龍の声

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「中村久子さんの生涯①」

2022-02-24 07:20:15 | 日本

両手足を失った中村久子さんが見出した「生きる喜び」
中村久子さん(1968年死去)をご存じでしょうか。3歳で病気のために両手足を失うも、すさまじい努力と強い精神で、家事も仕事も自分で切り開いて生き抜いた人です。苦しみを引き受け「人間としてどう生きるか」を求め続けた久子さんの生涯を紹介します。


◎「料理も、裁縫も、掃除も、何でも見事にする人でした」

久子さんは木で作ったへらを口にくわえ、指の代わりにしていました。引き出しの取っ手に付けた輪は、へらを引っ掛けるためのもの。他の道具も、歯で噛みしめて使っていたため先端が潰れています
〈来日したヘレン・ケラー女史が『私より偉大な人』とたたえた女性・中村久子さんを、多くの方に知ってほしいのです。〉

飛騨の小京都と呼ばれる高山市。この街で120年余り前に生まれた中村久子さんは、幼くして両手足を失うという過酷な運命を背負いながら、72年の生涯を全うした女性です。
「明るくて、曲がったことが大嫌いな人でした」と振り返るのは、手紙をくれた読者の鎌宮さん。久子さんが幼少期に暮らした家と、鎌宮さんの実家が近所で親戚のような付き合いをしていたことから、「久子おばさんは、私を孫のようにかわいがってくださいました」と話します。
「あれは小学3年の夏休み。久子おばさんが家に来て、短い腕でスイカをきれいに召し上がる様子をじっと見ていた私は、思わず『おばちゃん、どうしてスイカの汁がこぼれんの?』と聞いたんです。すると『最初に果汁を吸うのよ』と優しく教えてくれました。きっと、どうしたらきれいに食べられるのか、研究に研究を重ねられたのだと思います。料理でも、裁縫でも、掃除でも、手足のないことをこちらが忘れてしまうほど、何でも見事にする人でした」
久子さんは食事をするとき、短い右腕に巻いた包帯にお箸を差し、茶碗を左腕に乗せて、人の手を借りずにきれいに食べました。裁縫をするときは、縫い針を口にし、短い両腕で布を持ち、一針ずつ前へ縫い進めてゆきます。字を書くときは、太い字は筆を口に含んで、細い字は筆を右腕と右頬に挟んで書きました。

「久子おばさんは筆まめでした。私が20歳の頃、いただいた手紙にすぐ返事を書かずにいたら、『手のある人は筆不精ね』と言われ、何も言い返せませんでした」と鎌宮さんは回想します。
久子さんが亡くなった当時、23歳だった鎌宮さんは「最期の3か月間、おそばで看護させていただきました」と話します。
「本人が献体を希望して、遺体は岐阜大学医学部で解剖されました。体中がボロボロで、先生方は『生前、どれだけ苦しかったか……この体でよく72年間生きられました。お見事としか言いようがありません』と泣きながらおっしゃったそうです」
その死から約50年。久子さんの生涯は、いったいどのようなものだったのしょう。鎌宮さんの記憶やご本人が遺した記録をひも解いてゆきます。
 

◎手足がない上に失明した娘をおぶって母は……

久子さんは明治30年、高山の畳職人の長女として生まれました。2歳の冬、「あんよが痛いよう、痛いよう」と泣き叫び、下された診断は「特発性脱疽(だっそ)」。血流障害で手足が壊死してしまう難病で、「切断手術をしなければならぬ。しかし生命は保証できない」と宣告されます。うろたえた両親が手術を決断できずにいる間も、小さな手足は高熱で黒くただれてゆきました。
 
ある日、久子さんのけたたましい泣き声に、母が駆け付けると、傍らに白いものが転がっていました。包帯を巻いた左手首が、もげ落ちていたのです。
病院に担ぎ込まれた久子さんは、両手足を切断。その後も痛みは去らず、昼夜なく泣き叫ぶため、近所に気兼ねする両親は久子さんをおぶり、大雪の日も街中をさまよい歩きました。
久子さんが6歳のとき、父が急死してしまいます。治療費などで借財を抱えた母は再婚。義父に冷たくあたられ、久子さんの心は暗くゆがんでいきました。そして9歳のある朝、両目が光を失ってしまうのです。

このとき母の失望はどれほどだったでしょう。闇夜の中、手足がない上に失明した娘をおぶった母は、山道をひたすら進み、川の上流に立ち尽くしました。やがて「母(かか)様、こわいよぉー」と泣く娘の声で我に返り、よろよろと家に帰りついたのです。後に久子さんはこうつづっています。
「人の世に生きることの難(かたき)に堪えかねて、安住の地を死によって見出そうと母はしたが、やっぱり死は得られなかったのです。すべての苦しみと悲しみを堪え忍んで哀れな不具の子、私を育てるべく思いかえした(中略) 女は弱し、されど母は強し」
 

◎「できないのは横着だからです」と厳しくしつけられ

1年ほどたち、幸いにも光を取り戻した久子さんに、母は厳しいしつけを始めます。まず言いつけたのは、仕立て替えするきものをほどくこと。「できません」と音を上げる娘に、母は容赦なく言い放ちました。
「できないからといってやめてしまったら、人間は何もできません。やらねばならんという一心になったら、やれるものです。できないのは横着だからです」
冷たいまでに厳しい母を「これが本当の親なのか」と恨みながら、久子さんは何日もかけてとうとう口でハサミを使うことを覚えました。「これは大きな歓喜であり、発見でした」と、久子さんは晩年に回想しています。
「刺繍も編み物も、お部屋の掃除も囲炉に火を焚くことも、洗濯も包丁を使うことも、みんな母から厳しゅう言われ、覚えたものばかりでございます」
 
もちろん一朝一夕にできることはなく、一つ一つ覚えるのに血のにじむような努力がありました。あるとき、久子さんが口で縫った人形のきものを、近所の友達にあげると、その子の母は「こんな汚い物!」と川に捨ててしまいました。

口で縫い、口で糸をしごいて仕上げたきものは、つばだらけになっていたのです。久子さんは「つばだらけにしてはいけない、ぬらさぬように、というのは悲壮なまでの念願でした。ぬれない裁縫ができるまでには、13年間の長い年月がかかりました」と記しています。
久子さんが編んだ小さな巾着に入っていた、たくさんのあまり糸。「とにかくものを大切にする人で、はぎれやボタン類もすべて大切にとってありました」と鎌宮さん
レース糸で編んだ敷き物とテーブルクロス。デザインにもこだわりがありました
きれいに整頓された編み物の道具。「編み物は手芸の中でも特に好きでした。歯が丈夫で熱心に編んだときは、一ポンドの並太毛糸は二日間で難なく編みました」と自ら記しています
 










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