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Rolling 55

「転がる石は苔生さず」いつまでも、いつまでも転がり続け・・・
お池にハマって、さぁ大変!  by belage

イタリア紀行[14] バチカン市国・バチカン美術館①

2013年08月08日 16時10分21秒 | イタリア紀行2013

ローマでのもう一つの最大の見所はこちら。

この度、コンクラーベによってフランシスコ法皇が選出されたばかり。あのニュースを聞いて、
システィーナ美術館のミケランジェロの「最後の審判」をもう一度見に行きたくなったのが
今回のローマ行きの最大の眼目でありました。

朝一でホテルを出てテルミニ駅から地下鉄で最寄り駅「オッタビアーノ」駅を降りて、大勢の
観光客と思しき人の群れに付いていくと、5分も歩くとバチカン市国の城壁にぶつかります。
この城壁に沿って右折して。

城壁には様々なレリーフが穿たれて。
このちょっと先にバチカン美術館の入り口が。実は駅を下りたところから、ボクのような
観光客らしき人間に現地のダフ屋さんみたいのがひつこく声を掛けて来ます。「予約が
ないと入れないよ」とか「予約がないと1時間以上待たないといけないよ」って。事実この
レリーフの辺りから入場券を求める人の行列が。朝一で開館前30分には着いていましたが、
既に300百人くらいが列をなして。

これって6,7年前だったか記憶が薄いのですけど、例の小説「ダ・ヴィンチ・コード」の
世界的流行で、イタリア各地の美術館がメチャ混むようになって。

ダフ屋さんの言い値は普通入場券の概ね3倍の値段。決して買ってはいけませぬ。どんな
混んでいても、日本と違い必ず入れますので。この日も30分もかからず無事入場出来ました。

因みにこのバチカン市国の起源は326年にコンスタンティヌス1世が当地を聖ペトロの墓所
と定め、最初の教会を建立したことに始まります。尚、バチカンが市国として独立したのは
比較的新しく1929年にイタリアとバチカンの長く続いた諍いを調停したムッソリーニ政権時代。

入り口で手荷物検査を済ませて。巨大なシカの彫像がお出迎え。

フランシスコ法皇もこうしてボク等を出迎えてくれて。

美術館入り口は2階にあるんですが、その前は大きなピロティになっています。折からの俄か
雨が降って来ましたが、そんなものもものかわ、入場者の殆どはこのピロティに出て記念撮影。
はい、ボク等もご他聞にもれずで(笑)

向こうに見えるのはサン・ピエトロ寺院のドームです。

ピロティから見た庭園。こちらには過去四回くらいお邪魔しているんですけど、未だこの庭園に
足を踏み入れたことがない。いつも、あのミケランジェロの最後の審判を見るとすぐ外に出され
ちゃうんですよね(苦笑)
それと最後の審判をずっと立ったまま30分以上も見続けるとほんと疲れちゃうので(特に首が
爆)

次回はもうちょっと館内地図でもよく見て探索しないといけません。

 

ー続くー


イタリア紀行[13] ローマの巨大なスパ「カラカラ浴場」③

2013年08月07日 09時18分20秒 | イタリア紀行2013

この巨大遺講をモノトーンで。アーチの上には草が。
ちょっと昔の栄華と対比すると物悲しい気持ちに。

この広大な敷地を歩いて皆さんお疲れ様で、ベンチに座って一休み。
かく言うボクもこちら側のベンチで休息しながらの撮影です。

イタリアの風景で特徴あるのはこの笠松。日本にはないのかなぁ。ボクはお目にかかった
ことがないのですが。放おって置いても自然に笠を被ったように成長するんだそうです。

カラカラ浴場の入り口前のとおりにはこの笠松街道が。
今回は訪問しませんでしたが、あのローマの軍用道路で有名なアッピア街道もこの
笠松並木が有名です。

そうそう、英語で「マイルストーン」という言葉がありますが、これはローマが発祥。
世界に広がるローマの道にはローマン・マイルの道標が立てられていたそうです。

 

ーこの項おしまいー


イタリア紀行[12] ローマの巨大なスパ「カラカラ浴場」②

2013年08月06日 08時01分08秒 | イタリア紀行2013

ボクなんぞはこういう遺跡に来ると妙にワクワクしてしまいますが、この日の観光客は
とても少なく、広いのでよくわかりませんが見かけたのは10組くらいかしら。
ゆっくり見学ができました。 

