界中の人に呼びかける所以である」との賛辞をいただいた。こうした賛辞と期待に励まされ、第二集の準備がすすめられた。-略-」



昭和17年の伊江島の飛行場建設での事故……。下「」引用。

「ダイナマイトの爆発と同時に、作業員は掘られた溝にかくれるのですが、ある日のこと、一人の青年が飛んできた石に頭を砕かれるという痛ましい事故が起こりました。その青年は読谷村から来た若者で、年齢は二十歳くらいでした。私たちは泣く泣くその死体を家まで届けました。
 工事は安全性に乏しく、このような事故はたびたび起こりました。-略-」

初年兵は大変だったようだ……。下「」引用。

「浦添の経塚あたりは、敵の戦車と肉弾戦が展開されました。背中に地雷爆弾をもって、敵戦車に飛び込むという戦いでした。-略-」

召集……。下「」引用。

「忘れもしません。昭和十九年の一月十五日、遂に礼状が来たのです。私はそれを見るなり複雑な感情に襲われ、不安でした。なぜなら私の家族の働き手は私一人で、幼い子供が三人、さらに妻は四人目の子供を身ごもっており、老母も一緒でした。私が出征したら家族はいったいどうなるんだろう、と考えると家族がふびんでなりませんでした。幸いに、出征した場合は、会社から健康保険の掛金の何割かを支給されることになっており、私の場合は九十円でしたので、これで何とか食べていける。それで私は妻に「宮古島には帰らないで横浜にとどまりなさい」といって入団しました。私は自分のような者が召集されるようでは、戦争も終わりだなあ、これは負けると直観していました。」

片っ端から焼き殺していた米軍……。下「」引用。

「米兵は倒れている人でも、死んでいるかと一人ずつ確かめながらやってきた。焼いたり、機銃を撃ったり、樹木が生い茂っているところは片っ端から焼いたのです。
 私たちはススキの茂った原野のへこんだところに、二十歳前後の女性二人と古賀、長浜、私が息をこらしてひそんでいた。
 米兵のかん高い声が聞こえ、原野をどんどん焼いていました。いよいよこれまでかという気がします。火は近づいてくる。米兵はすぐ近くまできている。だが今動いてはもう生きられない。私たちは火がうんと近づいてきても動かないことにしました。火が近づいてくるので米兵は遠く離れて行きました。私はソロリソロリと動いて、すでに焼き尽くされたところに逃げ込みました。そこは山城の手前で、私たちは全身にススを付けて、目立たないようにしました。食べ物も何もないので、死んだ人の残した靴下などに入った米を探して食べました。-略-」

ある二等兵は各地を移動させられたようだ……。下「」引用。

「一週間程して船にのせられ、ハワイの収容所で一か月程、休養した後、本国のエンゼル島へ移され、その行く途中で船中で終戦を知らされた。半年程、エンゼル島にいた。帰りはグァム島、マレー半島を経由して沖縄についた。その後、屋嘉の収容所に送られ、そこに一か月程いて、本部に帰り母に会った。母は死んだと思っていた息子が帰り大喜びであった。想い出すだけでも身の毛がよだつ。もう思い出したくもない。」

かわいがりと拷問……。下「」引用。

「昭和一八年四月一日海軍志願兵として佐世保海兵団(長崎県)に入団、その後昭和一九年沖縄根拠地帯(今の豊見城海指令部)司令部通信隊特殊無線通信兵として軍務に従事した私は徹底的に日本兵にかわいがられた。
「おまえ達は今日来たからかわいがってやる」と言って、防空壕前に連れていかれいきなりバットでなぐられ顔も目も火の出る程なぐられた。これが軍人精神をたたき込むと言うことなのだ。血も涙もない訓練は敗戦間際にも及んだ。特に沖縄人はおしなべて口数が少ない無口ゆえにあらぬ疑いをかけられ、訓練中に日本兵に殺された沖縄の同胞が三人もいた。どんよりとした風のないある日の午後だった。目の前で二十四、五歳の沖縄の若い女が又もや日本兵に殺されたのだった。
 女が我々のこもっている壕に一般兵に引きづられて来た時、顔は極度の緊張の為にすでに血の気はなく蒼白だった。数人の日本兵が女を取りまき、まわりの人々への見せしめの為か「スパイ」をするとこんな目にあわなければならん、とばかりの仕打ちが続いた。身につけた衣類がボロボロになる程ムチの拷問が加えられた。
 恐怖に顔をひきつらせ、全身を硬直させた女の体に最後の電気が通された。体をのけぞらせ悲鳴とも、叫びともいかない断末魔のうめきを残し、全身をけいけんさせながら女は死んでいった。それでもあきたらぬのか、日本兵は死体を尚も責めた。衣類のむけた裸体に竹ヤリが突き立つ、日本刀が肉をそぐ--。
 壕の中はさながら血の海となり壕の外まであふれ出た。私はあまりのショックでへなへなとすわり込んでしまった。つぎに槍玉にあがったのは波平三郎という三十歳くらいの小さな男であった。一晩中打たれたあげく逆さ吊りにされ、電気を通され拷問、そのうえ竹ヤリで突かれた。こんなことは日本軍によって沖縄に加えられた残虐さのごくありふれた行為にすぎない。先に上映された「沖縄戦記」と言う映画の伝える内容も、被害者だった人間にはほんの気休めにしかならない。-略-」

「沖縄の悲惨は日米両軍から」というタイトル文章。
--そのとおりだろうと思う。これは外国でも同様だったようだ……。

バックナー中将が亡くなり……。下「」引用。

「しばらくしてバックナー中将がやられたということで、その事は後で友軍の兵隊に聞いて知ったのですが犬であろうが、山羊であろうが、馬であろうが、赤ちゃんであろうが、女であろうがかたっぱしから殺していくんです。普通だったら手をあげて逃げていけというくらいだが、もう中将がやられたんだから、命がけです。アメリカ兵はもう皆、日本人を皆殺しする勢いでした。かたっぱしから殺されているのを僕達はみた。ハワイ帰りの人で、防衛隊みたいな人ですが丁度四十歳位だったと思いますが、この人が英語をペラペラわかるから先頭に立って助けてくれというんです。ところが三名並んでいたのですが三名ともたちまち、ボンという音と同時に頭が半分ふっとぶし、隣の人は弾が貫通して死んでしまうし、ほんとに見られたもんじゃなかったです。庭で殺されているのを見て僕は床下に逃げました。とにかくバックナー中将が殺られたというこの一週間は、もう誰彼となく殺していた。」

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自決と軍医……。下「」引用。

「二十二日、同じ指令の壕の中で女子軍属が「敵の捕虜になるよりは死んだ方がいい」と嘉数軍医に頼んで青酸カリ注射を射たせた。五人の女子は五分間苦しみもがいて死んでいった。
 その後すぐに嘉数軍医は壕から出ていって行方をくらまし、いまだに逢ったことがない。」











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