龍の声

龍の声は、天の声

「戦争の神と呼ばれた男 石原莞爾とは、③」

2013-12-28 09:01:08 | 日本

◎エピソード

幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。

・明治28年(1895年)、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。

・仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学・植物学・ドイツ語が特に高得点であり、三年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。

・当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。

・石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。

・自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという。

・陸軍士官学校でも軍事学よりも歴史学や哲学の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。

・石原は酒やタバコをたしなまなかった。将校団の宴会の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。以後、連隊長に気に入られることはなかった。ただしかなりの甘党で、菓子を食べながら議論や勉強をすることを好んでいた。

・若松連隊にいた頃には銃剣術の教育を激しく行い、訓練を受けた中隊全員が石原に殴られ、上官と意見が衝突して論争した。

・陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。

・陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになる。ところが最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。

・陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったと言う説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためと言う説、朝敵であった庄内藩出身であったためと言う説があり、明らかではない。

・ドイツ滞在中は、どこに行くのも羽織袴で押し通したとされているが、あくまで正装のときであり、普段はスーツを着用していた。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評されたライカのカメラを購入し愛用していた。

・石原はその奇行が面白おかしく脚色されることもあったが、とは言え相当な変わり者であったことも確かで、東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した。

・歩兵第4連隊(第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい東北出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵にお土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したと言われる。

・聨隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしている。突然、にわか雨が降ってきても、中隊長は訓示を止めない。そのとき、石原は「中隊長のバカヤロー、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴った。

・上層部や上官の多く対して嫌悪感と敵対心を顕わにした石原だが、阿南惟幾は数少ない別格で、「阿南さんが言うなら……」とその指示に素直に従ったという。

・戦後、病で動けなくなっていた石原は、昭和21年(1946年)東京飯田橋の逓信病院入院中、検事から尋問を受けたが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手を睨みつけた。同席した米記者マーク・ゲインは「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評した。

・酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーをひいていたのが、寧柱と大山倍達だと言われている。

・その東京裁判出張法廷では判事に、歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる。」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ。」と持論を披露した。

・東條を嫌っていたが、真崎甚三郎も毛嫌いしていた。石原が満州からの参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」とほめちぎった。真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。

・二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫大将がやって来たとき、石原は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってバカとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ?」とさらに言い返した。そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入ってその場をなんとかおさめたという。



<了>








最新の画像もっと見る