この前を行く男性二人。モロッコから来られたそうです。ボク等とお互いに写真を撮り合ったり
して。兄弟で観光ですって。綺麗な英語を喋ってました。

 

ここは劇場の跡でしょうか。ステージの用意が中央の広場に設えられて。
現代ではこの劇場跡で夜間に観劇会とか音楽会が催されたりしているそうです。
あの三大テノールの面々もここでコンサートを行った由。いやぁ、いいですねぇ。きっと音響効果
もいいんじゃないかと思います。

 

広場の片隅に置かれたモザイク画。なんというのびのびとしたタッチでしょう。描かれて
いるのは神話のシーンでしょうか。魚は鯉に見えるのですが。このモノトーンというのも
いいですねぇ。

床のタイルの修復をしている二人。小さな欠片を手にああでもない、こうでもないと
やっていました。まるでジグゾーパズルの世界なんでしょうね。ボク等は出来上がった
姿を見てう~だか~だと無責任なことを言ってますが、こういう地道な努力があって
こそ。

夕暮れ時近く。20世紀近くをタイムスリップして、なんだかタイム・トラベラーになった
気分に浸りました。

 

ー続くー

 


イタリア紀行[10] 古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」④ 

2013年08月04日 09時44分48秒 | イタリア紀行2013

凱旋門の傍らにこの三本の柱が残されています。「コンコルディア神殿跡
ローマ神話の女神コンコルディアを祀ったもので、女神コンコルディアは和合の神として
知られています。
現在表に見えるのはこれだけですが、幅45m,奥行き24mとかなり大きな神殿で、
横幅が奥行きよりかなり大きいというのも特徴があります。
創建は紀元前4世紀。その後何回か再建され最後の再建が紀元7から10世紀の
アウグストゥス皇帝の時代と言われています。その後1450年に完全に崩壊して
19世紀の発掘を待つことになります。

20数年前に当地を訪れたときはこんな柱がごろごろしていました。神殿の残った柱が異様に
目立った記憶があります。今は遺跡の近くまで行くことは出来ませんが、当時は自由に間近で
見ることが出来ました。

それにしてもこの文様の素晴らしいこと。どうやったらこんな複雑な文様ができるんでしょう。
大理石の生成は石灰岩がマグマの熱を受けて再結晶して出来ると教わりましたが、かなりの
地殻変動の歴史なんでしょうね。

こちらは「アントニウス・ピウスとファウスティナ」の神殿跡。白いコリント式の柱が残っている
部分がその遺講です。141年に没したアントニウス皇帝の皇后ファウスティアのために建立
した神殿。アントニウスも没後この神殿に祀られて、墓地の発掘でそれがわかったそうです。

後ろにある円形の建物はこの神殿の後に建設された「サン・ロレンツォ・イン・ミランダ聖堂」。
ローマがキリスト教を認めるようになって建設されたものですが、当時のカタチではなく、現在の
このカタチは1602年の再建のものです。

内部を見ると現代のキリスト教会と殆ど変わらぬアーチが。まだこの時代にはあの
ゴチック建築で採用されたフライイング・バットレスの建築工法はなく、天井が低いです。

 

はげ落ちたフレスコ画。残念ですね。右側にはマリア像が。

 

左側はキリスト像でしょうか。

天井のドームが素敵ですが、これは最近修復されたものでしょうね。白い漆喰がかなり
新しいです。20数年前の訪問時には見られなかったシーンです。
このフェロ・ロマーノはまだまだ発掘が続いているようで、新たな発見もあるようです。

前回、ナポリの近くのポンペイに行きましたが(5年前かな)、これもかなり発掘が進んで
以前の記憶と全く違う町並みが現出しておりました。でも、最近のニュースを見ると維持
管理費用が確保できず荒廃が進んでいるとか。最悪世界遺産登録抹消の危機にある
とか。で、イタリア政府も緊急融資を受けて修復維持に手を染めることになりましたが、
向こう数年は殆どの遺跡が閉鎖されるとのこと。5年前に見ておいて良かったと思った
次第です。

 

ーこの項おしまいー

 

 


