トットちゃんは、小学1年のときに学校を退学になりました。1年生で!! 担任の先生から、ママが「おたくのお嬢さんがいると、クラスじゅうの迷惑になります。よその学校にお連れください!」と言われてしまったのです。ママはどんなに驚いて悲しい気持ちになったことでしょう。
そこでママが探した、トットちゃんにぴったりの学校が「トモエ学園」であり、トットちゃんをあたたかく迎えてくれたのが校長の小林宗作先生でした。
楽しかったトモエ学園で過ごした日々と、「小林先生という人がいて、どんなに子どもに対して深い愛情を持っていたか、教育にどんな考えを持っていたかを多くの人に伝えたい」というのが黒柳徹子さん(大きくなったトットちゃん)が「窓ぎわのトットちゃん」を書くきっかけだったのです。
学園は戦争のときに燃えてしまって、今はありません。でも、トモエ学園と小林先生の教育は、今こそ改めて見直したいことばかり。そこで、小林先生の教育から「今の時代に大切にしたい3つの心」をご紹介しましょう。
➀大切にしたい心「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」
元気いっぱいで好奇心旺盛なトットちゃんは、じっと座っていられずに、窓ぎわに立ってチンドン屋(にぎやかな音楽で宣伝をする)を呼び込んだり、ツバメに話しかけたり。他の子どもたちの授業の妨げになって、最初に入学した小学校を退学させられてしまいます。
ところが、ママが見つけた「トモエ学園」に行くと、小林先生はトットちゃんの話がつきるまで、一生懸命聞いてくれたのです。トットちゃんは小林先生といると、安心で、あたたかくて、気持ちがいいと感じました。
トットちゃんは、体にハンデキャップを持っている子にやさしくしたり、ケガをした動物を必死に看病します。そのいっぽうで、めずらしいものや、興味のあることを見つけたときには、自分の好奇心を満たすために、先生たちがびっくりするような事件を起こしてしまうのです。
だから、トットちゃんへの苦情や心配の声が、保護者や先生たちから小林先生のところに来ているにちがいありませんでした。でも、小林先生はいつもトットちゃんに、「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」と言い続けてくれたのです。
最初に入った小学校で、トットちゃんは、ほかの子と違ってひとりだけちょっと冷たい目で見られているような、疎外感をおぼろげに感じていました。でも、トモエ学園では小林先生が「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」と言い続けてくれたおかげで、
「わたしは、いい子なんだ」
という自信を持つことができました。この言葉は、トットちゃんの一生を決定したかもしれないくらい大切な言葉だったのです。
「ほんとうは」の意味にトットちゃんが気がつくのは、何十年もたってからでした。トットちゃんのような子どもでも、まわりの大人の接し方によって、おくすることなく成長できるのです。
そして、黒柳徹子さん(大人になったトットちゃん)は、「もし今でもトモエ学園があったら、登校拒否をする子なんていなくなるだろう」と思うのです。
➁大切にしたい心「好きなことを伸ばす」電車教室での授業
ママに連れられてトモエ学園にやってきた日、トットちゃんの目のはしに、夢としか思えないものが見えました。トットちゃんは門の中をのぞいてみました。どうしよう、見えたんだけど!
