龍の声

龍の声は、天の声

「会津の掟」

2013-10-20 08:11:25 | 日本

同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていた。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となった。
毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行っていた。


一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

※什により、一つ二つ違うところもあったが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないようである)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通だった。
そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」した。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えました。

一、無念(むねん)
一番軽い処罰である。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをする。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味である。

二、竹篦(しっぺい)
いわゆる「シッペ」である。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めた。
仲がいい相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じた。

三、絶交(ぜっこう)
一番重い処罰である。これを「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれ」でした。めったに加えられる罰ではないが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができなかった。

四、その他
火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もあった。
子供にとって仲間たちから受ける審問は辛いものではあるが、「お話」も「制裁」もすべて大人たちに言われてつくったものではなく、子供たちが制約や強制を受けずに自分たち自身でつくり、「会津武士の子はこうあるべきだ。」ということを互いに約束し、励み合ったのである。



※薩摩の郷中教育にも似ている。
子供の教育を自発的に如何に立派にするか。そのことが、その藩の行く末を担う、強固で立派な人材育成の場となっていたことがわかる。
今日の日本でも、地域性を生かし、子供の自発性を取り入れた教育体制を地域一丸となって復活させていくべきである。
さすれば、「修身・斉家・治国・平天下」地域も社会も、ひいては国家も立派な人材が排出でき、自立ある国創りが可能となる。





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