イタリア紀行[9] 古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」③ 

2013年08月02日 16時55分20秒 | イタリア紀行2013

フォロ・ロマーノの西側にもこんな立派な大理石造りの凱旋門が。先に紹介した東側の凱旋門
比べるとちょっと小ぶりですけど、装飾が見事です。

セプティミウス・セウェルスの凱旋門」と呼ばれ、セプティミウス・セウェルス皇帝のパルティア
遠征の戦勝記念として203年に建造されたもの。高さ23m,幅25mの威容を誇っています。
内部のアーチに刻まれたレリーフ模様は見事なもので、パリの凱旋門もこの部分はこちらの
凱旋門を真似たように思われます。

四頭立ての戦車のレリーフ。あの映画「ベン・ハー」のコロッセウムでの競技シーンを
思い浮かべてしまいます。あの映画は紀元前4年頃の時代背景であったと思いますが、
この200年位の時代にも同じようなカタチの戦車が活躍していたんですね。
因みにこの映画はハリウッド映画ですけど、撮影の大半はローマの「チネチッタ撮影所
で行われたそうです。ムッソリーニの総指揮の下建設されたこの撮影所は欧州最大の
撮影所として知られ、ボクの大好きなフェリーニ監督の「1/8」「甘い生活」とかヴィスコンティ
監督の「白夜」等同の名作を多数生み出しています。

考えてみるとボクの青春時代のヨーロッパ映画って全盛時代でありました。その中でも
イタリア映画は燦然と輝いていましたねぇ。

パラティーンの丘を下ったところ。皇帝やら高官の居住区であり、白い柱が見えるのは
神殿跡。かつてフォロ・ロマーノのとして整備される前のこのあたりは一面湿地帯であった
そうな。20世紀以上も経つとその面影は全くありません。

これが写真を撮った本人もどこを撮ったのか分からないで苦労しています(笑)多分構造的に
元老院の跡のような気がしますが(間違ったらごめんなさい)。元老院もこのフォロ・ロマーノ
の中に数箇所あるそうで、どうもどこかどうだか、詳しい説明資料がないので不案内で申し
訳ありません。

もし、そうだとすると写真中央の石は当時の演壇であった可能性が。

 

こちらはパラティーンの丘に繋がる斜面にある建物。「巫女の家(Casa delle Vestarli)」。まだキリスト
教がローマの正教となる前は色々な神を祀っていましたが、その神事を行う巫女さんたちの家です。
この上のほうにはカエサル(シーザー)が大神祗官であった時代の建物があるそうです。
この建物は斜面に沿って作られており、建物自体が擁壁を兼ねている設計になっていると思われます。

 

ー続くー


イタリア紀行[8] 古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」② [パラティーノ博物館]

2013年08月01日 11時12分00秒 | イタリア紀行2013

パラティーノの丘の片隅にちょっと小さめの博物館が。この丘から出土された古美術が
展示されています。 

 

ミロのビーナスはギリシャ時代の傑作ですが、ローマ初期と思われるこれらの彫刻群と比べると
人体描写が随分と違ってきているような。あの、ミロのビーナスに見られるような肉感的な魅力
は影を潜めているようです。これはローマ人の体型が変わったのか、現代のように痩身がもて
はやされたのか定かではありませんが。それにしても女性もこんな割れた腹筋が理想であった
とはちょっとびっくりです。

この薄衣の表現は見事ですね。まるで本物のローブのように見えます。

ライオンはいつの時代でも権力の象徴なんですね。

壁画ですが、当時はもっと色彩が鮮やかであったんでしょう。人物描写が結構精緻です。
彫刻とは全く違う芸術表現となっています。フォーラムに集う人たちでしょうか。

この絵をみてボクはぶったまげましたよ。上段には子供、下段には女性が描かれていますが、
これってもしかしたらダンスの解説?現代でいうアニメーションじゃありませんか!
漫画の起源って日本の鳥獣戯画(11世紀)とする説がありますが、これを見るとちょっと怪しく
なって来ましたよ(苦笑)

 

ー続くー

 


イタリア紀行[7] 古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」①

2013年07月30日 15時07分17秒 | イタリア紀行2013

フォロ・ロマーノとはローマ帝政が始まった頃で紀元前6世紀頃に建設開始されたローマの
政治・宗教の核となすラテン語のフォルム(「広場」)であり、首都ローマの中でも最も歴史が
古く最大のものです。
その後東西ローマに分裂した辺りからこのフォルムの機能は廃れ、顧みられなくなって
地中の廃墟化しておりましたが、19世紀に発掘され、現在でもその発掘作業が進められて
います。

