皆さん皆既月食見られましたか?私は帰り道に夜空を見上げると空は薄い雲に覆われていて隙間から欠け始めたと思われる月が見えるくらいで、さらにだんだんと雲に隠れて見えなくなっていくという状態でした。なので今回は見るのは諦めようかと思ったのですが皆既月食が終わる20分くらい前の20時00分くらいに家の外に出て夜空を見上げていると雲から出て見えてきたので撮影してみました。
まっ、毎度のことですが私の腕ではこの程度です。何か高い建物と一緒に撮影したいんですが何もないので月のアップの画像だけです。
皆さん皆既月食見られましたか?私は帰り道に夜空を見上げると空は薄い雲に覆われていて隙間から欠け始めたと思われる月が見えるくらいで、さらにだんだんと雲に隠れて見えなくなっていくという状態でした。なので今回は見るのは諦めようかと思ったのですが皆既月食が終わる20分くらい前の20時00分くらいに家の外に出て夜空を見上げていると雲から出て見えてきたので撮影してみました。
まっ、毎度のことですが私の腕ではこの程度です。何か高い建物と一緒に撮影したいんですが何もないので月のアップの画像だけです。
烏山寺町で1つだけ別枠で取り上げることにしました。それはこちらのお寺には清泉が湧くお池があるからです。こんなお寺が密集した場所に不思議な感じでそのお池はありました。
所在地:世田谷区北烏山4-30-1
概要
臨済宗大徳寺派に属し、松葉山高源院と号する。本尊は釈迦如来の座像で足利時代の作といわれるが詳らかでない。開山の怡渓和尚の木像が安置してあるが、これも作者、時代ともに不詳。
元禄15年(1702)久留米藩第5代藩主有馬頼元公および夫人のために、怡渓宗悦和尚が開山した。はじめは品川東海寺の塔頭として、北品川に東海寺と称して建立されたが、後有馬頼元公夫人の法号養福院殿高源宗隆大姉から高隆院と称した。明治26年ごろより無住となり、関東大震災によって廃寺となった。昭和10年ごろから有馬氏一族の有志が再建をはかり昭和14年現在地に移転したが、太平洋戦争のため再建計画は中絶している。
敷地内は植木が多く春はつつじ、夏は睡蓮、秋は萩など四季のながめがよい。特に庭内に清泉が湧いて池を作って、中央に浮御堂を建て、弁財天がまつってある。この池に昭和35年の秋から鴨が越冬するようになった。小鴨・軽鴨・真鴨が飛来し、軽鴨の産卵孵化がみられ、都会地としてはたいへんめずらしい場所である。
寺内には頼元公夫人の墓、切支丹燈籠がある。
開山の怡渓和尚は江戸時代の茶道石州流怡渓派の祖として有名である。(せたがや社寺と史跡より)
高源院山門
高源院本堂
赤い橋を渡ると高源院弁天堂です。
そしてこちらの池が概要にもあった清泉が湧くお池です。鴨は見かけませんでしたが鯉や亀が泳いでいました。
弁天堂が逆さまにきれいに水面に映ります。東京の名水57選に選ばれているらしいですよ。
明日は雨という天気予報でしたので今日のうちにどこかへ散策しにいこうと思い高井戸周辺を散策することにしました。
まずは吉祥院(高井戸不動尊)へ向かいました。
吉祥院(高井戸不動尊)長い参道ですね。
象頭山吉祥院
所在地:東京都杉並区高井戸西1-5-44
概要
当院は象頭山遍照寺と号する天台宗の寺院で、本尊は不動明王坐像です。中興開山は上高井戸村の並木卓善で、明治十六年(一八八三)に開創されました。
並木卓善は成田山不動尊を信仰し、明治八年に成田山新省講を結成、さらに講中の寺院を創設しようと図りました。しかし、当時は寺院の新設は禁止されていたため、谷中(現台東区)の吉祥院(江戸初期に霊岸島に開創され、のち谷中に移転、寛政年間に松平定信の崇信を受け大寺席となったと伝えられます)の住職に二世晃恭が就任し、当地に移転するという形で、明治十六年に開かれたのが当院のはじまりです。
当院は、新省講の祈願寺として信徒の信仰を集めました。大正五年(一九一六)に刊行された「東京府豊多摩郡誌」では、そうした当院の様子を「毎月廿八日寳客多し、殊に節分会及二月十五日は信徒の詣づるもの頗る多く境内立つ錐の地なし」と伝えており、今日でも東京西北部一帯の人々に広く信仰されています。
現在の本堂は文化三年(一八〇六)の建築で、開創の年に移築したものです。また、境内の諸石像を配置した築山は、成田山を模して造られたものといわれています。なお、当院は信徒から寄進された多くの記念石碑のほか、江戸時代につくられた大日如来像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像などの仏像も所蔵しています。(杉並区教育委員会掲示より)
吉祥院本堂
左右にお立ちになられているのは童子像でしょうか?
