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「天智天皇」第38代天皇

2015-10-09 08:09:42 | 日本

・在位期間 668年2月20日 - 672年1月7日
・先代 斉明天皇
・次代 弘文天皇
・誕生 626年
・崩御 672年1月7日 近江大津宮
・陵所 山科陵
・異称 中大兄皇子
・皇居 近江大津宮


◎天智天皇

推古34(626)年、推古天皇の甥の子にあたる田村皇子の子として誕生した。葛城皇子とあることから、有力豪族の葛城氏によって養育された可能性もある。

推古天皇が崩御したのち、父の田村皇子が践祚(舒明天皇)。そして、舒明13(641)年10月、舒明天皇が崩御すると、十六歳の中大兄が誄(しのびごと)を奉った。異母兄の古人大兄を差し置いて彼が誄を奉っているのは、両親ともに大王家出身であることが影響したか。翌年1月15日、母の宝皇女が践祚(皇極天皇)した。

中大兄は遣隋使として留学していた南淵請安に師事して、大陸の儒教などを学んだ。その同窓に中臣鎌子(のちの藤原鎌足)や蘇我入鹿(蘇我鞍作大郎)がいる。

この当時、中央政治の中で天皇家の外戚だった蘇我氏の力が強く、蘇我宗家で大臣の蘇我蝦夷(蘇我豊浦毛人)の権力はとくに大きかった。その後、秀才の誉れ高い長男の入鹿を大臣に准じることとし、入鹿もまた絶大な権力をほしいままにしたという。そして入鹿は大王家の継承をめぐって聖徳太子の子・山背大兄王一族を滅ぼした。

これら蘇我宗家の専制政治に対して、天皇を中心とする中央集権国家を目指した中大兄は、皇極4(645)年6月8日、中臣鎌子や蘇我倉山田石川麻呂らとともに、12日に来日する百済、新羅、高句麗の三国の使者の儀式にあわせて入鹿殺害を計画。そして12日、飛鳥板蓋宮の大極殿で石川麻呂が上表文を奉る際に、中大兄、中臣鎌子、佐伯小麻呂らとともに入鹿を殺害した。

入鹿が殺害されたことを知った父・蝦夷は、翌13日、居館の甘橿邸に火を放って自害した(乙巳の変)。このとき、蘇我馬子が聖徳太子とともに編纂したという歴史書『天皇記』『国記』も巻き添えとなったが、『国記』のみは取り戻されたと伝わる(現存せず)。これらのクーデターに始終付き従って活躍したとされるのが中臣仲郎鎌子、のちの中臣鎌足である。鎌足は功績によって内臣となった。『日本書紀』には鎌足の目立った活躍は見えないが、狩に際しては「大皇弟諸王内臣及群臣…」が従ったとあり、諸王に次ぐ扱いだったことがうかがわれる。

翌14日、皇極天皇は弟の軽皇子(孝徳天皇)に天皇を譲り、中大兄は皇太子となった。9月には吉野に逃れていた異母兄・古人大兄を謀反の疑いで殺害し、政敵を葬った。

孝徳5(654)年10月10日、孝徳天皇が崩御すると、ふたたび母・宝王女が践祚(斉明天皇)し、中大兄は皇太子となった。ほぼ独裁的な権力を手にしたと思われる中大兄は続けて孝徳天皇皇子・有間皇子を標的とし、斉明4(658)年11月、謀反の疑いで絞首刑に処した。

斉明6(660)年7月、朝鮮半島の一角をなす百済が、新羅と唐の連合軍に敗れて滅亡。10月には百済の貴族でゲリラ活動をしていた鬼室福信が日本に使者を遣わして、日本で育っていた百済王子・余豊璋を奉じて再興を目指すことを志し、救援を求めてきた。これを受けた中大兄は12月、難波宮に移って船と武器を作り、斉明7(661)年1月6日、天皇とともに征新羅の軍勢を起して瀬戸内海を通って九州へに上陸。筑紫国の朝倉橘広庭宮に遷って新羅軍の来襲に備えていたが、7月24日、母天皇は突然崩御される。

皇太子・中大兄は天皇の喪に服し、10月7日、天皇の遺体に寄り添って飛鳥に向かい、11月7日より飛鳥川原宮において殯が行われた。


◎中大兄の称制と白村江の戦い

中大兄は皇太子のまま即位しないまま政治を執り行った(称制)。母天皇が崩御された7月、唐の蘇将軍と突厥の王子・契苾加力らが水陸二路から高句麗王都の平壌城に攻め込んだ。この報告を長津宮(福岡市)で受けた中大兄は水軍を召集し、8月、前将軍・阿曇比羅夫連、河辺百枝臣、後将軍・阿倍引田比羅夫臣、物部連熊、守君大石らに軍勢と食料をつけて派遣した。

