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「新紙幣が発行」

2024-07-06 10:10:40 | 日本

実に20年ぶりの刷新であり、どのようなデザインになるのか注目が集まっています。今回の刷新では一万円・五千円・千円が新しくなり、それぞれ「渋沢栄一」、「津田梅子」、「北里柴三郎」の肖像画が描かれます。新紙幣の特徴や肖像画に選ばれた3名の中から「津田梅子」と「北里柴三郎」に焦点をあて、彼らの功績について詳しく解説します。


◎2024年に紙幣が刷新

前述のとおり、2024年の上半期を目処に日本の紙幣が新しくなります。今回の刷新における大きな変化の1つとして、ユニバーサルデザインが採用されている点が挙げられるでしょう。誰でも紙幣を判別しやすくするために、従来のデザインと比べて数字のサイズが大きくなったり、紙幣ごとの色合いに差が付けられていたりと細かな工夫がなされています。そのほか犯罪防止の細工については、3Dホログラムの導入や「すかし(すき入れ)」と呼ばれる光に透かすことで図柄が浮かぶ技術の精度が上がっているところが、旧紙幣とは異なるポイントです。
また、現行の紙幣に描かれている肖像画は、一万円・五千円・千円それぞれ「福沢諭吉」、「樋口一葉」、「野口英世」ですが、今回の刷新でこれらの肖像画が「渋沢栄一」、「津田梅子」、「北里柴三郎」に変更されます。いずれも、日本の近代社会に大きな影響を与えた人物で、紙幣の肖像画としても大変ふさわしいでしょう。
紙幣の肖像画に採用される人物がどのような基準で選定されるのかを詳しく解説します。


◎新紙幣の人物選定の基

財務省は紙幣に採用される肖像画の人物について、下記3つの条件を設けています。
・偽造防止を図るため、できるだけ精密な写真が入手できること
・紙幣にふさわしい品格を持った人物であること
・国民に広く認知され、業績が認められていること

紙幣には様々な偽造防止策が取られていますが、肖像画の選定もその1つです。人間は顔の認識能力に長けており、小さな誤差でも違和感を持つといわれています。つまり、肖像画の顔に細かいヒゲやシワがあると違いに気づきやすくなり、偽造を見抜くことに役立ちます。しかし、紙幣自体の肖像画が繊細なものでなければ、偽造防止に効果を発揮しません。そのため、できるだけ精密な写真が残っている人物である必要があり、結果的に、日本に写真技術が普及した明治以降の偉人が採用されています。
また、紙幣は誰もが日常的に目にするもののため、品格のある人物がふさわしいとされている点も選ばれるポイントです。加えて、多くの人に認知されていることや、紙幣に描かれるのに見合った功績を挙げていることも条件となっています。


◎【新五千円札】新紙幣の人物「津田梅子」とは?

日本の女子教育に尽力し、津田塾大学の創始者である大変著名な人物です。
2013年に放映されたNHK大河ドラマ「八重の桜」や、2015年の「花燃ゆ」でも津田梅子が登場しており、広く知られるようになりました。

・津田梅子の軌跡
津田梅子は、1864年に現在の東京都新宿区南町にて誕生しました。父親は幕臣だった津田仙で、彼もまた蘭学を学び日本の近代化に影響を与えた人物です。津田仙は北海道開拓使の嘱託になり、開拓次官であった黒田清隆が計画した女子留学生の企画に娘である津田梅子を応募します。その結果、津田梅子は岩倉具視を全権大使とする「岩倉使節団」の一員となり、アメリカに留学しました。この時、渡米した女子留学生はわずか5名で、津田梅子は最年少の6歳でした。
1872年1月、津田梅子を含む一団がサンフランシスコに到着します。その後、ワシントン近郊にあるジョージタウンに暮らす夫婦のもとでホームステイをしながら、高度な教育を受けました。1882年には日本に帰国することになりますが、幼少期よりアメリカで育った津田梅子は、大きなカルチャーショックを受けたといいます。
帰国後は、アメリカで得た知識をもとに華族女学校で英語を教えていました。しかし、自立した女性を育成したい気持ちが強くなり、再度アメリカへ留学し3年間生物学を学びます。その後、日本に戻った津田梅子は、1900年にのちの津田塾大学となる女子英学塾を設立しました。