ボクがここを最初に訪問したのが四半世紀前。その印象が大分薄れかけてしまったのと、
ここ数年欧州をいろいろと旅をして古代ローマ遺跡を見るにつけ、その原点であるここを
再訪したくなりまた来てしまった次第です。尚、ラテン語のこのフォルムは20世紀後半から
再び脚光を浴びた言葉で、文化人の討論会等で多用され、建築の世界でも広場的意味合い
から「フォーラム」の名前をつける建物が多く現出しています。「フォーラム」はフォルムの英語
訳であります。

凱旋門の脇からちょこっと入ったところに入り口があり、そこで入場料を払って中に入りますが、
確か20数年前には無料であったと記憶しています。それと感覚的には単に遺講があるだけで
案内板もなく、柱の折れたものがごろごろしていた記憶が。それに比べるとかなり整備されて。
これは当時の行政庁の跡でしょうか。ブリック建築ですけど、その巨大さに圧倒されます。
現地の案内板に従えば「Domus Seviriana」となっていました。Google辞書を引いても訳語
が出て来ません。ドムスだから館で後ろはサービスのようですから公共建築物じゃないかと思う
のですが(スペイン語からの連想で間違っているかも知れません)

この広大な構築物跡にはびっくり。同じく案内板には「Stadum」と。恐らくここでも剣闘士が
活躍していたんだろうか。寧ろ演劇とか演説とか、そういう用途であったような気がしますが。
擁壁沿いに無数の柱が見えます。これってまさか天井があったのかしら。そうだとすると
かなりの長大スパンの梁が必要となりますけど。奥の崩れかかった壁面に無数の丸やら
四角やらの穴が空いています。これを見ると相当数の梁があったことが窺えます。

この広場にはガラスケースの中にこんなものが。最初見た時、びっくりしましたよ。
ローマ時代にこんなシュールな彫刻があったんかと(笑)

あとでよくよく考えたら、これって現代彫刻展でありましょう(苦笑)海外の歴史遺産
には、よくこういうモダン・アートが展示されるケースが多々あるので騙されてはいけませぬ
(爆)

この広場を囲む外壁。壁に無数の孔が。これは梁を押さえる孔であろうと思いますが。
前にご紹介したコロッセオにも同じような無数の孔が穿たれておりました。

ボク等が今いるところは「パラティーノの丘」という高台にあります。向こうにはさっきまでいた
コロッセオの巨大な建物が。

 

ー続くー

 


イタリア紀行[6]  凱旋門

2013年07月26日 09時22分05秒 | イタリア紀行2013

コロッセオを出てフェロ・ロマーノとの間にこんな建物が。あの有名なフランスはパリの
凱旋門
はこのローマの凱旋門を模して建設されたもの。

コロッセオとの位置関係は上の写真の通りです。コロッセオがあまりにでかいので、ちょっと
見落としてしまいがち。ここで熱心に写真を撮る人もまばらでありました。

凱旋門の壁面には様々な彫刻が。ローマ後期の彫刻に比べるとギリシャ彫刻の影響が
まだ残っているような気がしますが、浅学なボクの印象なのでどうでしょう。

凱旋門の直下に敷き詰められた石畳。とっても歩きにくいです(苦笑)
「ローマの道は世界に通ず」という有名な言葉がありますが、こんな道がローマの版図の
主要都市に通じていたんでしょうね。約20世紀の長きに亘り姿を留めているこの姿、一体
何人の人々が通り過ぎたことでしょう。

この凱旋門の完成は315年と言われています。この凱旋門の由来は、当時副帝であった
コンスタンティヌスが正帝であったマクセンティウスを312年に破り、ローマに帰還し、この
地で凱旋演説を行ったことを記念しています。

 

この薄衣を纏った天使(?)の彫刻。フランスやスペインの教会建築の装飾に似たモチーフの
ものが多く見られます。やはりローマの影響が広く伝わっているのかと思ったりして。

312年の戦いのシーンでしょうか。素朴な描写に何か親しみを覚えます。

 


