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「第○次内閣と改造内閣の違いとは?」

2016-05-22 13:58:26 | 日本

第三次安倍内閣が12月24日に発足した。総選挙前は第ニ次安倍改造内閣と呼ばれていたが、同じ安倍晋三首相による内閣なのに呼称が変わる。このように、よく「第二次内閣」とか「二次改造内閣」などの用語が使われる。この違いは何なのか?


◎第○次内閣とは

たいていの場合「二次」以降は衆議院の解散・総選挙を勝ち抜いた後、憲法の決まりで総辞職するも、引き続き行われる特別国会で同一人物が選ばれるケースである。

戦後、いったん首相を辞めた後に返り咲いたのは吉田茂氏と安部晋三氏の2人。第二次安倍内閣は総選挙で勝っての政権奪取だが、解散を打ったのは対立する民主党の野田佳彦内閣だった。吉田氏は明治憲法下の1946年5月から翌年5月まで日本自由党などを与党とする内閣の首相を務めた後、新憲法(今の憲法)で日本社会党・民主党・国民協同党の連立政権が過半数を制したのを受けて辞任。片山哲・芦田均の連立政権が弱体に終わり、芦田内閣が昭和電工事件という戦後を代表する汚職事件に飲み込まれ辞任した後継として第二次内閣を受ける。この時点で、少数与党で足腰がもろかったため、約2か月後に解散・総選挙を行って与党圧勝。本格政権である第三次吉田内閣がスタートする。

戦後でただ一つだけ解散総選挙を経ないで二次政権以降を連続で担ったのが第三次鳩山一郎内閣である。鳩山氏は吉田氏との抗争で勝って選挙を経ずに首相となり、解散後は自ら率いる日本民主党が圧勝して二次内閣を作った。同党と自由党が合同して自由民主党が誕生した1955年にいったん総辞職し、首相指名選挙に勝って第三次内閣を作った。

総選挙で与党過半数でなくても二次以降の政権を担ったケースもある。第二次大平正芳政権は自民党で過半数に届かず、野党が結束すれば政権交代も起こり得る事態に陥っているし、第二次中曽根康弘内閣も単独で過半数に達せず新自由クラブとの連立で何とか切り抜けた。

橋本龍太郎内閣以後は単独の政党ではなく2つ以上が連立する与党で過半数を取り、第一党党首が政権を担うという形が定着した。


◎第○次改造内閣とは

「改造」は総選挙によらず、首相の閣僚任免権を行使して行わる。1996年の総選挙から導入された小選挙区比例代表並立制までは細川・羽田非自民政権を除いて自民党中心か単独の政権が続いた。その過程で生じたのが派閥である。派閥はどのような集団にも存在するが、事務所まで作っているのは稀である。自民党政権とは見方を変えれば派閥による保守連立政権である。したがって当選5回、6回ほどになると「大臣適齢期」と領袖(派閥のトップ)が「この人を」と売り込んで来る。そうしたバランスを取って党内に亀裂が生じないように繰り返されてきた状況がある。こうした「派閥順送り」は小泉純一郎内閣が拒否して以降、陰を潜めた。

支持率低下など内閣が弱体化してきた際に積極的に首相主導で行うケースは健在である。「疑惑の大臣」を罷免ではなく交代で穏便に退いてもらい、清新な人材を登用して風向きを変えるのである。官邸が改造風を吹かせると不満分子がおとなしくなるという効果も期待できる半面、選ばれなかったらますます不満をため込むというデメリットもあり難しいさじ加減である。

なお総選挙で勝ち同一人物が「第二次」内閣を作り、それが第一次改造内閣とまったく同じメンバーであっても「第二次」の呼称は変わらない。


◎「○次内閣」「○次改造内閣」最多は何次?

「○次内閣」最多は第五次吉田茂内閣である。「○次改造内閣」は第三次吉田内閣と第二次池田勇人内閣、第一次佐藤栄作内閣の「三次」が最多である。つまり「第三次吉田第三次改造内閣」といった呼び方になる。戦後最長政権の佐藤内閣や次に位置する吉田内閣だけに改造の数も必然的に多かった。


◎「○次」が多かった内閣エピソード

長期政権の末期を指すのとほぼ同義で、混乱する方が多いようである。例えば最長の第五次吉田茂政権は反主流の鳩山一郎派など党内に不穏な分子を抱えてスタートした。そもそも吉田首相自身が右派社会党の西村栄一議員の質問に「バカヤロー」と応えて紛糾。鳩山派などが野党の出した内閣不信任決議案に同調して可決。吉田首相は解散を選択した。世にいう「バカヤロー解散」である。結果は与党自由党の過半数割れ。「吉田もこれまでか」との声をよそに、首相は懸命な多数派工作を仕掛けて何とか五次内閣を作るも鳩山派との内争や新党結成の動き、さらにこれまた戦後最大級の汚職事件「造船疑獄」の発覚と揺れ動き、事態打破のためまたもや解散しようとする首相を執行部が何とかなだめて総辞職に持ち込んだ。

「勝ち逃げ」ともいえる代表的な例が第三次小泉純一郎政権である。2005年の「郵政選挙」で圧勝し余力を十分に残しながら1年ほどで辞職した。


◎改造内閣にまつわるエピソード

総選挙に勝利して第二次内閣を作った池田勇人首相は、次の総選挙まで約3年で3度改造、通算4回の組閣をしている。当時の自民党は派閥全盛で、最初の内閣で入閣しなかった領袖を1次改造で多く取り込んだ。河野一郎、佐藤栄作、藤山愛一郎、三木武夫といった面々である。

参議院議員選挙に勝利して自民党総裁選も突破した後の第二次改造は、池田派のホープ大平正芳を官房長官から外務大臣に登用。佐藤派の田中角栄も大蔵大臣(現在の財務大臣)の要職につけた。池田派の知恵袋の宮沢喜一も経済企画庁長官に起用するなど若手を引き上げて体力強化に努めた。そして約1年後の第三次改造は4か月後に行われた解散・総選挙シフトを敷く。結果は翌年に東京五輪が開かれるなど明るいムードに包まれて自民快勝。第三次池田内閣が誕生する。メンバーは全員第三次改造から再任。とても珍しいケースである。












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