・津田梅子の功績
津田梅子が設立した女子英学塾は、彼女の志に賛同したアメリカの仲間たちからの寄付や協力を得て実現しました。1900年の開校当初は、10名ほどの小さな学校でしたが、津田梅子はそれまで培った地位を手放しほぼ無給で教育にあたります。女性の個性を重んじており少人数教育のメリットを説くほか、学校設備よりも教師の熱心な心と学生の研究心を重視し、物事を俯瞰的に捉えられる「完き婦人即ちall-round women」の育成を目指しました。
女子英学塾は、これまでの日本にはなかった考え方を取り入れた学校であり、瞬く間に多くの学生が入学するようになります。ついに、1904年には専門学校として認められ、その後も女性の地位向上や個性を大切にした教育に尽力し続けました。女子英学塾を卒業した女性は、社会で幅広く活躍しており、まさしく津田梅子の功績といえるでしょう。
その後、津田梅子は病に臥して、1929年に64歳で亡くなります。女子英学塾は彼女の想いを受け継ぎ、1933年に津田英学塾として生まれ変わりました。その後も多くの女性たちが勉学に励み、ついに1948年に津田塾大学が設立認可されます。津田塾大学は、2010年に創立110周年を迎えました。現代もなお津田梅子の精神は受け継がれ、津田塾大学では「変革を担う女性であること」を使命として、時代を支え新たな道を開拓する女性を育成、輩出しています。

・津田梅子と日本のジェンダー問題
世界経済フォーラムによると、2022年のジェンダー・ギャップ指数における日本のスコアは146カ国中116位でした。これは、先進国の中でも非常に低いレベルです。スコアの内訳は「経済」、「政治」、「教育」、「健康」の4分野に分けられ、最も低いのが政治でした。実際に、主要な人物が集まる会議や政財界を見渡すと、そのほとんどが男性となっています。
津田梅子が生きた明治時代から昭和初期は、今よりもはるかに女性の地位が低く、女性が高等教育を受けることがいかに難しかったかがわかります。
実際、津田梅子は留学経験を通して、日本とアメリカとのギャップに愕然としたようです。中でも、男女の格差には大きなショックを受けており、女子英学塾設立のきっかけにもなりました。「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指した彼女の精神は、現在の津田塾大学にも受け継がれ、日本社会にも大きな影響を与えています。
1985年に制定された男女雇用機会均等法は、女性の社会進出の大きなきっかけとなりました。
津田梅子が目指した女性の地位向上は、未だに日本の課題として残っているものの、女性の大学進学率の上昇に伴い、総合職の女性が少しずつ増えてきている現状もあります。
2015年に執行された女性活躍推進法や、2021年に育児・介護休業法が改正されたこともあり、男性の育休取得や女性向けの特別休暇の制定などの、働く環境をきちんと用意する取り組みを日本は積極的に行うようになってきています。
それでも世界的に見ると、まだまだ日本はジェンダー平等に遅れをとっています。
女性の生き方や働き方が多様化していること、柔軟な働き方ができる環境が必要であることを、認識しておきましょう。


◎【新千円札】新紙幣の人物「北里柴三郎」とは?