イタリア紀行[5]  オードリーを探して④ 「コロッセオ」2

2013年07月25日 09時36分35秒 | イタリア紀行2013

入場料を払って中へ。前回こちらに来たのは5年前であったか。その時は時間がなくて
中に入らずしまいでした。20数年前には来ているのですけど、だいぶ印象が違います。
というか、随分と整備された感じ(前はもっと荒れ果てていたイメージでしたが)

この観客席、ブースに仕切られて。基本的にはあのローマの暑い日差しを避けるための
日除けが施されていたのでしょうね。
なんと驚くことに日除けで一般席でも一日20分以上日が当たらぬよう工夫が施されて
いたといいます。紀元80年にはそんな観客サービスまで考えていたなんて、ローマ人
の叡智に驚かされます。

このコロッセオのディメンションは楕円形で長径188m、短径156m,高さ48M、今の建物で言うと
17,8階建てのビルに相当します。また収容観客数は45000人といいますから現代の球技場でも
最大級クラスの闘技場といえるでしょう。
因みにわが町FC東京と東京ヴェルディのホームグラウンドの「味の素スタジアム」とくらべてみると、
味スタは111Mx75Mで敷地面積は小さく、収容人数は5万人弱ですから、ほぼ同じ規模であります。
如何にあの時代で超が通ほどのイベント会場であったかが分かります。

20数年前には確か見られなかった地下の構造がはっきり見えます。ここは戦士たちの控え室
やら通路、猛獣たちの控え室(?)などになっていたそうです。こうして見ると基本的な構造は
今のスタジアムと比較して大きな変化はありません。人間の進歩ってほんの微々たるものだと
考えさせられます。

最上階の窓から身た外の景色。向こうに見えているのは「フェロ・ロマーナ」と呼ばれる
ローマの町の遺跡です。これも後述しますが、ローマ繁栄の遺講が広大な敷地に広がり
ます。

 

紀元80年の雰囲気で(笑)

以前なかった地下構造物の上に木製の覆いがかけられて。恐らくはここで演劇やらコンサート
やらが行われるんでしょうね。このコロッセオの構造はヨーロッパに数箇所ありますが、
何れも音響効果は抜群であるそうな。

そうそう、以前ポンペイの遺跡で屋外劇場を見学したことがあり、そこで大声を張り上げた
ことがあります、勿論天井のないオープンな、この競技場をそのままスケール・ダウンした
カタチでありますが、その音響効果の良さにぶったまげたものでした。

そんなところにもローマ時代の建築・土木技術のレベルの高さが窺われます。

 

 


イタリア紀行[4]  オードリーを探して③ 「コロッセオ」1

2013年07月24日 09時35分01秒 | イタリア紀行2013

映画「ローマの休日」ではグレゴリー・ペックが運転するラッタッタじゃなくて、スクーターの
後ろにオードリーを乗せてローマ市街を走る場面がありました。確かこのコロッセオの前も
通ったような記憶がありますが。

そうそう、あれはイタリアの名車、「ベスパ」というスクーターでありました。あの映画のお陰で
日本でもスクーター・ブームがあったと思います。

地下鉄の最寄り駅(ボク等はテルミニ駅から歩きましたが)から見たコロッセオです。
紫のしべが綺麗な花が咲いていました。

この建築物はなんと工事開始が75年で80年には実際に剣闘士が試合をやっていたという。
こんな時代に既にこれだけの土木建築技術が完成されていたとは!現代人のボク等の目には
まさに奇跡のように思えるのですが、20世紀の時間を経ても人間の進歩ってほんの僅かじゃ
ないかと思ったり。

最初の写真で上部が欠けていますが、これは地震等の天災地変で崩壊した訳でも、先の大戦
の戦禍の影響でもありません。なんとローマ時代以降、ローマの重要建築物の建材に転用され、
手短な、手軽な石材貯蔵庫であったという歴史があります。

観光客用のローマの戦士たち。写真を撮るとお金を払わないといけないので、遠くから盗撮(笑)

こちらは騎馬警官。イタリアの人にも人気のようで、皆さんポーズをお願いして。気さくに
応える彼らであります。勿論これは無料です(笑)

 

ー続くー

 

 