それは、走っていない、ほんとうの電車が6台、教室用に置かれていたのでした。電車の窓が、朝の光を受けてキラキラと光っています。目を輝かせてのぞいているトットちゃんのほっぺたも光っています。
教室が電車で“かわってる”と思ったトットちゃんでしたが、なによりもかわっていたのは、授業のやりかたでした。1時間目が始まるときに、その日、一日にやる時間割りのぜんぶの科目の問題を、先生が黒板いっぱいに書いて、どれでも好きなのから勉強してよいのです。
カタカナやひらがなを書く子、絵をかく子、本を読んでいる子、体操をしている子もいます。上級生になると、作文を書いている子の後ろで、物理が好きな子はフラスコでブクブクさせているといったこともありました。
これは教師にとっては、上級になるにしたがって、子どもの興味や個性を知ることができる方法です。子どもにとっても、好きな学科からやっていいというのはうれしいことでした。嫌いな学科でも学校が終わる時間までにやればいいのだからなんとかやりくりできるし、わからないことは先生に席に来てもらって、納得するまで教えてもらいます。子どもたちが先生の説明をボンヤリ聞くということはありません。
トットちゃんの同級生のなかから、大人になったときに日本を代表する物理学者になった人もいます。朝、学校に行くと「自分の好きな科目からやっていい」というトモエ方式が、その才能をさらに伸ばしたのかもしれません。
③大切にしたい心「みんな、いっしょだよ」
トモエ学園には、体に障がいを持っている子どもが何人もいました。でも、小林先生は「助けてあげなさい」とは、言いませんでした。いつも、
「みんな、いっしょだよ。いっしょにやるんだよ」
とだけ言うのです。だから、トットちゃんたちは何でもいっしょにやりました。助けてあげると考えたことは一度もありませんでした。
トモエ学園の子どもたちは、校庭にそれぞれ木登りをする「自分専用の木」を決めています。ある日、トットちゃんは小児麻痺で手足の不自由な泰明(やすあき)ちゃんを自分の木に招待しました。トットちゃんと泰明ちゃんは工夫しながら助け合って、木登りに成功します。二人とも汗びっしょり。でも、木の上から初めて見る景色は素晴らしいものでした。
二人は木の上でいろいろな話をします。将来、トットちゃんが活躍することになるテレビジョンというものがアメリカにできた、と教えてもらったのもそのときでした。
世界の人が、みんな小林先生のように「みんないっしょだよ」と思っていれば、戦争もなくなるはずなのに。今、黒柳徹子さん(大人になったトットちゃん)は、悲しく世界で起こっている戦争を見つめています。「続 窓ぎわのトットちゃん」を書き始めたのも、トモエ学園が燃えてしまったあとの、自分の戦争体験を伝えたいと考えたからでした。
「小林 宗作先生とは、」
小林 宗作(こばやし そうさく、1893年6月15日 - 1963年2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。
群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。 本名:金子 宗作(旧姓:小林)。
◎概要
大正自由教育運動の中で、就学前・初等教育の段階にある子供たちに、より自由で芸術的な音楽教育を受けさせることを志向し、小学校教員を務める傍ら、二度のヨーロッパ留学で幼児教育・音楽リズムと造形リズムの関係・音楽と体操の結合について研究し、成果を日本の教育界に紹介した。
1937年より、自分の理想をもとに、リトミックを教育基盤に置いた学校として幼小一貫校のトモエ学園を設立、運営した。東京大空襲で校舎を焼失し、小学校は廃止され、戦時中は茨城県土浦の海軍少年飛行隊でリズムや音感の訓練教育を担当していたことがある。戦後は残された幼稚園の経営と、国立音楽大学での初等教員養成と附属学校の整備に力を注いだ。
日本におけるリズム教育・音響教育・ピアノ教育・総合リズム教育をひらいた人物であり、各方面からの評価は高い。
◎家族
昭和初期に長姉が嫁いだ金子家の養嗣子になっているが、仕事や著作活動では旧姓の小林を用い続けた。また、次兄も群馬師範学校を卒業し、群馬や東京の小学校教員・校長を歴任するなど宗作と同じ道を歩んだが、教育観の相違からか、二人は頻繁な交流にもかかわらず、しばしば対立することがあったという。
なお、宗作は長男の名前にも、学校と同じ「巴」を付けている。
◎略歴
・1893年 - 群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。
・1899年 - 吾妻郡三島小学校入学。
・1907年 - 三島小学校高等科卒業後、しばらく代用教員を務める。
・1911年 - 教員免許取得。東京の小学校で訓導を勤める。
・1916年 - 東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
・1917年 - 東京音楽学校卒業。公立小学校や成蹊小学校の訓導として音楽教育に傾倒。
1923年 - スイス・フランス・ドイツ・イタリア・イギリスに留学。ダルクローズ音楽学院ではリトミックをエミール・ジャック=ダルクローズに学ぶ。帰国後、石井漠舞踊研究所・東洋英和女学院・国立音楽学校などで教鞭をとる。また、小原国芳とともに成城学園設立に参画。
・1930年 - 再び渡欧。パリ・ミラノ・ベルリンに留学。
・1937年 - 手塚岸衛が創立した自由ヶ丘小学校を、石井漠の勧めで引き取り、トモエ学園に改める。
・1945年 - 空襲で学園を焼失する。燃えている学園を見ながら長男の巴に「今度はどんな学校を作ろうか」とつぶやいたという。終戦後は、1948年にさくら幼稚園を設立し初代園長に就任するなどしたほか、国立音楽大学講師などを歴任。
・1963年 - 死去。