9月、中大兄は長津宮で百済王子・余豊璋に最高位の「織冠」を授けて多臣蒋敷の妹を娶わせてその妻とし、狭井連檳榔、秦造田来津らに五千余の兵をつけて護衛させ、百済へ派遣した。おそらくその直後、豊璋はふたたび日本に戻ってきたのだろう。翌天智称制元(662)年正月、中大兄は鬼室福信へ矢十万本、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、鞣革一千張、稲種三千石を賜り、5月、中大兄は大将軍・安曇比羅夫連らに兵船百七十艘を指揮させ、百済王子・余豊璋をふたたび送り届けた。このとき、中大兄は豊璋をして百済王の位を継ぐことを勅し、金を福信に賜わったという。

天智称制2(662)年3月、中大兄は前将軍・上毛野君稚子、間人連大蓋、中将軍・巨勢神前臣譯語、三輪君根麻呂、後将軍・阿倍引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄らに命じて二万七千の兵を百済へ派遣した。彼らは百済から新羅へ攻め込むと、前将軍・上毛野君稚子らは沙鼻岐城、奴江城の二つの城を攻め落としたが、同盟軍の百済軍では内紛が起こっていた。

百済豊璋王は福信に謀反の心があるとの噂を信じて彼を嫌いはじめ、彼を逮捕すると諸臣の前で裁判にかけた。斬るべきか赦すべきかの王の質問に、達率・徳執得は、「此悪逆人不合放捨」と彼の処刑を望んだ。これに福信は怒り、徳執得に唾を吐きかけて「腐狗癡奴」と罵った。しかし王は、徳執得の言葉を待っていたかのように、ただちに福信を斬首し塩漬けにしてしまった。百済再興のために命がけで戦ってきた忠臣・鬼室福信はその再興の珠玉であった豊璋と讒言者によって惨殺されてしまうという悲劇の主人公となってしまった。

8月、新羅は百済王が宿敵・鬼室福信を葬り去ったことに喜び、たちまち百済に攻め込んできた。唐も百七十艘の水軍を率いて百済へ迫っっため、豊璋は慌てて日本に救援を求め、中大兄はこれに応じて援軍を派遣した。そして百済・日本連合軍と新羅・唐の連合軍は白村江において激戦を繰り広げた(白村江の戦い)。

しかし、この「白村江の戦い」は百済・日本軍の大敗に終わり、百済豊璋王はわずか数人の供に守られて高句麗へ逃亡、日本軍は這々の体で帰国した。こうして百済は完全に滅亡し、百済の遺民や王族は次々に日本に逃れてきた。その中でも大和朝廷の貴族として発展したのが百済王氏である。

天智称制3(664)年になると、中大兄は唐や新羅からの侵攻に備えるために、対馬、壱岐、筑紫国などに烽火や防人を置くこととし、大堤を築いて水を蓄えた水城を築いた。

天智称制4(665)年2月、鬼室福信の子・鬼室集斯に、福信の功績を称えて小錦下の位を授けた。また、百済から逃れてきた男女四百余人を近江国神前郡に集住させ、3月、彼らに田を与えた。

8月には、百済の亡命官吏・答本春初を派遣して長門国に城を築かせ、同じく憶禮福留、四比福夫を筑紫国に派遣して大野城・基肄城といった朝鮮型山城を築いて反撃に備えたのだった。9月、唐は朝散大夫沂州司馬上忠国・劉徳高を日本に派遣し、9月20日筑紫に到着。おそらく筑紫館(のちの鴻臚館)に留まったものと思われる。22日、唐からの国書が日本側の官吏に手渡された。国書は中大兄まで届けられたと思われ、その返事が九州に届いたのは12月のことだった。12月までここに留まっていた劉徳高らは日々の饗応にそろそろ飽いていたかもしれない。中大兄からの贈り物が渡され、彼ら一行は唐に帰国して行った。

天智称制5(665)年正月、先日の唐使に対する返礼と思われるが、守君大石(高句麗攻めの大将の一人)らが唐に派遣されている。冬、百済からの移民二千余人を東国へ移した。具体的な地名はないが、武蔵国高麗郡は渡来人が移住してきた地域である事から、この地に移り住んだのかもしれない。彼ら渡来人が東国に伝えた妙見信仰が秩父氏、千葉氏に伝えられていくこととなったと考えられている。

天智称制6(667)年3月、中大兄は、都を近江国大津に遷都し、さらに11月には倭国に高安城、讃吉国に屋島城、対馬に金田城など城を築き、九州から都に至るまでの防線を築き上げた。結局、唐や新羅からの報復的攻撃はなかったため、これらの城は次第に廃されていく。