イタリア紀行[3]  ローマの街角にて

2013年07月23日 10時15分17秒 | イタリア紀行2013

夕暮れ時。そぞろ歩きの群衆。一体どこに行くんでしょう。
と思ったら高校生でしょうか、修学旅行の一団でした。こういう団体に付いて行くと勝手に
市内観光が出来て好都合なのです(最終的にはトレドの泉に辿り着きました 笑) 

 

ヨーロッパの町を歩くと街角には、そこここにマリア像が。以前からカトリックの地にはマリア崇拝が
多いと書いていましたが、今回ふと気づいたことが。どうもボクの歩いているところは海岸沿いが
多いのですけど、海の人たちの信仰の対象は圧倒的にマリアが多い。これってキリストの磔刑以降
マリアはナザレを出て、ヨーロッパに逃げたという伝承があり(事実かも知れません)、それで欧州
各地にマリア終焉の地と云われるところが多いのでしょう。この点については、あの全世界を熱狂
させた「ダ・ヴィンチ・コード」を読むとよく分かります。

何れにしても、神の使徒であるキリストは別格となり、神に限りなく近づきすぎ畏れ多くてボクのように
なんでも困ったときの神頼みとはいかなくなって、それで次に神に近いマリアにお願いをするという
構図はとても自然なものに思えます。日本で言えばブッダはやはり畏れ多いので、菩薩・観音様に
願掛けしたり、はたまた毘沙門に傾倒するという現象が起こったのと似ていると言えるんじゃないで
しょうか。

でも、こうして庶民に愛されたマリア像の姿を見るとなんとも安らぎを覚えるものです。

ヨーロッパでは固まったパフォーマンスがどの街でも盛んですけど。これは初めて。新手の
パフォーマンス。このマジックには参りました。わけがわからん!(爆)
向こう側に写っている少年が近づいて棒の辺りを一生懸命手でぶるんぶるん回すんですけど。
何も引っかかるものがなくてびっくりしてパパの顔をみています。

夜も更けて名物の甘栗屋さんのオヤジさんが遅い夕食を。後ろの現代活花みたいに見えるのは
紙を丸めた焼き栗を入れるカップです。残り方を見ると今日の売れ行きは余りよくなかったようです。 

 夜も11時を過ぎています。ヨーロッパの石畳とフルーツ屋さん。

 

 


イタリア紀行[2]  オードリーを探して② 「トレビの泉」

2013年07月21日 09時04分32秒 | イタリア紀行2013

スペイン広場からコンディッティ通りを通り過ぎ、ふらふらと夕暮れのローマ市街を
1時間ばかり散歩。やがて辿り着いたのがここトレビの泉です。

ローマ市内で一番規模の大きな噴水。泉の上には三体の彫刻がありますが、中央がポセイドン、
左が豊穣の女神ケレーズ、右が健康の女神サルースです。この噴水の元はローマ時代の
アウグストゥース皇帝が作らせたものですが、現在の姿になったのは1762年。

この泉の背面の重厚な造りはポーリ宮殿。

夜の帳もだんだんと降りてきて。不思議なことに明かりの点く頃になると昼間より人出が。 
これで時刻は夜の9時過ぎ。

 

夕食を終えて夜の11時頃。こんなに満杯状態。もうもうびっくり。ラテンの世界は夜が長いです。

長いといえば世界で夜を楽しんでいるのはヨーロッパではスペイン。あとは南米の諸国かなぁ。
ボクの経験で言うとペルー、チリー、コロンビアで夜のパーティに誘われるともうびっくり。開始は
大体9時なんですけど、律儀に9時に来るのは日本人くらい。現地の方は徐ろに11時過ぎくらいから、
三々五々と集まってきて。やっと大方の参加者が揃うのが12時過ぎ(爆)
それまでパーティは始まらないので暇を持て余して、ボク等日本人は呑むだけ(笑)だから
パーティが始まる頃にはもうヨッパの状態で、食事なんかまともに出来ません。で、始まると即
その場を辞去するのがオチ(爆)彼らのお開き時刻は大体明け方の四時過ぎらしい(爆)

さて、この泉。後ろ向きで一枚コインを投げ入れると、再びここを訪れることが出来る。二枚
投げ込むと恋が成就する。そして三枚が傑作ですけど、この場合は恋人やら伴侶と無事に
別れることが出来ると言い伝えられています。これはカソリックのお国柄。離婚が禁じられて
いたことによるものでありましょう。

