スヌスムムリクの生々流転日記

過ぎ行く日々の風景(2012.5.4~)ご訪問ありがとうございます。

赤坂見附から神宮外苑まで 歴史と紅葉の散策路

2014-11-24 21:53:37 | まち歩き

季節がら神宮外苑の銀杏並木の様子を最初にアップしましたが実は赤坂見附駅から散策しながら辿り着いたのでした。

赤坂見附駅で降りて一ツ木通りへ出るとまず赤坂不動尊の文字が目に入って来ました。

赤坂不動尊威徳寺

所在地:港区赤坂4-1-10

概要

真言宗智山派寺院の威徳寺は、智剣山阿遮院と号します。赤坂不動尊威徳寺は、伝教大師が唐より帰国の途中、暴風雨で船が沈みそうになり海に沈めて祈願した御自作の不動明王が、天安2年(858年)越後出雲崎の漁師が拾い上げ、祀ったことにより創始したと伝えられます。慶長5年(1600年)住僧良台(元和3年1617寂)が赤坂一ツ木へ移転し開山、江戸時代には紀州徳川家の祈願寺となっていた他、御府内八十八ヶ所霊場75番札所となっていました。

赤塚不動作音本堂 

右側にはお不動さまの石仏がありました。

一ツ木通りから円通寺通りへ入るとやや上り坂になりました。

こちらが通りの名の由来であろう円通寺。

所在地:港区赤坂5-2-39

概要

日蓮宗寺院の円通寺は、佛智山と号します。円通寺は、佛壽院日通上人が開山となり寛永2年(1625)創建、元禄8年(1695)類焼により、当地に移転したといいます。

急な坂の三分坂を下ると報土寺があります。

ちなみに三分坂は当時、駕篭などで通る時は運賃が三分増しだったそうです。

土を突き固めて屋根をかけた築地塀(練塀)は230年以上前のものだそうです。この塀の傾き方を見ると坂の角度がよくわかります。

報土寺仏殿

こちらが江戸時代の伝説の力士雷電為右衛門のお墓です。力石がありますね。

氷川神社に向かう前にちょっとだけ遠回りして「南部坂」へやってきました。

江戸時代初期に南部家の中屋敷があったためと書かれてありました。

大石内蔵助は討ち入りの前日に瑶泉院を訪れたといわれ、講談「南部坂雪の別れ」の舞台となったといわれている坂です。年末時代劇とかでよく見るシーンですね。大石内蔵助になったつもりで歩きました(笑)。

赤坂氷川神社

所在地:港区赤坂6-10-12

概要

赤坂氷川神社の創建年代は不詳ながら、古呂故ヵ岡(赤坂小学校台地)に天暦5年(951)創建したといいます。徳川吉宗が将軍に就くにあたり、当社が紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神であった縁から、享保14年(1729)当地に遷座、社領200石の御朱印状を拝領したといいます。明治31年古呂故稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷を合祀(四合稲荷)、大正14年に、鈴降稲荷神社、縁起稲荷神社二社を、また昭和9年に、明徳稲荷神社を、遷座合祀したといいます。

赤坂氷川神社一之鳥居

赤坂氷川神社二之鳥居

奥に白無垢のお嫁さんが写っていますのがわかるでしょうか?

おめでたいですね~。

下の画像の右側の看板

この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。(東京都教育委員会掲示より)

赤坂氷川神社拝殿

特段、願い事もないのでさっきの新婚さんが末永く幸せであるようささやかながら祈っておきました。

浅野土佐守邸跡(あさのとさのかみていあと)

 

元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は寛永九年(1632)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で娘には播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室になった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。

元禄一四年(1701)三月一四日浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切り付けた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命ぜられ領地没収の上、家は断絶にとなりましたそのため長矩の正室阿久里は出家し瑶泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(1714)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三次藩主長澄であったことから「浅野家土佐守邸跡」として標識されました。

三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(1718)、に断絶となり遺領は広島藩へ還付されます。享保一五年(1730)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され今日になっています。

                                  平成二五年三月 建設 東京都教育委員会

 

絵馬殿

門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一~二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)閏四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。(東京都港区教育委員会掲示より)

あれ~め組じゃないの~ってそれは時代劇か・・・。

御社殿の左側の方にあった境内末社

御社殿右側の鳥居 

山茶花の花が左右に咲いていました。

左側になぜか立派な赤い橋があります。水が流れていました。

四合稲荷神社(しあわせいなりじんじゃ)

正一位 西行稲荷神社鳥居

正一位 西行稲荷神社鳥居

岩に穴が開いていてその中にお稲荷さまの人形、画像中央の木の陰に布袋様の銅像、そして祠が一つあります。

結構な階段を登れば境内です。

そしてこちらの境内は大きな銀杏が何本か植えられているのです。

一度紅葉の時期に来てみたかったんですよね。

以前、東京十社巡りをしていて、その時に訪れた際は夏で蚊に刺されのをよ~く覚えています(苦笑)。

こちらは樹齢400年の銀杏の木です。

陽射しに照らされきれいな黄色ですね~。

赤坂氷川神社を出てふと、思い出して向かったのがこちら。

どこにあったのかすっかり忘れていました。

下の画像の中央やや右側に柱が立ちその下に案内板があることにお気付きでしょうか?

こちらはあの勝海舟の家の跡です。柱には勝海舟邸跡の文字が書かれています。

なんかすごい時代の流れを感じますね~。

勝海舟邸跡をあとにして檜町公園へやって来ました。

こちらは長州藩下屋敷があった場所で、美しい庭園が当時の面影を残しています。

楓がよく紅葉していますね。

大きなあづま屋では大勢の人が景色を眺めたりおしゃべりしたり楽しんでいました。

柳の枝も趣があっていいですね。

水が流れています。奥の楓も綺麗に紅葉しています。

茶色の葉もいいですね~。

紅葉した楓が密集していてとてもきれいでした。

檜町公園からミッドタウンの前を歩き野木神社へ向かいました。

ミッドタウンにも寄りたかったのですが時間がなかったので素通りです。

赤いクリスマスツリーの向こうには白いクリスマスツリ-

乃神社へやってきました。

乃木神社

所在地:港区赤坂8-11-27

概要

乃木神社は、日清戦争や日露戦争で活躍した陸軍大将乃木希典が明治天皇に殉じて自決、明治神宮が鎮座した後の大正12年乃木邸に創建、大正13年に府社に列格したといいます。

乃木神社一之鳥居

境内社赤坂王子稲荷神社鳥居

やはり赤い鳥居が並びます。

赤坂王子稲荷神社祠

乃木神社二之鳥居

あれっ、こちらも結婚式が行われていす。しかも二組。

乃木神社拝殿。

正松神社

旧乃木邸

厩(うまや)

明治二十二年に新築されたものだそうです。煉瓦がいい感じでした。

乃木邸

明治時代の陸軍大将乃木希典が澄んだ家です。

乃木家祖霊社

この小社には、乃木家祖先と御令息との御霊をお祭りしてあるそうです。

このあと神宮外苑まで歩きました。