吉祥院成田山
一瞬、富士塚を思い浮かべましたがこちらは成田山を模した築山だそうです。
築山の上には不動明王や童子像がびっしりとならんでいました。
そういえばしばらく富士塚巡りしてないな。
吉祥院をあとにしてしばらく歩くと神社が見えてきました。
第六天神(高井戸天神)
所在地:東京都杉並区高井戸西1-7-2
概要
この神社は旧上高井戸村の鎮守で、祭神は面足之命、惶根之命です。明治以前は第六天神と呼ばれていました。
創立年代は詳らかでありませんが、鎌倉時代の頃ではといわれています。天保年間(一八三〇~一八四三)には本殿、拝殿が焼失してしまい、しばらく仮殿がありましたが、安政三年(一八五六)に現在の本殿ができ、最近更に中央高速道路新設にともない、鉄筋の覆殿が昭和五十年にできました。
明治以前の祭日は十一月二十二日で、宵宮になると農作業を終えた近所の人びとが、当番制で五人ずつ拝殿にこもり、お神酒を飲みながら世間話に興じ夜を明かしたということです。この「おこもり」の風習も昭和四十年頃には途絶えてしまいました。また昭和の初め頃まで「雨乞い神楽」がありました。これはお祭りをすると必ず雨が降ると伝えられていたため、日でりが続くとお祭りをして神楽を奉納しました。(杉並区教育委員会掲示より)
第六天神社拝殿
すごい数の境内社が並びます。
左から稲荷神社、稲荷神社、氷川神社、天祖神社、、浅間神社、白山神社、秋葉神社。
稲荷神社が2つありました。
第六天神社から医王寺へやって着きました。
明星山遍照院医王寺
所在地:東京都杉並区上高井戸1-27-15
概要
この寺は明星山遍照院医王寺といいます。寺伝によると、承和元年(八三四)弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したといわれています。また本堂は西に向いており、一名西向茅野薬師ともいわれます。
墓地から出た板碑の中に、文和五年(一三五六)と応永七年(一四〇〇)のものなどがあり、開山の古さを物語っています。
江戸時代以後、この寺が「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月十二日、「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者でにぎわっています。また旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があります。
明治の初め廃寺になりましたが、本堂は高井戸学校の前身であった高泉学校の仮校舎として使用されました。薬師堂だけは関東大震災の大正十二年(一九二三)まで、現在地より南側の甲州街道に面したところに残っていました。その後大正十三年、今の場所に再興しました。(杉並区教育委員会掲示より)
医王寺山門
医王寺本堂
お庭の砂利がきれいに模様を描いていました。枯山水というやつですね。
医王寺から烏山寺町にやって来ました。
関東大震災後、浅草や築地など当時の東京市から焼け出された集団移転したが始まりだそうです。下の画像のとおりで26の寺院が並ぶそうです。
私、端から全て歩いてみました。全部ご紹介すると大変なので印象にのこったお寺さんだけアップします。
原立山妙高寺
所在地:東京都世田谷区北烏山6-23-1
概要
日蓮宗で、田立上人によって寛永2年(1625)、江戸浅草に創立された。代々水野家の帰依を受けていた。関東大震災後、現在地に移転した。
妙高寺山門
妙高寺本堂
こちらが水野忠邦墓所だそうです。あの天保の改革で有名な老中の水野忠邦です。
ただ正式な墓所は茨城県結城市の旧万松寺跡のようです。
詳しいことは調べたのですがよくわかりません。おわかりになる方お教えください。
次に気になったのがこちらです。狸の置物がたくさんありました。
法律山常福寺
所在地:東京都世田谷区北烏山2-8-1
こちらは珍しいインド様式のお寺さんです。
天護山妙祐寺
所在地:東京都世田谷区北烏山4-16-1
概要
浄土真宗本願寺派寺院の妙祐寺は、天護山と号し、寛永2年(1625)渋谷村宮益坂に了頓法師が、廃寺となっていたものを再建しました。昭和21年に当地へ移転しました。