この日も大勢の観光客が後ろ向きでコインを投げ込む姿が。泉の前面で写真を撮っていると
時々頭にコツンと当たるのが困ります(笑)

 

ー続くー

 


イタリア紀行[1]  オードリーを探して 「スペイン広場」

2013年07月20日 09時13分13秒 | イタリア紀行2013

ローマというとボク等の世代が速攻で思い浮かべるのがあの名作「ローマの休日」。
オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの主演で世界中を魅了した永遠の傑作。
王妃と新聞記者との成就しない悲恋物語ですが、その本質は観光映画。ローマの
魅力を完璧に描き出しています。

公開が1953年ですので、もう既に半世紀以上経つのですけど、未だにローマを訪れる
観光客は老若男女を問わず、あのオードリーの愛くるしい姿を思い浮かべ、映画のシーン
を辿る人が多いのが驚きです。斯く言うボクもその一人ですけど、如何に傑作映画が
人々に影響を与えるか、上の写真のスペイン広場に屯する人々の姿でよく分かります。

映画ではオードリーがこの階段でイタリア名物ジェラートを食べていましたが、あはは
この付近でジェラートを売っているお店はなかったです。どうも現在はこの広場で飲食
はご法度になっているそうで、その影響かも知れません。

因みに最初のキャストはオードリーではなく、エリザベス・テーラーが予定されていたん
ですってね。映画の制作費用が膨大にかかるらしいということで、急遽新人のオードリー
が起用されたとのこと。彼女は初出演でアカデミー賞の主演女優賞を獲得しています。
あの映画はリズではここまで愛される映画になっていなかったかも。作品が女優を呼び、
女優が作品を呼んだということなんでしょうね。

あの偉大な彫刻家であり建築家であったベルニーニ作の「バルカッチャの噴水」です。

ところでこの「スペイン広場」は階段と広場を含んだ総称ですが、この付近にスペイン大使館があり、
それでこの名前が通称になったとか。元来は上にそびえる「トリニタ・ディ・モンテ教会」のアプローチ
であります。

実はこのスペイン広場は何回も訪れているのですけど、この教会に注目したのは今回が初めて(苦笑)
いつもこの階段を通る気がしないほど人で溢れかえっているのですけど、この日は時折雨が降ったり
止んだりで、これでも観光客がかなり少なかったのです。で、ちょっと登って教会を見てみましょうとなった
次第。 

訪問した時は丁度ミサの最中。残念ながら内陣に入るのを遠慮しました。内部はイタリアの
教会にしてはかなり質素な趣でありました。
この教会はなんとフランスのルイ12世の命により1502年に着工しています。

入り口直ぐの左手に飾られたピエタ像の彫刻。この内陣の奥にミケランジェロの弟子が描いた
「聖母マリア被昇天」という名画があるのですけど、残念ながら上記の理由で見られませんでした。

教会前から見たローマ市内。この一望出来る範囲がローマ市内で尤も賑やかなところなん
ですけど、教会のドーム以外の高層ビルがなく、階高の一定した町並みはとても心安らぐ
ものがあります。

 

教会前から見下ろした大階段とスペイン広場。正面の真っ直ぐな細い路地が、いわゆるローマの
銀座通り「コンドッティ通り」。えっと思われるほどの細い道ですが、この両脇にはイタリアの誇る
ファッションの有名ブランドが軒を並べています。

さすがにこの道を通る人達も大変にオサレ~なんであります。

 

ー続くー 


イタリア紀行[1] 懐かしのローマ・テルミニ駅

2013年07月19日 15時06分52秒 | イタリア紀行2013

ドバイを朝発って、その日の午後空港から電車に乗ってイタリアの首都、ローマへ。
空港からテルミニ駅まで約30分くらい。意外と早かったです。

テルミニ駅といえば映画「終着駅」で有名ですが、イタリア映画の傑作の多くに使われた
名所。ボクはローマには4,5回来ているのですけど、初めてここを訪問したのが確か
1980代の終わりかなぁ。そこでスリの洗礼を受けて、それ以来近寄らないようにしていた
のです(苦笑)