◎天皇に即位(天智天皇)

天智称制7(668)年正月3日、中大兄は天皇となり、2月、倭姫王(異母兄・古人大兄の娘)を皇后に立てた。倭姫王のほかに八人の側室がいたことが伝わっている。貴族出身者が四人、宮人の女性が四名だったとある。

5月5日、天皇は大津宮の南、蒲生野にて狩を行い、大皇弟(大海人皇子)や諸王、内臣・中臣鎌足はじめ、群臣たちがこれに扈従したという。

天智8(669)年正月、蘇我赤兄臣を筑紫率とした。のちの太宰帥に相当するか。北九州一体を防備して朝鮮半島からの侵略を防ぐことが大きな目的だったのだろう。

5月、天皇は大津宮の西、山科野に狩を行い、大皇弟(大海人皇子)、中臣鎌足ら群臣がこれに従った。しかし、このように元気だった盟友・中臣鎌足も病に倒れた。10月14日、天皇は鎌足の屋敷をみずから訪ねて見舞った。天皇と鎌足は言葉を交わしあい、15日、天皇は弟・大海人皇子を鎌足邸に遣わし、冠位二十六階の頂点である「大織冠」を授け、大臣位と「藤原」姓が与えられた。「大織冠」は、百済の豊璋王に授けた「織冠(大織冠か小織冠かは不明)」と同列ということとなり、天皇の鎌足に対する信頼がうかがえる。

鎌足はこの翌日、10月16日に亡くなった。五十歳とも五十六歳ともいわれる。天皇は蘇我赤兄臣を勅使として藤原鎌足家に派遣し、恩詔と金を賜った。

天智9(670)年2月、天皇ははじめて戸籍をつくった。これを「庚午年籍」という。

天智10(671)年1月5日、中臣金連に命じて神事を宣じさせた。この日に行われた大規模な太政官制への移行についての神託だったのかもしれない。皇子・大友皇子を太政大臣とし、蘇我赤兄臣を左大臣に、中臣金連を右大臣に、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣を御史大夫に任命した。また、天皇は大海人皇子を通じて「冠位法度」についての詔勅を発し、天下に大赦を行った。

9月、天皇は病に臥した。病中の天皇は10月、袈裟や金鉢、象牙、沈水香、栴檀香などの諸宝を法興寺(飛鳥寺)に奉納した。回復祈願のためだったと想像されるが、病は重くなり、10月17日、大海人皇子を病床に呼ぶと、「朕疾甚、以後事属汝云々」と後事を託したという。しかし大海人皇子は自分は「称疾」であり、「大后(倭姫王)」を天皇とし「大友王(大友皇子)」に諸政を任せるべしと固辞し、自分は天皇のために出家することを請うた。天皇はこれを許したため、大海人皇子は兄天皇の病床を後にすると、宮殿の仏殿の南に胡坐をかいてどっかりと座ると、剃刀で鬢髪を剃り落として仏門に入った。これを聞いた天皇は次田生磐を遣わして袈裟を賜った。10月19日、大海人皇子はふたたび天皇に謁見すると、吉野山に仏道修行に出ることの許しを請い、天皇はこれを許した。大海人皇子はただちに吉野に出立している。これは大海人皇子が政争を恐れた、または大友皇子を擁立する派閥に暗殺されることを恐れたための離京とも考えられる。

こののち、朝廷(近江朝廷)は天皇の山陵造営のために美濃・尾張両国の国司に対して人夫の徴集を命じているが、これが大海人皇子を討つための徴兵とされ、大海人皇子は大友皇子(弘文天皇)に対して兵を挙げ、近江の瀬田橋で近江朝廷軍を破り(壬申の乱)、あらたな天皇に即位した(天武天皇)。

12月3日、天皇は近江国大津宮において崩御した。宝算四十六。12月11日、新宮での殯となり、童が謡を奉じている。

一方、狩好きだったと思われる天皇は、「一云」として「天皇駕馬幸山階、更無還御永交山林、不知崩所」と天皇が山林に入ったまま還御なく、崩御した場所も分からないとし、「只以履沓落處爲其山陵、以往諸皇不知因果、恒事殺害」、と、天皇が履いていた沓が落ちていた場所を山陵と定めたとされている(『扶桑略記』)。このように天皇は政争の中で暗殺されたとも思われる説話が平安時代後期に伝わっていたことがうかがえる。


◎崩御とその後

671年9月、天智天皇は病気に倒れた[2]。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った[2]。12月3日、天智天皇は近江大津宮で崩御した[3]。

天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった[註 1]。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。

称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。


◎陵・霊廟

陵(みささぎ)は、京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方(八角)。考古学名は御廟野古墳。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。














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