そば禁制の碑があった称住院さん。
一心山称住院
所在地:世田谷区北烏山5-9-1
概要
当寺は慶長元年(1596)白誉称往上人により湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、さらに関東大震災により昭和2年当地に移転した。
本尊は丈六の阿弥陀如来である。浅草のころ当寺は、寺内の道光庵庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られたが、修行の妨げになるとして天明6年(1786)「そば禁制」の碑が当寺住職により建てられた。
この碑は同庵にあった俳人宝井其角の句碑・墓とともに現在、当寺に残されている。(世田谷区教育委員会)
称住院山門
称住院本堂
ことらが概要にあった、修行の妨げになるとして天明6年(1786)に当時の住職によって建てられた「そば禁制」の碑。
喜多川歌麿のお墓がある専光寺さん。
霊照山蓮池院専光寺
所在地:東京都世田谷区北烏山4-28-1
専光寺本堂
喜田川歌麿の墓
東京都教育委員会掲示板
烏山寺町から蘆花恒春園を目指しました。
途中もまた神社仏閣、食のリポートも入れたいぐらいでしたがお目当てのお店はもう閉まってました。
明星山遍照院医王寺の境外仏堂薬師堂
所在地:東京都世田谷区南烏山2-23-1
念仏堂の山門と本堂
江戸中期の作といわれる釈迦涅槃像。
もっと大きいのかと思っていたら意外と小さかったです。
念仏堂の近くには烏山神社があります。
烏山神社
所在地:世田谷区南烏山2-21-2
祭神は白山比大神をはじめとする五柱。創立の由来はあきらかではないが境内の手水鉢には元文元年(一七三六)の紀年がある。
白山御嶽神社ととなえていたが、昭和三十七年町内の天神社、神明社、稲荷社を合祀し、烏山神社と改称したものである。このあたりに泉澤寺という寺があったが、天文年中(一五三二~五五)に橘樹郡(現在の川崎市内)に移され、字名として残っている。(世田谷区教育委員会掲示より)
烏山神社鳥居
烏山神社拝殿
廬花恒春園へ向かう途中にお地蔵さまを見かけました。
粕谷村地蔵尊
元禄時代、飢饉や厄難除け建立したそうです。
そして今日の最終目的地、蘆花恒春園へと辿り着きました。
明治から大正にかけて活躍した小説家富徳蘆花が明治40年から昭和3年まで過ごした場所です。
祈念館の他、当時のまま保存された母屋や書院が見学できます。
中は意外と広く、オルガンや電話があり当時としては裕福なくらしだったようです。
いや~今日はよく歩きました。少し痩せたかな~ってそんなあまくないか・・・。
世田谷代官屋敷跡から松陰神社へやって来ました。
所在地:東京都田谷区若林4-35-1
概要
明治15年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。
松陰は安政3年(1856)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。
松陰は安政大獄のときに処刑されたが、後ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。(世田谷区教育委員会掲示より)
松陰神社拝殿
松陰神社神楽殿
吉田松陰先生像
(鋳造:平成25年 ブロンズ)と説明書きにありました。最近、出来た像なんですね。)
松下村塾の摸の横にも何製かはわかりませんが像がありました。
松下村塾の摸
床の間に会った掛け軸の肖像画。
入口には松下村塾の看板がありました。
石灯籠
境内には32基の石灯籠が奉納されており、毛利元昭、伊藤博文、山形有朋などの縁故者により奉献されたそうです。
手前の鳥居は木戸孝允(桂小五郎)が奉納したものだそうです。
画像中央が吉田松陰先生墓
辞世の句
「身はたとひ 武蔵野野辺に くちぬとも 留め置かまし 大和魂」
実際にお会いしてお話したことがないので私はわかりませんが歴史好きの方には今でも尊敬していらっしゃる方が多いようです。
伊井直弼と意外に近い地に眠っていられるんですね。
東急世田谷線 松陰神社前駅
2両編成の可愛い電車ですね。