北里柴三郎は近代日本医学の父とも呼ばれ、予防医学の礎を築いた人物です。
・北里柴三郎の軌跡
北里柴三郎は、1853年に熊本県阿蘇郡小国町にて、代々庄屋を務める家系に生まれました。もともと軍人を目指していましたが、両親の反対もあり18歳で熊本医学校(現・熊本大学医学部)に入学します。オランダ人医師のコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに師事したのち、1874年に上京して東京医学校(現・東京大学医学部)でさらに医学の知識を深めました。
東京医学校において「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、予防医学の道に進むことを決意します。東京医学校卒業後は、内務省衛生局に入局し1886年から6年間に渡りドイツ留学を果たしました。

ドイツでは、病原微生物学研究の第一人者であるローベルト・コッホに師事し、北里柴三郎のテーマでもある予防医学について学びます。留学中には、破傷風菌の純粋培養に成功しました。さらに、免疫抗体の発見にも至り、血清療法を確立しています。この業績は前人未踏であり、北里柴三郎は世界的な研究者として脚光を浴びるようになりました。

1892年に帰国すると、福沢諭吉のサポートを受けて日本初の私立伝染病研究所を創立します。1894年には、香港で猛威を振るっていたペストの原因調査を行うため現地に渡り、世界で初めてペスト菌を発見しました。
その後も北里柴三郎の活躍は続き、1914年には国立伝染病研究所所長を辞任し、私立北里研究所を設立します。1931年に78歳でその生涯を閉じますが、明治から大正にかけて予防医学や感染症医学に関する多くの業績を残しました。現在も、北里柴三郎の想いは学校法人北里研究所に受け継がれています。

・北里柴三郎の功績
北里柴三郎は、後進の育成にも尽力しています。例えばハブ毒の血清療法を確立した人物として知られる細菌学者の北島多一や、黄熱病の研究者である野口英世、赤痢菌を発見した志賀潔なども北里柴三郎の弟子です。
また、自身の研究所である私立北里研究所のほかにも、慶應義塾大学医学部の創設や日本医師会の設立など、数多くの医療に関する社会活動にも従事しました。特に慶應義塾大学医学部は、北里柴三郎の研究をサポートした福沢諭吉への恩義に報いたものであり、医学部長や顧問として、人生をかけて発展に力を添えています。
長きに渡る彼の業績は、現代の日本における公衆衛生にも影響を与えました。これは、北里柴三郎が信念として持っていた「病気を未然に防ぐ」という予防医学への想いが形になったといえるでしょう。

・北里柴三郎と感染症やワクチンの問題
1918年、当時猛威を振るっていたスペイン風邪(インフルエンザウイルス感染症)に対峙するため、私立北里研究所は国立伝染病研究所とワクチン製造や治療法の開発について先陣を争っていました。当時はウイルスがまだ知られていない時代で、北里柴三郎はインフルエンザウイルス感染症の原因が細菌にあると仮定してしまいます。一方の国立伝染病研究所では、細菌よりも小さな病原体が原因であると捉えていました。
当時は細菌学が主流だったこともあり、北里柴三郎の誤りも致し方ありません。彼が亡くなって2年後に電子顕微鏡が発明され、ウイルス研究の時代が訪れます。北里柴三郎の研究には間に合わなかったものの、彼が培った細菌学や予防医学の功績は、現代のウイルス研究にも大いに影響しているでしょう。

感染症といえば、今もなお猛威を振るい続ける新型コロナウイルス感染症が身近なものとして挙げられます。学校法人北里研究所では、新型コロナウイルス感染症に関する対策プロジェクトとして、ワクチン開発や検査薬の開発などを手がけており、ここにも感染症予防と向き合い続けた北里柴三郎のスピリットが感じられます。
今回は、2024年に発行予定の新紙幣に描かれる人物のうち「津田梅子」と「北里柴三郎」について詳しく解説しました。
津田梅子は、日本の女性がより活躍できるための基盤を築いた人物です。いまだ、ジェンダー・ギャップ指数が低い日本ですが、津田梅子や後に続く活動家の功績もあり教育分野では高スコアを獲得しています。これからの日本においても、女性がより生きやすく活動しやすい社会を目指した活動家たちの意志が受け継がれていくでしょう。

また、北里柴三郎は、日本の近代医学において忘れてはならない人物です。新型コロナウイルス感染症が広まる中、彼の残した功績は多くの人々の命を救うことにも繋がっています。
現代に暮らす私たちの豊かな日々は、彼らの功績なしでは語れません。こうした人物だからこそ、新紙幣の肖像画として選ばれたといえるでしょう。