20数年経ってトラウマも漸く癒えて、また変わり様を見てみたい気持ちになり再訪となりました。

それ以来のテルミニ駅ですが、ちょっとイメージが変わった。20数年前はカマボコ型の鉄骨の天井
に覆われていたと思ったのですけど。ちょっと風情が違ってがっかり。あの終着駅のイメージからは
ほど遠くなりました

駅前のバス乗り場です。20数年前にスリの集団に遭遇したのがこの広場であったような。

当時の情景は昨日のことのように記憶しています。家族旅行で駅前のホテルから市内観光
に出てすぐ。テルミニ駅前はスリが多いので気をつけるというのは熟知していたので、手ぶら
でパンツの左のポッケにイタリア・リラ(当時で3千円くらい)と右には中東の小額紙幣30枚
(色が緑で遠目にはドル札のような紙幣で30円相当)を入れ、右の30円を盗ってもらおうと
いうボクの戦略であり、左手はポッケに入れたまま。薄い白い色のパンツでしたので、外から
なんやら沢山のドル紙幣を持っている観光客に見えた筈です。

そしてこの付近の交差点で信号待ちをしていたら、向こう側にスリ集団と思しき小学生低学年
くらいの背格好の典型的なジプシー集団がいるじゃありませんか。当時の典型的なスリ集団で
先頭の女の子がタブロイド版の新聞を両手で広げて彼らも戦闘態勢を取っている。そして彼ら
の目線はボクの顔に。

その姿、まるでゾンビ集団のよう。表情が全くないんですよね。ひと目でピンときて、奥様と二人
の子供に、「あれが絶対にスリ集団だよ。何を彼らがするか少しボクから離れて彼らの動きを
きっちり見てるんだよ」と厳命したものでした。そして信号が変わって、悠然と彼らのほうに向か
ったものでした。丁度横断歩道の真ん中あたりで7,8人の子供がボクに突進してきて。まず
先頭の女の子が新聞紙を広げたままボクに突進。それを避けた瞬間、ポッケに手を突っ込んだ
ボクの左手の二の腕辺りに激痛が。どうも誰かが強く爪を立ててくれたようです。思わずポッケ
から手を離し左横にいた子供を振り払って突き飛ばしたものでございます。

そうしたら丁度一緒に同じ方向に歩いていた老婆が物凄い勢いで持っていたステッキでその
子どもたちを追い払ってくれて。やたら正確に叩きまわって、見ているボクのほうが呆気に
とられたんですけど。そして無事信号を渡り終えて、後ろから着いてきた家族を振り返り、
「どう、何か盗られたかしら」と聞いたのですけど、三人とも「何も盗られてないと思うよ」との
返事。「そうだろ、ちゃんと警戒心を持っていれば大丈夫なんだよ」と自慢げなパパであったの
ですが。おもむろに右のポケットを探ると、はい、無傷。そして左のポケットを探ると・・・

ありゃ、ないでございます!!!(爆)

まぁ、なんと家族の6つの目には全くわからなかった芸術的なスリでありました。やられた本人
も感心しきり。おまけに無防備にしていた中東の紙幣には全く手をつけていない!!
爪を立てられた手を振りほどいたその一瞬だったんでしょうね。見事なものです。
そして杖で追い払った老婆、あれもジプシー集団を捕まらせないためにわざと追い払ったんじゃ
ないかと後で思った次第です。

その後、道を歩いて注意深く観察しましたが、大体観光客の多いところには必ずこの集団が
おりましたね。そして極めつけは遠く200mくらい離れた所でカモを物色している男がいた
こと。こいつがハンディ・トーキーで子どもたちに指示をしているのを目撃までしましたよ。
今なら携帯があるからもっと巧妙に出来るかもです。

当時滞在中、このスリ集団には何回か遭遇。最初の経験が活きまして、彼らに出食わすと
寧ろ積極的にこちらから突進。大声を上げて先につっかかることにしましたら、あはは、それこそ
蜘蛛の子を散らすように逃げてくれましたっけ(笑)

因みに20数余年が過ぎて、今ではローマ名物であったこのジプシー集団は殆ど見られなくなり
ましたが、スリは相変わらずの被害があるようです。但し、今回の旅行中にはそれらしき人には
出食わさなかったように思います。

テルミニ駅から出る地下鉄。ローマ滞在中はこれを結構利用しました。二路線しかなく、全てテルミニ
駅からですので、非常にわかりやすいですね。