◎衆生の心をどのように捉えていたのか
『般若心経秘鍵』
哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子、苦しいかな、痛ましいかな、酔狂の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲(あざわら)う。かって医王の薬を訪らわずんば、いずれのときにか大日の光を見ん。
[現代語訳]
ずうっと寝ている人は、なんて哀れなんだろう、ひどく酔っている人は、苦しいだろう、かわいそうなことだ。
ひどく酔っている人は、素面の人を笑い、煩悩に纏われている人は覚った人を馬鹿にして笑う。
勝れた医者に診察してもらわなければ、決して病気が治らないように、そのままではいつになったら大日如来の教えに接することが出来るのだろうか。
[補足]弘法大師は、「われわれは悟り(自分の心の中の仏に気づくこと、これを如実智心という)を得ればわれわれ(衆生)と仏は同じである]と教えている。
『秘蔵宝鑰』
いかんが菩提とならば、いわく実の如く自身を知るなり。
[現代語訳]
覚り(菩提)とは何かといわれたら、それは取りもなおさず、私たちの本当の心を知ることである
本当の心とは、すなわち菩提心である。
『声字実相義』
悟れるものは大覚と号し、迷えるものは衆生と名づく。
[現代語訳]
仏と私たち凡夫とは本来違いはないが、覚った人を大覚と呼び、煩悩に纏われている人を衆生という。
『秘密曼荼羅千住心論』
衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈論(論はごんべんではなくさんずい)し、四生に玲併(リョウビョウ:玲はたまへんではなくあしへん、併はにんべんではなくあしへん)す。
[現代語訳】
衆生は煩悩に執着しているので、本当は仏になることが出来ることに気づいていない。そのため六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中で輪廻を繰り返しているのだが、一番下の地獄の苦しみを味わったり、餓鬼や畜生道に生まれ変わっている。また、六道の有情は四生(胎生・卵生・湿生・化生)といわれる生まれ方をするのだが、この四生にさまよって、なかなか仏になることが出来ない。
[補足】
三趣とは、三悪趣の略。衆生が自己の業により到る地獄道、餓鬼道、畜生道のこと。三悪道、三途と同じ意味。
沈輪とは、沈も輪も沈むの意。
『秘密曼荼羅千住心論』
心病多しといえども、その本は唯一つ、いわゆる無明これなり。
[現代語訳]
心の病気は沢山あるけれども、その原因はただ一つ、無明によって引き起こされている。
『秘蔵宝鑰』
身病を治すのには必ず三の法による、一には医人、二には方経、三には妙薬なり。
[現代語訳]
身体の病気を治すのには、必ず三つの方法がある。一つ目は医者、二つ目は正しい処方、三つ目は優れた薬である。
『秘蔵宝鑰』
それ禿(かぶ)なる樹、定んで禿なるにあらず。春に遭うときは、すなわち栄え華さく。
[現代語訳]
冬に葉を落としている樹は、そのままずっと芽吹かないのではない。春になれば、一斉に芽吹いて華をさかせる。
『般若心経秘鍵』
それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し、真如外にあらず、身を棄てていずくんかもとめん。
[現代語訳]
仏の教えは、どこか遠いところにあるのではない。私たちの心の中にあって、本当に身近なものである。真理は私たちの外にあるのではないから、この身を捨ててどこに求めようというのか。
『秘蔵宝鑰』
近うして見難きはわが心なり。細にして空に遍ずるはわが仏なり。
[現代語訳]
最も近くにあるのになかなか見られないのは、私の心である。細かくて虚空に遍満するのは私の仏である。
『般若心経秘鍵』
蓮を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る。
[現代語訳]
泥の中から茎を伸ばし、その泥に汚されることなくきれいな花を咲かせる蓮を見て、私たちの心も本当は清浄であることを知り、蓮の実を見て心に仏の徳が具わっていることを覚る。
『続遍照発揮性霊集補闕抄』
もし自心を知るはすなわち仏心を知るなり。仏心を知るはすなわち衆生の心を知るなり。三心平等なりと知るはすなわち大覚と名ずく。
[現代語訳]
もし本当の自分の心を知ることが出来れば、それはすなわち仏心を知ることである。仏心を知ることが出来れば、それは衆生の心をしることに他ならない。自心と仏心と衆生心が平等であることを解ることが覚りである。
どんなきっかけでかわるのだろうか
『秘密曼荼羅十住心論』
万劫(ばんごう)の寂種、春雷に遭うて甲圻(こうさ)け、一念の善機,時雨(じう)に沐(もく)して牙を吐く。
[現代語訳]
長い間芽を出さなかった種も、春雷によって条件が整って殻が割れて芽を出すのと同じように、慈雨によってほんの少しの善心が芽を出す。
[補足】
万劫とは、永い年月の意。
時雨とは、ほどよいときに降る雨
沐して、身体などを洗う